研究における困難

『マスコミ』という言葉が死語になりかけてると聞いたことがあるが、新聞や雑誌を中心としたメディアのことなんで、あえてこの言葉を使わせていただくと、少なくとも昭和においては、日本のプロレスマスコミは世界最高だったかもしれない。東京スポーツや、『プロレス』、『ゴング』といった雑誌が充実していて、バックナンバーさえあれば、ミゼットプロレスや大半の昭和の女子プロレスを除くと、大体の試合結果を調べることができる。

もしかしたら、メキシコもある程度充実しているのかもしれないが、自分はスペイン語ができないので知る余地もない。それ以前に、自分の印象では、メキシコも日本やアメリカ同様、外国語教育が大したことないのか、インターネット上でも、メキシコから積極的に英語圏の人達と連絡を取ろうという意欲のある人を殆ど見ることがない。

ヨーロッパについては、元々基本的に少しくらいは英語を知ってる人達が多いし、昔と比べると、近年はイギリスやアイルランドのような英語圏外の国々においても、色々と研究して英語での情報を発信してくれる人達が少しずつ現れてきている。

アメリカの場合、日本と違って、新聞やテレビ局は全国的か地方都市発信かのどちらかなので、小さな州でない限り州全体のものが殆どない。要するに、プロレスが地方制だった頃も、ある一つの地区全体を対象とした新聞やテレビ局も無かった。昔から、試合結果を調べたい町まで実際に行って、地元の図書館に閉じこもって研究をしていた人達が何人もいたが、その町で何曜日にプロレスの興行があったかを調べ、その前後の記事や広告を、マイクロスコープを覗きながらノートに書き込んでいくという、膨大な作業だったようだ。

現在は、インターネットの新聞アーカイブサービスで、プロレスが始まったと言われる19世紀中頃からの新聞記事の大半を読むことができる。文章内検索もできるので、これまで聞いてきた昔の話とは比べられないほど楽だ。自分は3つの有料サービスに登録し、それに加えて時々Google Newsの新聞アーカイブも使っている。また、必要に応じて、ニューヨーク・タイムスやアトランタ・コンスティテューションなど、第三者による複数の新聞を集めたサービスに載せず独自でオンラインアーカイブを持っている新聞に一時的に登録して集中して調べ上げることもある。

だが、先人達の労苦に比べると何でもないとはいえ、それでも研究上難しい点が色々とある。決して愚痴を言いたいわけではないが、幾つか挙げてみたい。

『wrestling』
単に、この言葉で検索すればいいというものではない。

「今日も政治家たちは法律と格闘している。」というような場合にも、この言葉が使われるからだ。

また、1930年代頃までの新聞でやたらと多かったのが、酒場や誰かのアパートでの『friendly wrestling』が大ゲンカにつながって怪我人や酷い時は死人まで出たという記事。じゃれて相撲してたのか、または酔っ払って力試しをしたかったのか、遊びのつもりが喧嘩になったという具合だ。

『mat』
ボクシングの『ring』に対して、プロレスの『mat』なわけだが、多くの場合、プロレスに関する記事なのに、『wrestling』という言葉が一度も出てこなく、『mat』とだけ記述されていることもある。1950年代頃までの記事だと、『mat card』や『mat champion』という言葉での表記も多い。これが、ボクシングと区別して検索する際、厄介になる。

アマレス
アマチュアからプロに転向というケースは当然多いが、第二次世界大戦前は、プロレスとアマレスの両方に出場し続けていた選手も結構多かったようだ。そのうえプロの選手達も所属する地元のスポーツクラブなどが主催のイベントだと、プロなのかアマなのか不明確な場合も多い。

ボクシング
通常、『fight』という言葉が入っていたり何ラウンドの試合か明記されていればボクシングだと判るが、それらの記述がないと、どちらの試合結果なのかわからないこともある。同時期にプロレスとボクシングの両方で活躍する選手というのも珍しくなかったので、これまた解り辛い。その上、同じ興行の中で、プロレスとボクシングの両方の試合が行われてたことも多かったので、更に混乱を招く。

繰り返し
冒頭でも書いたが、同じ地区内でも、都市ごとに新聞とテレビ局があり、よその町で何が起こったか報道されない場合が多かったので、同じ試合が繰り返されるというのも稀ではなかった。ある町で、選手Aが選手Bから王座を奪取しても、翌日、同地区内の別の町で同様にAがBから同じ王座を奪取したというのも多くあった。例えば、ロサンゼルス近郊の場合、ロングビーチでの王座移動がサンバーナーディーノやベイカーズフィールドで繰り返されるといった具合だ。そういった場合、ロングビーチで先に王座移動があっても、こちらで見つかったのがその翌日のベイカーズフィールドでの王座移動だとしたら、Wrestling-Titles.com内のページを更新する際、ベイカーズフィールドのを載せてしまうわけで、時として何年も後になって、ロングビーチのものが見つかってからやっとそのページに正しい情報を載せるということもある。

1970年代
今尚NWAを追う(3) – 地域制崩壊』で書き忘れたことだが、1970年代に入ると、地方新聞におけるプロレスの試合結果に関する報道が極端に減っている。毎週、その週のカードが発表されることはあっても、結果に関する記事がない、といった具合だ。プロモーターが金を払って新聞に載せてもらう広告も、選手権試合という記述はあっても、どちらが王者かまでは書いてないことが多い。新聞がプロレスの相手をしなくなったのも、地方制崩壊の原因の1つではないかと思われる。

ダラスやメンフィスのようなプロレスが盛んで引き続き新聞に試合結果が載っていた地域を除くと、1990年代後半に一般にもインターネットが普及しウェブサイトの数が増えるまでの間の情報は、ファンによる同人誌などからでないと、一般的に地方団体の試合結果を入手するのは難しい。今でこそ、当時の同人誌の多くがPDFで出回っているが、スキャンされたものにOCRをかけたところで誤認識なもよくあるわけで、ネットでの検索ほど楽にはいかない。

新聞記事がない町
当然のことながら、インターネットのアーカイブサービスで昔の記事を載せてない新聞もたくさんあり、中にはプロレスが盛んだった町のものもある。以下はその一部。

  • オクラホマ州タルサ – 1979年にビル・ワットがルイジアナとミシシッピでの興行権を買収するまでは、レロイ・マクガークの中南部地区の中心地だった。地元の選手権が移動したことも多かったと推測されるが、世界ジュニアヘビー級王座の防衛戦も多かったはず。この地域もまた、タルサで起こったと思われる王座移動が、後日オクラホマシティやアーカンソー州リトルロックなどでも繰り返されていたようなので、解り難い。
  • テキサス州ヒューストン – モリス・シーゲルの本拠地で、1966年にジャック・アドキッソン (フリッツ・フォン・エリック)が興行戦争に勝つまでは、テキサス地区の中心地だった。テキサス州選手権の多くはヒューストンで移動があったはず。
  • アラバマ州バーミンガム – 1970年代までは、ナッシュビルのニック・グラスの傘下として、ジョー・ガンサーが主宰。同地区の中心地ではなかったが、選手権変遷史の中で王座移動が不明な部分が多いことを考えると、ここでの試合結果をもっと入手できればと思う。

綴り違い
もちろん、選手の名前の綴りが間違ってると検索にひっかからない。マツダ・ソラキチが『Matsada』、ダニー・マクシェーンが『McShain』ではなく時々『McShane』と表記されていたというのは有名なので、まだ推測しながらの検索ができるが、予想できない間違いも多い。例えば、最近見つけたので、K・O・マーフィーという選手の『K・O』が『Kayo』と綴られているというのがあった。おそらく新聞編集部の人間が現場の記者かプロモーターから電話で名前を聞き出した程度だったのだろう。

新聞記事だけではなく、プロモーター側が用意した宣伝広告でも間違いが多かった。こんな調子でいい加減なんで、後年『トーゴー』が『ポーゴ』、『ムトー』が『ムタ』になったところで、全く不思議に思えない。

以上、色々と挙げさせていただいたが、プロレスに限らず、英語で新聞アーカイブを利用して研究する上で、何等かの参考になればと思う。

今尚NWAを追う(11) – サイコな奴

ビリー・コーガンとデビッド・ラガナの新会社『ライトニング・ワン』によって買収されたNWAは、2017年9月末を以って、全ての加盟団体との契約を終了、単独団体としての道を歩み始めた。

コーガン政権の始まった10月から4ヶ月経ったが、今のところどちらかというとプロレス団体というより、プロレスを題材にしてドキュメンタリー的な要素を含むインターネットの連載ドラマに近い。試合内容はともかく、数日毎にアップロードされる映像を通して、各選手の人気を向上させていく、…というか、ドラマやアニメ的な表現を使うと、登場人物を発展させることに長けていると思う。その上、重要な試合はネットで生中継。そうすることによって、今後のストーリー展開を待ち望むファンが増え、少しずつかもしれないが、より多くのファン達の支持を得始めているような印象を受ける。

そういうわけで、今後の『今尚NWAを追う』シリーズは、所謂『アメプロ』というジャンル、その中でもインディ系のものが好きでないと楽しめないかもしれないということを予め申し上げておく。

2017年9月、新生NWAが最初に実行したのは、ティム・ストームを『未知の世界王者』として紹介、チャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド(CWFH)に初参戦させることだった。

ノンタイトル戦で勝利した後、元TNA世界ヘビー級王者ニック・オルディス(ブルータス・マグナス)が登場、ストームの王座に挑戦を表明した。約2ヶ月後の11月12日、CWFHの会場でストームはオルディスの挑戦を退けるが、押え込みに入る直前、ストームの片足がロープにかかっていたことを試合後にオルディスが指摘、ストームの「いつでもどこでもやってやる」の返事で、後日両者は再戦に同意した。

以後、YouTubeのシリーズによって、数ヶ月前までNWAファン以外にはほぼ無名だったストームが、米プロレス界において突如話題の選手となる。ストームの家族や、平日は高校の歴史教師だという私生活も紹介し、王座脱落の際の引退の可能性でファンに危機感を持たせることにより、52歳の世界王者ストームに対する感情移入を煽った。
オルディス戦から5日後の17日、テネシー州クラークスビルでの防衛戦が組まれたが、挑戦者が発表されたのは前日のことだった。同州を中心に活躍する、これまた全国的には無名のジョセファスという奇怪な選手からのビデオレターが公開された。NWA登場前まで、ジョセファス・ブロディというリングネームを使っていたが、その名のとおり髪も髭も長く、ラフファイトを売り物にしてきた。結局、ジョセファスはフォール負けに屈したのだが、途中ストームに目を攻撃され、「反則技で『3%』視力が落ちた」と意味不明の主張をし、再戦にこぎつける。

翌18日、ストームはテネシーからフィラデルフィアまで移動し、トミー・ドリーマー主催のハウス・オブ・グローリー(HOH)の大会に向かった。ドリーマーはリング上にストームを呼び出し挑戦を直談し、ストームも「いつでもどこでもやってやる」と返す。かつて王座決定トーナメントに優勝したシェーン・ダグラスが『過去の遺物』と言わんばかりにNWAのベルトを投げ捨てた会場に、23年ぶりにNWA世界ヘビー級王者が登場した。皮肉なことに当日は試合開始前のサイン会のため、ダグラスも会場に来ていた。またストームは2日後、デスマッチ系の試合で有名なコンバット・ゾーン・レスリング(CZW)からの挑戦も受諾した。

ストームは12月2日のCWFH大会で再びジョセファスを破るが、試合後のハシゴを使った攻撃により肋骨を負傷。結果、NWAはジョセファスに45日間の謹慎処分を下す。

1週間後の12月9日、ストームはフィラデルフィア郊外にあるニュージャージー州シーウェルでのCZWの大会に出場。リング上でマット・トレモントがストームを呼び出し挑戦を表明するが、イーサン・ページやMJF(マクスウェル・ジャコブ・ファインスタイン)らも続けて登場。挑戦者が定まらない中、なんと、1970年代から1980年代にかけて南部一帯で大活躍し、メンフィスではジェリー・ローラーやビル・ダンディに並ぶスターだったこともあるオースティン・アイドルが登場、「いつでもどこでも彼の挑戦を受けると言っただろ。それが今夜だ。」と、ニック・オルディスにこそ再戦の権利があると主張し、即試合が決定した。

だが、CZWという『場違い』とも思えるような環境の中、負傷したまま出場したストームは、わずか4分10秒で王座から転落してしまう。あまりのあっけなさに、ファンの意見も分かれた。一部の人達は「やっと若くて将来もあるオルディスが王座を奪取してくれた。」と喜び、他の人達は、「あそこまで盛り上げたんだから、ストームにはもっといい花道を用意してあげれば良かったのに。」と嘆いた。また、「NWAのことなんてどうでもよさそうなファンが多いCZWで、それもあんな短い試合にしたのは、本当に負傷していたからじゃないのか?」という声もあった。

一方、ジョセファスは、謹慎期間中、『スピリチャル・アドバイザー』なる女性を連れてきて言った。「今、俺は『スピリチャル・アドバイザー』の助言により、『瞑想の期間』に入っている。人々は、俺の風貌が別の人間に似ているという。奴のような試合をし、奴のように叫ぶってな。奴の真似をしてるだけだって言うんだ。でも俺は『スピリチャル・アドバイザー』から助言をいただいた。俺は100%オリジナル。パクリでもなんでもない。そのブルーザー・ブロディって男のな。」

当初、多くのファンは、せっかく盛り返してきたNWAが、早速『偽ブロディ』のような無名な挑戦者を選んだことに難色を示したが、ここでもまた、度重なる映像の発信を通して披露されたその演技力がファンを引き付け、それに加えて無言だが十分存在感のある『スピリチャル・アドバイザー』の登場により、ジョセファスは(少なくともNWAにおいては)脱『超獣もどき』からサイコなキャラを確立しつつあった。

更に、引き続き『瞑想の期間』にいるというジョセファスは、王座から脱落したばかりのストームに、ある提案をする。「君は僕のことを責めてるようだが、負傷しているのにCZWの会場まで行った君が悪いんだよ。僕とは何も関係ない。でも僕には『愛』ってのがある。君のことを愛しているから、『報復』という贈り物をしよう。僕と試合をさせてあげよう。ただし、日時も場所も僕が指定、そして君が持っているNWA王座の再戦権を賭けるんだ。」

当然のごとく拒否したストームに対して、ジョセファスは追い打ちをかける。「『スピリチャル・アドバイザー』から助言をいただいたんだ。せっかく君に『報復』という贈り物をしようとしたのに、君は拒否した。ならば、別の相手にこの贈り物をしよう。君がよく知ってる相手にね。」 2人が向かったのは、ストームの娘の家だった。結局、娘一家は留守だったが(笑)、これにより、ストームはジョセファスの『提案』を受け入れる。2018年1月14日、場所は、なんと、コーガンとラガナの古巣、TNA改めインパクト・レスリングの会場『インパクトゾーン』で、実況席もレフリーも全てインパクト・レスリングから起用。それも観客なしの『エンプティ・アリーナ・マッチ』だった。
丸腰になり、更にジョセファスに負けることで王座挑戦権まで失ったストームが進退を問われる中、オースティン・アイドルをマネージャーに就けた新世界王者ニック・オルディスは、大計画を打ち出そうとしていた。

 

幻の世界王座統一戦

1963年1月、米国北東部を牛耳っていたキャピタル・レスリング・コーポレーションは、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースをほぼ独占していた。トゥーツ・モントと共にキャピタルを経営していたビンス・マクマホン・シニアは、前年のNWA年次総会以来第2副会長だったが、会長だったカール・サーポリスのアマリロ地区では、ロジャースによる防衛戦が全く行われていなかったという始末。当然NWA会員達の不満は高まり、ロジャースを王座から引きずりおろすのを望む声が増えていった。

そんな中、1月24日、トロントでロジャースとルー・テーズの試合が組まれる。

当時のNWA世界ヘビー級王者は、王座を奪取する際に、2万5千ドルをデポジットとしてNWAに預けるという義務があり、王座から脱落する時に払い戻してもらうという仕組みだった。それまで幾度かにおよび『負傷』などを理由に防衛戦をキャンセルしてきたロジャースも、この日はサム・マソニックNWA会長から、「この指定試合に出ないとデポジットをチャリティに寄付する。」との忠告を受け、出場を決断した。またマソニックは、途中でロジャースが何等かの口実を作って試合を放棄しないために、3本勝負ではなく1本勝負にした。そのうえ、試合前のレフリーとの打ち合わせの際、挑戦者のテーズからも、「今日の試合は、楽な方法か辛い方法のどちらかにしよう。」と脅された。結果、テーズが王座を奪取した。

マクマホンとモントは、トロントでの試合が1本勝負だったということを理由として王座移動を認めず、引き続きロジャースを王者に認定したが、2月7日、同じくトロントでの3本勝負でテーズがロジャースを破り王座を防衛したことから、翌月、「リオデジャネイロでのトーナメントに優勝した」とし、新しくワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)の名で改めてロジャースを世界王者に認定した。

マソニックは、WWWFが次期王者にデビューから4年しか経っていないブルーノ・サンマルティノを仕立てようとしていたのを聞きつけ、即トロントのフランク・タニーに依頼し、同地でのテーズとサンマルティノのNWA選手権試合を組んだ。3月14日、テーズは24分44秒でサンマルティノの挑戦を退ける。テーズに負けて間もない2ヶ月後の5月17日、サンマルティノはロジャースからWWWF世界王座を奪取、7年8ヶ月におよぶ長期政権が始まる。

ちなみに、同年8月のNWA総会で、マクマホンの後任としてジム・クロケット・シニア(キャロライナ地区)が第2副会長に就任した。つまり、マクマホンはWWWFを『発足』してからの数ヶ月間、引き続きNWAでも役職に就いていたということになる。その後もマクマホンはNWAの総会に出席し続けた。

2年後の1965年、マクマホンとモントは、マソニックとテーズに、ある商談を持ちかけた。双方と友好関係を保っていたタニーを立会人とし、シカゴのモリソンホテルのスイートルームで5人は会った。

テーズとサンマルティノの間で、NWAとWWWFの世界王座統一戦をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行おうという提案だった。全米でクローズドサーキット中継をすれば100万ドルの収益が見込まれ、その上ガーデンの入場料も普段より高くすれば更に20万ドルは稼げそうだという。WWWFから前金としてテーズとマソニックにそれぞれ2万5千ドルを支払い、当日はサンマルティノが勝ち、何度も再戦を繰り返して、更に儲けた後、翌年テーズが王座を奪回するという案だった。

だが、テーズはWWWFの2人のことを全く信用していなかった。2人が再戦の話を放棄し、そのままNWA王座を再び独占するという思惑を察したのだ。また、これだけ大きな話であるにも関わらず、テーズにとってはNWA王座を2週間も防衛すれば稼げていた2万5千ドルで話を片付けられようとしていたことに、侮辱さえも感じていた。

当時のNWAでは、世界ヘビー級王者が出場する際、その興行収益の10パーセントが世界王者に支払われるという規約だったが、テーズは、WWWF側がクローズドサーキットで見込まれると主張した100万ドルの10パーセントの10万ドル、および試合会場となるガーデンでの収益の10パーセントを前金として要求した。また、長年の業界での功績を称えるという意味で、エド・ストラングラー・ルイスに収益の3パーセントを支払うことも条件とした。

マクマホンは、「そこまで多額な金を支払う必要はない。我々はお互いの信用に基づいてビジネスをするべきだ。」と言った。すかさずテーズも、「俺の条件は伝えた。」とかえした。

そこでモントは、2人きりで話すため、テーズをトイレに誘い、自腹を切って更に2万5千ドル出すので、話を引き受けるよう説得しようとした。

遡ること30年、若手時代の1936年春、テーズは中西部からテネシー州を経て、ロサンゼルスに転戦した。当時のプロモーターはルー・ダロー、ブッカーがモントだった。テーズは、選手達が1日10ドル程度しかもらっていなかったのに、ブッカーとして毎週約5千ドルもポケットに押し込んでいたモントの『ピンハネ』を忘れていなかった。

テーズはモントに、「今朝飲んでるコーヒーの代金を払う気さえない奴が何を言ってんだ。その2万5千ドルっての、硬めの小切手でも書いて(ケツにでも)ぶち込んどけ。お前とあのもう1人の泥棒野郎が12万5千ドル用意できないなら、この話は無しだ。」と言って、トイレを去り、スイートルームに戻って行った。

一儲けできると同時にWWWFを再びNWA傘下におけるという状況を想定し、話にほぼ同意しかけていたマソニックは、テーズが憤慨してトイレから戻ってきたことを察し、テーズと2人きりになり言った。「NWA会長として、防衛戦への出場を命令する権利がある。」

それに対してテーズは、「命令なら出場するが、試合には勝つ。」と返答。あくまで負けるのを拒否し、統一戦に出場するのであれば、自ら王座統一する前提で、サンマルティノに対して『仕掛ける』ということを主張した。いくら50代に突入しかけていたとはいえ、1932年のデビュー以来、ルイスだけではなくジョージ・トラゴスやアド・サンテルといった伝説のシューター達に鍛えられ、世界中で王座を防衛してきた百戦錬磨のテーズにしてみれば、ニューヨークでの主役の座を不動のものとしていたところで、所詮ボディビルダーから転向して数年しかたっていないサンマルティノに負ける気は全くなかったのだ。

当然の結果として、WWWFが企んでいた統一戦の話はなくなった。

マソニックは、テーズが既にNWAの管理できる王者ではないことを(改めて)実感、これまで何度も『波』があった2人の関係も再び悪化し、同年の年次総会で他の会員達からもテーズは世界王座を返上するべきだという声が上がった。だが、テーズは返上ではなく、後任としてジン・キニスキーを提案。翌1966年1月、テーズはセントルイスでキニスキーに世界王座を明け渡し、1949年以来3度奪取したNWA世界王座に最後の別れを告げることになる。

尚、サンマルティノは後年、「仮に統一戦の話が実現していたとしても、過密なスケジュールを求められるNWA世界王者になることには興味を持たなかっただろう。」というコメントを残している。

 

今尚NWAを追う(10) – 嵐と稲妻

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。

…という出だしは今回で終わり。今後は余程のことがない限り、上記『4』について書いていくことになる。おそらくこれまでほど頻繁な更新にはならないと思うが、『今尚NWAを追う』という意味では、ここからが本番なのかもしれない。

2017年5月、ロックバンド『 スマッシング・パンプキンズ』の中心人物ビリー・コーガンと、15年にも及んで米国3大プロレス団体をシナリオ作家として渡り歩いたデビッド・ラガナが設立した新会社『ライトニング・ワン』は、ブルース・サープの『インターナショナル・レスリング・コープ』から、NWAブランドの買収を発表、迷走していた時代に終止符を打つ。コーガンの知名度と資金力にラガナの創造性が加わることにより、NWAは新時代に突入した。

コーガンやラガナのインタビューによると、NWAの『再生』を焦って進める気はなく、契約予定選手は数人、2018年春に第1回を予定している自主興行も、年に数回できれば上等だと考えているらしく、それ以外は色々な他団体に選手を派遣することにより、とにかくNWAというブランドと、その世界ヘビー級王座の価値を再び上げていくことに専念したいとのこと。また、試合を含む色々な映像をインターネットで無料発信していくことにより、より多くの人々にNWAを知ってもらうという方針だ。

1993年のWCW離脱以来、NWAの体制が変わる度に世界ヘビー級王座は空位になっていたが、コーガンとラガナは買収の約半年前に王座に就いたティム・ストームを継続して認定。長年メジャーなプロレス団体で脚本家を務めてきたラガナによると、ストームが52歳というプロレスラーとしては峠を越えていてもおかしくない年齢で、尚且つ全国的には(NWAファン以外にとって)無名な選手だという事実を、ストーリー展開の題材として使わない手はないのだと言う。

2017年9月、NWAはまず手始めに、TNAと提携終了からサープ時代到来までの間のNWAで中心人物の1人だったデビッド・マルケスのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド(CWFH)のテレビ中継にストームを登場させた。マルケスと前NWA社長サープのお世辞でも友好とは言えない関係を知り、現在CWFHが加盟するユナイテッド・レスリング・ネットワーク(UWN)が既にベルトまで作成し独自の世界ヘビー級王座決定トーナメント開催の準備をしていると聞いていたファン達にとっては驚くべきニュースだった。約5年ぶりにロサンゼルスのマットにNWA世界ヘビー級王者が登場したのだ。

以後、『黄金の10ポンド』と題したYouTube上のシリーズにおいて、ドキュメンタリー形式の映像を使い、なんと、ストームをあえて『未知の世界王者』として改めて多くのプロレスファンに紹介した。
11月12日には、CWFHの中継で、ストームが元TNA世界ヘビー級王者ニック・オルディス(ブルータス・マグナス)の挑戦を退ける。その後、多くの選手達がNWA王座挑戦を表明し、トミー・ドリーマーが自ら主催するハウス・オブ・ハードコア(HOH)のリング上でストームに挑戦を直談し、CWFHと同じくUWNに加盟するコンバット・ゾーン・レスリング(CZW)でも世界選手権試合の開催が発表された。

ちなみに、これを書いている時点でのNWAのYouTubeチャンネル登録者は約1万6千人。プロレス界全体を見ると、ROHの20万人やメキシコのコンセホ・ムンディアル・デ・ルチャ・リブレ(CMLL)の9万人とは比較にもならない数字だが、新日本プロレスの英語チャンネルが3万6千人、WWEと提携してNXTの2軍的扱いになっているワールド・レスリング・ネットワーク(WWN)が1万9千人だということを考えると、2017年10月に始まったばかりのチャンネルがこれだけの登録者数を持っているのは上出来ではないかと、自分は思う。いずれにせよ、サープが5年かけてできなかった、アメリカの(新日本を見ていない)ファンの間で再びNWAの知名度を上げるということを、コーガンとラガナは数ヶ月でやり遂げたのだ。ただ気になるのは、YouTubeやfacebookなどのSNSでは相当活発だが、未だウェブサイトがないということ。春の自主興行開催と同時に大きく発表するのであればいいのだが…。

新生NWAは、プロレス関連のメディアに限らず、ローリング・ストーンやスポーツ・イラストレイテッドといった世界的に有名な雑誌、ハフポスト、およびシカゴ・トリビューンやボストン・ヘラルドなどの新聞でも取り上げられ、コーガンだけではなく、ストームまでもがインタビューを受けた。コーガンとラガナの手腕により、NWAは再び全米規模の脚光を浴びることになった。

また、YouTubeでのドキュメンタリーの中で、ストームの家族や、平日は高校の歴史教師だという私生活も紹介し、「王座脱落の際には引退も考えなければならないかもしれない」というコメントによってファンに危機感を持たせることにより、52歳の世界王者ストームに対する感情移入を煽った。

そんな中、ストームの抗争相手として白羽の矢が立ったのは、かつてコーガンが設立に関わったシカゴのレジスタンス・プロ・レスリング(RPW)で活躍し、現在はテネシー州周辺のインディ団体を拠点にしているジョセファスという奇怪な選手だった。

 

今尚NWAを追う(0) – 1948年以前のNWA

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。それが上記『1』の時代にあたるわけだが、今回はちょっと寄り道して、それ以前に遡ってみる。

1948年7月の発足以前の米国には、『NWA』という団体が少なくとも3つ存在した。

ナショナル・レスリング・アソシエーション
本拠地: ミシシッピ州フライアーズポイント(会長事務所)
会長: ハリー・ランドリー(1930年9月~1960年代)
1930年 – 1985年
日本では何故かこの団体のみが『旧NWA』と呼ばれているが、おそらく、昔NWA(アライアンス)が発表していた世界ヘビー級王座の『公式』記録上で、初代アライアンス王者のオービル・ブラウンをほぼ無視し、このアソシエーションの王者だったルー・テーズが継続してアライアンス王者に認定されたような印象を持たせたからだと思われる。
ワールド・ボクシング・アソシエーション(WBA)の前進であるナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)のレスリング部として発足し、1930年9月にNWAとして独立した。トム・パックス(セントルイス)とレイ・ファビアニ(フィラデルフィア)が中心となり、ジム・ロンドスをヘビー級王者として売り出したかったから設立されたという説もあるが、ジュニアヘビー級からウェルター級までの各階級においても世界王座を認定していた。
セントルイスでは、1945年12月から、サム・マソニックがパックスに対抗して興行を始めるが、1946年6月には、パックスの興行権をルー・テーズが受け継ぎ、短期間ながらマソニックとテーズが敵対関係にあった。
テーズが引き継いだ1ヶ月後の1948年7月にアライアンスが発足。その後もアソシエーションは存在し続けていたが、セントルイスではテーズがマソニックに合流することに同意。翌1949年11月、アライアンス世界ヘビー級王者ブラウンとの統一戦がブラウンの交通事故による引退のため中止になり、テーズが統一王者に認定される。
その後、アソシエーションの世界選手権の殆どにアライアンスと同じ王者を認定したが、ヘビー級に関しては1960年代中期の時点でWWWF世界王者ブルーノ・サンマルティノを認定していたことから、1963年1月にテーズに敗れた後も引き続きバディ・ロジャースを認定していた可能性がある。
その後も有名無実の存在だったが、書類上では1985年10月正式に閉鎖。

尚、前述のアライアンスによる当時の『公式』記録上では、1938年に、アソシエーションがスティーブ・ケーシーから王座を剥奪し、同年9月の総会でエベレット・マーシャルを認定したことになっているが、実際にアソシエーションが剥奪したのは、ジャック・ペゼックであり、ケーシーは当時AWA(ボストン)世界王者だった。いくら強引にリック・フレアーからテーズを経由してアソシエーション王座を遡っても、マーシャルで止まってしまう。また、1930年のアソシエーション発足の際、ロンドスが王者に認定されたのは、前年開催の王座決定トーナメントに優勝してニューヨーク州体育協会から認定されたディック・シカットを破ったことに基づいているので、その流れを遡ってもシカット止まり。つまり、いずれの流れを辿ったところで、どう考えてもゲオルグ・ハッケンシュミットやフランク・ゴッチが保持していた世界王座には行き着かないのである。『Wrestling-Titles.comについて』でも書いたが、オービル・ブラウンを初代王者にしない限り、NWA世界王者を『第何代』と数えるのは、やはり無理なことだと自分は思う。

ナショナル・レスリング・アライアンス
本拠地: カンザス州ウィチタ
プロモーター: マックス・バウマン、ペリー・バッシュ、ビリー・サンドウ他
1941年 – 1948年
現在判明している中で『ナショナル・レスリング・アライアンス』の名称を使った最初の団体。ウィチタのマックス・バウマンやペリー・バッシュらが、かつてエド・ストラングラー・ルイスのマネージャーとして活躍し、1920年代にはルイスとトゥーツ・モントと共に『ゴールド・ダスト・トリオ』として米プロレス界に大きな変革をもたらしたと言われるビリー・サンドウと運営。
1941年1月、当時のアソシエーション世界ヘビー級王者レイ・スティールが挑戦を受けなかったという理由で、ロイ・ダンを世界王者に認定。戦後の1946年11月、アイオワでアライアンス世界王者として認定されていたオービル・ブラウンが当時のアライアンス(ウィチタ)王者エド・ヴィラグを破り王座統一(下記参照)。

ナショナル・レスリング・アライアンス
本拠地: アイオワ州デモイン
プロモーター: ピンキー・ジョージ
1943年 – 1948年7月
アイオワ州では1940年頃からMWA(カンザスシティ)世界ヘビー級王者オービル・ブラウンを認定していたが、1943年5月、「ミネアポリスとフィラデルフィアで行われたトーナメントで、オービル・ブラウン(MWA王者)とビル・ロンソン(アソシエーション王者)を破った」とし、アライアンス(ウィチタ)世界王者のエド・ヴィラグをアイオワ州でもアライアンス王者として認定。1944年にはMWA王者ブラウンが「ヴィラグから王座を奪取した」という報道のもと、アイオワ州でアライアンス世界王者として認定されたが、1946年11月、ウィチタでブラウンがヴィラグを破り正式に王座統一。
ジュニアヘビー級も、1943年5月頃からアライアンス世界王座を認定。
1948年7月、ピンキー・ジョージはマソニックを含む中西部の5人のプロモーター達と共に正式にプロモーター達の連盟を設立、名称も自分が使ってきたナショナル・レスリング・アライアンスにし、改めてブラウンを初代世界ヘビー級王者に認定する。ジュニアヘビー級もアイオワでアライアンス王者だったビリー・ゲルズを認定。
だがジョージは本来、中西部で共通の世界王者を認定したかった程度で、全米はおろかカナダやメキシコまで加盟団体が増えることは想定しておらず、予想以上にNWAが膨れ上がったことに疑問を持っていたという。発足から僅か2年会長を務め、その後マソニックによる長期政権が始まり、1959年には自ら創立したNWAを脱退した。

結局、1948年発足のナショナル・レスリング・アライアンスが、上記3団体の流れを受け継ぐことになる。

 

南部の大家族

1940年代から1980年代まで、テネシー州アラバマ州を牛耳った、ウェルチ一族。これだけの人数なのに来日したことがあるのも(多分)2人だけだし、少なくとも自分は、彼らに関する日本語での記事をあまり見たことがないので、とりあえず紹介してみる。

第一世代は、元々オクラホマ州ポーハスカの出身だが、テネシー州の北西部にあるダイヤースバーグに移住し、南部プロレス界での活動を始める。

  • ロイ・ウェルチ
    1930年代からレスラーとして南部一帯で活躍、世界タッグ南部ライトヘビー級同タッグなどの王座を奪取した。1940年代からはニック・グラス(ナッシュビル)のパートナーとしてテネシー州およびアラバマ州、ミズーリ州南東部、ケンタッキー州西部をプロモーターとして牛耳った。

    • バディ・フラー (ロイの息子)
      1950年代、アラバマ州南部を中心としてプロモーター兼選手として活動。1953年、メキシコ湾岸地区のプロモーターだった父ロイ・ウェルチとジョー・ガンサーから興行権を譲り受け、ガルフコースト・チャンピオンシップ・レスリングを旗揚げするが、1959年、従兄弟のリー・フィールド(下記参照)に譲り、その後レスラーとして他地区においても活躍。

      • ロン・フラー (バディの息子)
        1970年選手としてデビュー。1974年には、ニック・グラスやジョー・カザナと共にテネシー州東部のプロモーターだった祖父ロイ・ウェルチから同地区の興行権を譲り受け、NWAサウスイースト・チャンピオンシップ・レスリングを旗揚げ。1977年には父バディの従兄弟のリー・フィールド(下記参照)からメキシコ湾岸地区地区の興行権も買収、1980年にはニック・グラス撤退後のアラバマ州北部にも進出し、地区を拡大、1988年まで興行を続けた。1981年にはNWA第2副会長に就任。1983年、全日本プロレスの世界最強決定タッグリーグ戦に、バリー・ウィンダムのパートナーとして出場。
      • ロバート・フラー (バディの息子)
        兄ロン同様、1970年選手としてデビュー。兄弟で南東部地区の運営に携わっていた時期もあるが、メンフィスやジョージアなど他地区でも選手として活動。1990年代に入ってからもWCWWWFで悪役マネージャーとして活躍した。
    • ルビー・ウェルチ (ロイの娘) & ビル・ゴールデン (ルビーの夫) – ビルは、アラバマ州モントゴメリーやアニストン、ギャズデン、およびミシシッピ州やジョージア州の一部でプロモーターとして活躍。
      • ジミー・ゴールデン (ビル & ルビーの息子) – 1970年代から1980年代にかけて、メンフィス地区や南東部地区などで活躍。1971年11月、日本プロレスのワールド・チャンピオン・シリーズに参戦。1990年代にはWCWにもバンクハウス・バックとして登場、WCW世界タッグ王座も奪取した。また、2010年7月には、1度だけだがWWEスマックダウンで、ジャック・スワガーの父親役としても登場。
    • >> フィル・ゴールデン (ビル・ゴールデンの兄弟)
      1972年から1974年末まで、 ケンタッキー州やウェストバージニア州で『オールスター・レスリング』のプロモーターとして活動。
  • ジャック・ウェルチ
    主に1940年代から1950年代にかけてレスラーとして活躍。

    • ジョアン・フィリップス (ジャックの娘 – ジャックの妻の妹という説もあり)
      1960年代にレスラーとして活躍。
  • ボニー・ウェルチ & スピーディー・ハットフィールド  (ボニーの夫)
    スピーディーは義兄弟ロイ・ウェルチの興行でレフリーとして活動。

    • リー・フィールズ (スピーディー & ボニーの息子)
      1959年、弟のボビーと共に、従兄弟のバディ・フラーからメキシコ湾岸地区の興行権を買収、1977年にバディの息子ロンに譲るまで同地区を運営した。選手としても主に1960年代にテネシー地区やメキシコ湾岸地区で活躍。

      • リッキー・フィールズ (リーの息子)
        1970年代にレスラーとして活躍。
    • ドン・フィールズ (スピーディー & ボニーの息子)
      1960年代にレスラーとして活躍。

      • ジョニー・フィールズ (ドンの息子)
        1970年代にレスラーとして活躍。
    • >> バディ・カーソン (ドンの妻の兄弟)
      1970年代にレスラーとして活躍。
    • ボビー・フィールズ (スピーディー & ボニーの息子)
      1959年、兄のリーと共に、従兄弟のバディ・フラーからメキシコ湾岸地区の興行権を買収、1977年にバディの息子ロンに譲るまで同地区を運営した。選手としても主に1960年代にテネシー地区やメキシコ湾岸地区で活躍。

      • ランディ・フィールズ (ボビーの息子)
        レフリー。
      • シェーン・フィールズ (ボビーの息子)
        レフリー 。
  • ハーブ・ウェルチ
    主に1940年代から1950年代にかけて南部一帯でレスラーとして活躍、世界ジュニアヘビー級同タッグ南部ジュニアヘビー級同タッグ他多くの王座を奪取した。

    • ドイル・ウェルチ (ハーブの息子)
      1960年代にレスラーとして活躍。
  • レスター・ウェルチ
    1940年代から1970年代まで、長きにわたってレスラーとして、南部一帯で活躍、世界タッグ南部タッグ王座を奪取した。

    • ジャッキー・ウェルチ (レスターの息子)
      1970年代にレスラーとして活躍。
    • ロイ・リー・ウェルチ (レスターの息子)
      1970年代から1980年代にかけてレスラーとして活躍。

おそらく、カルガリーのハート一家やサモアンズのアノアイ一族に次ぐくらいの大家族ではなかろうか。

今尚NWAを追う(9) – 買収

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。それ以来、幾度にも及ぶ体制の変更があったが、約30年後、NWAというブランドが初めて正式に買収される。

2012年、加盟団体保険制度の不正を理由に、NWA本部を相手取った裁判に勝訴することにより、『トニー・ブルックリン』ことクリス・ロンキーロ(NWAヒューストン)と『ミスター・フレッド』ことフレッド・ルーベンスタイン(ニュージャージー)と共にNWAの名称、ロゴ、選手権などの資産を手に入れたブルース・サープ(テキサス州ブラウンズビル)は、それから僅か2年4ヶ月の間に2人のパートナー達を追い出し、NWAを独占してしまう。裁判による『乗っ取り』から5年、約60もの団体が年会費を払って加盟しては離脱するということが繰り返され、もはや、質などどうでもよく、会費だけ集めるというような状態に陥っていた。加盟団体の中で、定期的に興行し、動員数も運営面でも安定していたのは、4、5団体程度で、それらはNWAのブランド抜きでも成功していたと思われる。

迷走するNWAに、サープ政権前の主要会員だった『チャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド』(CWFH)のデビッド・マルケスの復帰を望むファンもいたが、マルケスは既に、テレビまたはインターネットで定期的に番組を放送しているということを加盟の条件として、アメリカやカナダにある幾つかの団体と共に『ユナイテッド・レスリング・ネットワーク』(UWN)を結成、独自の世界選手権の設立を発表していた。また、約1年だけサープ政権下のNWAに加盟していた『ファイト・ネーション・レスリング』(イギリス)のビリー・ウッドが、実際にサープとNWAの買収について交渉していたが、結局決裂。長年のNWAファン達には、方向性があるとは思えない運営によって、サープがNWAに止めを刺すのではないかという不安があった。

そんな中、2017年5月1日、突如として、ロックバンド『スマッシング・パンプキンズ』の中心人物ビリー・コーガン(ウィリアム・パトリック・コーガン)によるNWAの買収が発表される。

昔からプロレスファンだったというコーガンは、2000年にエクストリーム・チャンピオンシップ・レスリング(ECW)リングに登場したこともあるどころか、ポール・ヘイマンからECWへの投資の依頼もされたことがあるという。2011年には、シカゴのインディ団体『レジスタンス・プロ・レスリング』の設立にも関わり、2014年に「方向性の違い」を理由に離脱するまで運営に関わった。翌2015年には、トータル・ノンストップ・アクション・レスリング(TNA)にプロデューサーとして加入。同団体に出資もしていたことから、2016年8月にはTNAの社長にも就任したが、11月にはTNAと新しくTNAの親会社になったアンセム・スポーツ&エンターテインメントによるコーガンに対する未支払いなどの金銭上のトラブルを理由に離脱した。その後、アンセムとは和解したがTNAに戻ることはなかった。

個人的には、この件があったので、しばらくコーガンはプロレス界と関わりたくないのではないかと思っていた。NWA買収の話を知った時には、「その手があったか! なぜそれを予想できなかったんだろう…。」というのが正直な感想だった。

コーガンは新会社の副社長としてデビッド・ラガナを起用。ラガナは長年脚本家として活躍しており、1999年からは1シーズンだが、NBCの人気番組『フレンズ』のアシスタントを担当、1話丸ごと脚本を担当したこともあった。実は自分はそれより何年も前、インターネットが一般に普及する以前のオンラインサービスのプロレス掲示板でラガナと連絡していた時期があったのだが、数年後、本当にプロレス界で働き始めるとは思ってもいなかった。それも2002年から6年もの間、WWEでストーリー作家及びプロデューサーとして活躍していたのだ。2009年からは2年9ヶ月ほどリング・オブ・オーナー(ROH)でプロデューサー、2011年には数ヶ月間マルケスのCWFHでブッカーを務めた後、ストーリー作家としてTNAで活躍し始める。そして2016年11月、5年間働いたTNAをコーガンと共に脱退。決して一般のファンの間で有名というわけではなかったが、実は米プロレス界3大団体においてストーリー作家として約15年もの経験を持つ人材だ。

こうして、コーガンとラガナが設立した『ライトニング・ワンInc』が新しくNWAの親会社となった。コーガンによると、NWAの活動としてはあくまでYouTubefacebookなどで映像を無料配信することが中心で、2018年春に第1回を予定している自主興行も、年に数回できればいいと考えているらしく、それ以外は色々な他団体に選手を派遣することにより、とにかくNWAというブランドと、その世界ヘビー級王座の知名度を再び上げていくことに専念したいという。また、ラガナはインタビューの中で、往来の制度だったら、NWAを買収する際、出資者である全会員と交渉しなければならないところ、サープがNWAというブランドを既に独占していたため、買収が本来の体制よりも安易だったと話す。だが、サープ政権下の各加盟団体と話し合った結果、殆どがコーガンとラガナの持つ方向性と違うという理由で、加盟制度自体を廃止することを決定。

ちなみに、ラガナ本人に問い合わせたところ、当面は世界ヘビー級王座に集中して、ジュニアヘビー級タッグなど、サープから買収した他の選手権については、封印でも空位でもなく『保留』だとのこと。

1993年のWCW離脱以来、NWAの体制が変わる度に世界ヘビー級王座は空位になっていたが、コーガンとラガナは買収の約半年前に王座に就いたティム・ストームを継続して認定。それも、52歳の全国的には無名な選手だという事実をあえて題材にし、YouTubeのドキュメンタリーシリーズを使ってストームを売り出すという賭けに出たのだ。

1948年の発足以来初めて加盟制度を持たない単立団体となったNWAは、コーガンの知名度と資金力、そこにラガナの創造性が加わることにより、これまでにない展開を見せ始めようとしていた。

 

AWAいろいろ

一言で『AWA』と言っても、プロレス史上、何度も使われてきた略称だ。超マイナーなインディ団体も含めると、おそらく現在でも幾つか存在する。

ここでは米国内のAWAを紹介する。

アメリカン・レスリング・アソシエーション
本拠地: ボストン
プロモーター: ポール・バウザー
1930年頃 – 1957年
トム・パックス(セントルイス)や天敵レイ・ファビアニ(フィラデルフィア)が中心となってジム・ロンドスを売り出していたNWA(アソシエーション)に対抗して、バウザーが立上げた団体。1922年からボストンで興行を始め、ナショナル・ボクシング・アソシエーションのプロレス部門だったNWAが正式に発足した1930年には既にAWAの名を使っていた。
1949年から1957年までNWA(アライアンス)に加盟していたが、1952年まで独自の世界王座を認定していた。
1957年、NWAを1954年1月に脱退していた元ロサンゼルス地区のプロモーター、ジョニー・ドイルと結託、同年バウザーもNWAを脱退し、大西洋体育協会(AAC=アトランティック・アスレチック・コミッション)を発足、6月にシカゴでルー・テーズを破ったエドワード・カーペンティアを世界王者に認定。だが1959年、ドイルは東海岸を離れ、ジム・バーネットと共に中西部を中心に活動を始める(下記参照)。翌1960年7月12日、バウザーは心臓手術を受け、かろうじて15日の興行にこじつけたが、2日後の再手術の際、他界。

アメリカン・レスリング・アソシエーション
本拠地: オハイオ州コロンバス
プロモーター: アル・ハフト (MWAミッドウェスト・レスリング・アソシエーション)
1950年 – 1954年
ハフトはNWAに加盟していたにも関わらず、1950年5月23日、クリーブランドでボストン版AWA王者フランク・セクストンとドン・イーグルとの選手権試合を開催、イーグルが奪取した。3日後の5月26日、イーグルはシカゴでフレッド・コーラーによるダブルクロスに遭いゴージャス・ジョージに王座を奪取されるが、8月31日、オハイオ州コロンバスで奪回。1952年5月1日、ピッツバーグでビル・ミラーがイーグルから奪取するが、引き続きボストンではイーグルが認定され、AWA世界王座が分派される。オハイオ版は、1954年、バディ・ロジャースが王者の際に剥奪され封印。ロジャースは以後、同地区で東部ヘビー級王者として1960年まで活躍するが、同年シカゴに移り、USヘビー級王者に認定され、1961年6月にパット・オコーナーから世界王座を奪取するまで中西部および東部一帯で同王者として活躍する。

アメリカン・レスリング・アライアンス
本拠地: シカゴ
プロモーター: レオナルド・シュワルツ
1950年1月 – 1955年8月
1949年、NWAシカゴ地区プロモーターのフレッド・コーラーと袂を分かったレオナルド・シュワルツが使った団体名。実際にはNWAに加盟していたが、コーラーに対抗する際、トゥーツ・モント、レイ・ファビアニ(フィラデルフィア)、ポール・バウザー(ボストン)、アル・ハフト(オハイオ)と、そうそうたる面子の支援を受け、その結果、一時だがコーラーがNWAから脱退していたこともあるくらい異様な状態になっていた。世界ヘビー級王座には、当初ボストン版AWA王者だったドン・イーグルを認定していたが、1951年には独自にラフィー・シルバースタインを認定。1952年10月には、オハイオ版AWA王者バディ・ロジャースが、シルバースタインを破り、両王座を統一した。尚、シカゴAWAでは、ジュニアヘビー級に、オハイオMWAの世界王座をAWA王座として認定していた。

アメリカン・レスリング・アライアンス
本拠地: デトロイト、クリーブランド他
プロモーター: ジョニー・ドイル & ジム・バーネット
1960年1月 – 1964年
NWAを脱退しロサンゼルスから東海岸を経てデトロイトに移ったジョニー・ドイルと、フレッド・コーラー(シカゴ)の部下だったジム・バーネットを中心に、NWA会員ではないプロモーター達によって結成。2人はデトロイトを拠点に、1959年からコーラーと共に活動し始めるが、1960年1月、コーラーと袂を分かち、シカゴ地区の主要タイトルだったUSヘビー級王座をデトロイトに移した。NWAの会員ではなかったが、地区によってはNWA系のプロモーターと協力する場合もあれば、別の地区ではNWA系のプロモーターに興行戦争を仕掛け、圧勝することもあった。
例えば、デトロイトでは、NWAの創立メンバーの1人でもあるハリー・ライトと敵対、ライトはコーラーやキャピタル・レスリング(後のWWWF)のトゥーツ・モント(ニューヨーク)とビンス・マクマホン(ワシントンDC)と共闘したが、1961年末頃にはプロレスの興行から手を引く。
またサンフランシスコでは、1935年から同地区を牛耳っていたジョー・マルセウィッツに対して、ロイ・シャイアーを同地区のプロモーターとして仕立て挙げた。マルセウィッツは、1962年に引退。実際に同地区でAWAという名は使われてなかった可能性もあるが、かつて、シャイアーにより認定されていたUSヘビー級世界タッグ王座が、日本の雑誌ではAWA王座として紹介されていたのは、これが理由かと思われる。
1964年には、ドイルとバーネットがオーストラリアに移り、傘下だったインディアナポリスもバルク・エステスからディック・ザ・ブルーザーに政権が渡ると、このAWAも自然消滅。1968年、シャイアーはNWAに加盟。
尚、新日本プロレス創成期にカール・ゴッチが『保持』していた世界ヘビー級王座は、かつてこのAWAが認定していたもの。

アメリカン・レスリング・アソシエーション
本拠地: ミネアポリス
プロモーター: ウォーリー・カルボ & バーン・ガニア
1960年5月 – 1991年
昭和プロレスファンにはお馴染みAWA。オマハやインディアナポリス、メンフィスの各地区と提携はしていたが、NWAの様なプロモーター達の連盟ではなく、あくまでカルボとガニアが実権を握っていた。
日本では1957年のルー・テーズ対エドワード・カーペンティア戦からAWA選手権が始まったと言われてるが、実際には、その試合後、オマハ地区のプロモーター、ジョー・デュセックがカーペンティアを認定し、後にその同地区認定世界選手権AWA選手権に統一された事実からそういった説が出たと思われる。
かつてはNWAやWWWFとならび、米国三大団体の一つだったが、必ずしもNWAやWWWFとライバル関係ではなく、むしろ政府からの独禁法違反調査の対策案としてNWAがAWAやWWWFの発足を裏で認めていた。それを証拠に、NWAには「NWA世界選手権以外の世界ヘビー級選手権の認定を禁止する。」というルールがあったにも関わらず、スケジュール多忙なNWA王者をブッキングできなかった場合はNWAの会員プロモーターがAWAやWWWFのチャンピオンを呼んでいたケースも少なくないし、NWA年次総会にも、ガニアやWWWFのビンス・マクマホン・シニアが出席していたと言われている。
1980年代に入り、WWFやジム・クロケット・プロモーションズの全米進出の中、AWAはテキサスWCWAなど他のプロモーター達と提携するが失敗に終わり、ガニアのワンマン体制は新しい時代に適応できず、1991年にAWAは活動停止する。

AWAスーパースターズ
本拠地: ミネアポリス
プロモーター: デール・ガグナー
1996年 – 2008年10月
1996年、ガニアのAWAによる自己破産関連の裁判で、デール・ガグナー(Gagner、フランス語ではGagne=ガニアと発音が同じ)がAWAの団体名やロゴなどの権限を買収したと主張、デール・ガニア(Gagne)を名乗り、バーンやグレッグの『遠縁』だとし、新しくAWAを旗揚げ。多くの団体がこの『新生AWA』に加盟したが、2006年頃にはWWEが1996年以前のAWAに関する商標の全てを買収、商標問題を理由にガグナーを告訴した。AWA加盟団体の大半がこれにより脱退。日本のZERO1も、加盟団体として大谷晋二郎や大森隆男が同世界ヘビー級王座を保持。2007年12月にZERO1は脱退したが、当時のAWA世界王者田中正人が引き続きZERO1から世界ヘビー級王者に認定。ZERO1脱退以降、ガグナーは、旧AWA最後の世界王者だったラリー・ズビスコが「一度も王座を奪われていない」ことを理由に、世界王者に認定。
だが、WWFによる告訴の結果、2008年10月、ガグナーは裁判所から全てのAWAに関連する名称の使用停止を命じられる。以後、翌2009年まで「レスリング・スーパースターズ・ライブ!」とし団体を継続。

アメリカン・レスリング・アフィリエイツ
本拠地: ウェストバージニア州パーカースバーグ
プロモーター: ???
2008年4月 – 2009年1月
2008年4月18日、ウェストバージニア州ファイエットビルにて、3ウェイ戦でブライアン・ローガンが、AWAスーパースターズ世界ヘビー級王者ラリー・ズビスコとリッキー・ランデルを破り、王座を奪取するが、同じ頃、デール・ガグナーのAWAスーパースターズに加盟していたウェストバージニアおよびバージニア、テネシー東部の数団体がAWAを脱退、王座が二つに分かれる。AWAスーパースターズは引き続きズビスコを認定するが、脱退派は新たにアメリカン・レスリング・アフィリエイツを立上げ、ローガンを認定。だが、このAWAは長続きせず、同年11月にはチャンピオンシップ・レスリング・アライアンス(CWA)に改称。2011年2月にはNWAに加盟したため、CWAの世界ヘビー級世界タッグテレビの全ての選手権がNWAスモーキーマウンテン王座に改称した。

他にも幾つかあるはずだが、とりあえずWrestling-Titles.comに載せているものを挙げてみた。

 

今尚NWAを追う(8) – ワンマン経営

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、Pro Wrestling Organization, LLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: International Wrestling Corp, LLC設立~Lightning One, Inc.(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。その後、色々な団体と提携しながらも、2007年にはついに独自の道を歩もうとしていたが、5年後の2012年には『内乱』により、プロモーター達が加盟して発言権を持つという1948年の発足以来続いた制度も終わりをつげようとしていた。

2011年、テキサス州の2人のNWA会員、ブルース・サープ(ブラウンズビル)と『トニー・ブルックリン』ことクリス・ロンキーロ(NWAヒューストン)は、加盟団体用保険制度に不正があることを指摘、NWA本部を相手取り裁判を起こし、勝訴。NWA理事の1人だった『ミスター・フレッド』ことフレッド・ルーベンスタイン(ニュージャージー)を加えた3人でインターナショナル・レスリング・コープLLCを立上げ、商標や選手権などのNWAの資産をプロ・レスリング・オーガニゼーションLLCから新会社に移管した。その結果、2012年9月で3人を除く全会員がNWAから離れた。

NWA本部が直接管理してきた殆どの選手権は、引き続き同じ選手達が保持したが、世界ヘビー級王座だけは、アダム・ピアースとコルト・カバナの間で争われていた7番勝負の最終戦を主催したオーストラリアの団体が新生NWAに加盟していなかったという理由で選手権試合として認定されず、その結果空位になった。

新しい体制として、出資者としての加盟制度を廃止、年会費およびその他の費用を払うことによりNWAの名称とロゴを使えるというフランチャイズ的な形での加盟制度となった。LLCではあるが、発言権があるのはサープ、ロンキーロ、ルーベンスタインのみで、加盟団体は単に費用を払い、本部からの要請があれば、それに従うのみだった。それまでのNWAの最高責任者が『会長』であるのに対し、サープが単に『シャチョー』として知られるのは、そういった理由による。

2012年11月、ニュージャージー州クレイトンで、8人参加バトルロイヤルによる王座決定戦が開催された。ピアースもカバナもいない中、長年のNWAファン達は、2007年のトーナメントにも出場し、以後も南部を中心に活躍していたダミエン・ウェインが優勝することを期待していた。

ここから先は、ロンキーロ、ルーベンスタイン、ウェインら本人達によるNWAファン掲示板への投稿から得た情報が中心。どこまで信憑性があるかは不明だが、ロンキーロとルーベンスタインが多くのことについて作り話とは思い難いくらい詳しく書いているのは確か。

ウェイン本人もそのバトルロイヤルに優勝する予定だと聞かされていて、夫の晴れ姿を見てほしいと、わざわざテネシーからニュージャージーまで夫人を連れてきていた。

当日会場に現れるはずだったサープ社長はドタキャン、代わりにウェイン夫婦に対して計画変更を報告するという『汚れ役』をルーベンスタインに任せた。今回は別選手が優勝し、ウェインは後日テキサスでの試合で王座を奪取するということだった。実際の試合の途中、『トーキョー・モンスター』カハガスの追加参戦が発表され、結果的にはカハガスがウェインをフォールし王座を奪取。その後テキサスでウェインが奪取するという計画も、いつの間にか流れていた。

この時既にルーベンスタインのサープとロンキーロに対する不信が始まり、翌2013年、ついに2001年から加盟していたNWAと袂を分かつ。

その後間もなく、NWAは新日本プロレスと提携。選手としての信頼性は高いが、割と小柄で日系人のカハガスが世界ヘビー級王者だと、新日本に対して説得力に欠けていたという理由からか、カハガスの王座は4ヶ月で終わり、2013年3月にはロブ・コンウェイが奪取。以後、サープは自ら悪役マネージャー的な役割を演じ、コンウェイをはじめ数名のNWA選手達を率いて新日本に参戦。小島聡や天山広吉が世界ヘビー級王座をコンウェイから奪取し、ジュニアヘビー級タッグも新日本の選手達が保持した。

ロンキーロによると、提携期間中、サープはNWAを新日本に数百万ドルで売り払おうとし、新日首脳陣を呆れさせたという。また、いつでもどこでも出たがりで自分中心だという理由もあり、サープに不信感を持ち始めた。

その後、サープとロンキーロの関係も悪化し、2014年にはNWAの副社長辞任を迫られ、脱退。ロンキーロの離脱により、幾つかの加盟団体もNWAとの契約を更新しなかったが、結局、サープが窓口では新日本との関係も長く続かなかった。世界ヘビー級王座は2015年8月に天山がジャックス・デインに、世界タッグ王座は同年10月にデイビーボーイ・スミス・ジュニア & ランス・アーチャーがヒートシーカーズに、そしてジュニアヘビー級王座は2016年3月にタイガーマスクがスティーブ・アンソニーにそれぞれ明け渡してNWAと新日本の提携が終わる。

ルーベンスタインとロンキーロを追い出すことによって、あの『NWA』が、サープだけの所有物となってしまった。

サープに関しては他にも色々疑惑があるが、全てが真実かどうかは不明だし、自分も、1人の人間を集中して非難するようなことは書きたくない。ロンキーロとルーベンスタインも和解し、2人とも昨年前半までは、機会があれば必ずサープについての批判を書き込んでいたので、詳しくは、英語ではあるが、NWAファン掲示板を参照して自分で判断していただけたらと思う (例えばこのスレッドなど)。

2016年10月、51歳のティム・ストームがデインから王座を奪取、NWA史上最年長の世界ヘビー級王者となる。アーカンソーやテキサス東部を中心に活躍していたストームは、1995年にデビューした20年のキャリアがあるベテランで、地元のインディ団体などではそこそこ人気があったが、全国的に有名とは言えない存在だった。

2012年の『乗っ取り』から5年、約60もの団体が年会費を払って加盟しては離脱するということが繰り返された。会費さえ払っていれば、質などどうでもいいという状態で、中には年に2、3回しか興行をしない加盟団体もあった。当然、観客数十人というのも珍しくなかった。NWAから加盟発表があっても全く興行の無かったという団体もあった。定期的に興行し、動員数も運営面でも安定していたのは、4、5団体程度で、それらはNWAのブランド抜きでも成功していたと思われる。

『チャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド』のデビッド・マルケスの復帰を望むファンもいれば、実際にNWAを買収しようとしていたと言われる『ファイト・ネーション・レスリング』 (イギリス)のビリー・ウッドを応援するファンもいたが、計画性があると思えないサープによる運営がNWAに止めを刺すと感じていたファンも少なくないはず。

だが、サープからNWAを救った(かもしれない)のは、これを書いてる自分も「その手があったか!」と思った、驚けるような驚けないような人物だった。

 

Wrestling-Titles.comについて

自分がプロレスを観るようになったのは、小学4年生の時の夏。初めて新日本プロレスの中継を観て即はまってしまった。『ビッグレスラー』のような雑誌や小学館の『プロレス入門』などの本は勿論、雑誌の付録でプロレス関連のものまで、色々夢中になって集めた。

ある日、何かの付録だったか、選手名鑑のようなものがあったので、じっくり目を通していた。そして、あることに気が付いた。

全日本プロレスの外人選手欄に、ハーリー・レイスが元NWA世界ヘビー級王者、ニック・ボックウィンケルがAWA世界ヘビー級王者として載っていたこと。新日本の方には、ボブ・バックランドがWWFヘビー級王者となっている。後に、弟が持ってた『がんばれ元気』で、ボクシングにもWBCとWBAってのがあるのを知ったが、小学生だった自分は、単純に、「なぜ『世界』チャンピオンが複数いるんだろう…」と疑問に思った。

その後も、プロレスの選手権について更に色んな疑問が出てきたので、中学1年の時だったか、ついに、ガキの分際で東京スポーツに電話して、「アメリカには、どんなプロレスのタイトルがあるんですか?」などという、とんでもない質問をしてしまった。さすがに全てを答えてくれるわけはなかったが、幸い、電話に出てくれた方が、「アメリカは、各州ごとに団体がありまして、それぞれがヘビー級とかタッグとかのタイトルを認定しているんで、とても多いんですよ。」みたいな感じで結構親切に答えて下さり、その中の幾つかのタイトル名と当時のチャンピオンを教えてくださった。

そして中2の時、ある1冊の本に巡り会う。自分の記憶では中1だったんだが、発売月を見ると中2だったらしい。

豆たぬきの本シリーズの太田優著、『プロレススーパータイトル戦』という、シリーズ名どおり小さな本だ。

日本の主要王座やリーグ戦、NWA、AWA、WWFの三大ヘビー級王座は勿論、UWA(メキシコ)やWWA(ロサンゼルス)、そしてWWFインターコンチネンタル、ミズーリ州、更にはAWAやWWFのタッグ王座まで、色々な選手権の歴史が載っていた。主要王座については、それまでも雑誌の記事などで時々目にしてたが、まとめて載ってる本というのは、自分にとって初めてだった。その後の自分自身の研究量が半端じゃないので、さすがに最近は開くことがないが、渡米30年以上経った今でも我が家の本棚に置いてある。

Wrestling Title Histories1990年代初期、テキサスで大学生だった自分は、インターネットのニュースグループで、プロレス史研究家のゲリー・ウィル氏と出会う。彼はその頃すでにロイヤル・ダンカン氏と共に、有名な『Wrestling Title Histories』を出版していた。その頃自分も Puroresu Dojo (その頃はまだ大学からもらった学生用アカウント上のウェブページだったが…)の中で選手権変遷史を載せ始めていたが、ウィル氏の許可により、『Wrestling Title Histories』の内容を自分のページに載せることができた。Puroresu Dojoはその後puroresu.comというドメインに移すが、その中でも更に選手権変遷史の情報量が増えたため、2000年にWrestling-Titles.comを新しく立ち上げた。いずれにせよ、今でもその本に載っている選手権の数は、自分のサイトに載ってる数には比べ物にならないくらい多い。英語圏の国であれば、どこの図書館にも置くべき本だと思うのだが、残念なことに、既に絶版。

ところで、当初はWrestling-Titles.comに日本語の情報を載せる気は全くなかった。先月も書いたとおり、元々極力『裏事情』について触れずに、スポーツ的な観点で情報提供をしたいという気持ちがあったのだが、アメリカのプロレス史を調べれば調べるほど、それはほぼ不可能だったわけで、「夢を壊す」ようなことを、わざわざ日本語で載せる必要もないと思っていた。

だが、日本語の本やサイトを見ると、間違った情報が多いことを実感した。そこで数年後、思い切って日本語の情報も載せることにした。それには、2つの大きな理由があった。

1つは、相変わらず、フランク・ゴッチを初代王者、フレッド・ビールを第2代王者とした世界ヘビー級選手権史が多いということ。実際には、初代はゲオルグ・ハッケンシュミット(英語圏や日本ではジョージ)、第2代がゴッチで、ビールは同王座を奪取していない。ビールはゴッチから米国王座を奪取したが、その後ゴッチが奪回、ハッケンシュミットに挑戦した。そもそも、NWA(アライアンス)が、『公式』記録としてゴッチを初代王者とした歴代王者一覧を発表したのが原因だが、直接つながりのない昔の王座も含めて『第何代』などと数えるのも無理がある話だと思う。Wrestling-Titles.comを見て下さってる方々は承知の事実だとは思うが、今尚続いているNWAの初代世界ヘビー級王者は、第二次世界大戦後に認定されたオービル・ブラウン以外の何者でもない。

もう1つは、2005年頃、ある日本のプロレス誌に載っていた歴代NWA世界ジュニアヘビー級王者の一覧が、正直、かなりでたらめに思えたということ。

タイガーマスク(4代目)が、かつて初代タイガーが保持していたベルトを奪取したいというコメントをした頃の記事だったが、ザ・コブラが返上してからの情報が全て省かれ、その次に載っていたのはテネシーで「トーナメントに優勝」したブラックタイガーだった。実際には、同王座はそれ以前から続いていて、事実、ベルトこそは違ったが、新日本プロレスにおいても、8冠統一トーナメントに茂木正淑が王者として出場。その後、1997年11月に大谷晋二郎が返上してからも、1999年3月に米国で王座決定戦が行われた。また、ブラックタイガーはトーナメントに優勝したのではなく、ナッシュビル郊外のコロンビアでジェイソン・ランブルから奪取し、ベルトも当時アメリカで使われていたもので、初代タイガーが保持していたものと違っていた。その試合を主催していた『NWAメインイベント』のサイトにも映像が載っていた。

ちなみに、数年前、当時のブラックタイガーの正体だった選手と会う機会があったので、念のため、テネシーで試合したのは本人かどうか尋ねてみたところ、実際そうだったという返事だった。

他にも幾つか理由があったような気もするが、基本的に、昔日本の雑誌に載っていたまま研究し直してないような変遷史を見かけることがしばしばあったので、できるだけ正確なものを提供したいと思い、日本語の情報も、英語側のほんの一部に過ぎないが、追加することにした。

話を元に戻すと、太田氏やウィル、ダンカンの両氏が出版した本は、自分の人生を変えた存在のようなものかもしれない。最近でこそ、オンラインの新聞サービスで昔の記事を検索しやすくなったが、それ以外にも、これまで多数の方々が情報を提供してくださり、本当に感謝しきれない。

プロレス大国アメリカにおいても、スポーツとして記録されてきたボクシングとは違い、プロレスはサーカスのような扱いをされることが多かった。アメリカには、過去の殆どの国内記録を保存している日本のプロレスマスコミのようなものはない。だからこそ、パズルのピースを探して組み合わせていくかのような、プロレス史研究の面白さがあるんだと思う。