連続してプロレスネタになってしもうたが、今日はさすがに外すわけにゃぁいかん。
自分がプロレスを毎週見るようになったのは、1980年の夏。広島県には東京12チャンネル(現・テレビ東京)系列の局が無く(っつうか、全国的にあまりない)、国際プロレスの存在は雑誌や本でしか知ることがなかった。
数年前にリリースされたDVDボックスセット『伝説の国際プロレス』や『不滅の国際プロレス』で、初めてゆっくりとラッシャー木村の国際時代の試合を見ることができた。面白いけど、確かに華が無い。
初めて木村をテレビで見たのは、国際プロレス崩壊後、1981年9月23日、田園コロシアムで行われた新日本プロレスの大会での出来事。新日との対抗戦に備え、緊張感のある会場で、木村はマイクを握り、丁寧に挨拶し、観客の失笑をかった。後にビートたけしのネタにもされて有名になった『こんばんわ事件』である。
それ以後の木村は、猪木相手に悪役を演じた。小学生だった自分は、本当に木村は悪い奴だと思い込んでた。ファンが自宅に石を投げたりして、犬がノイローゼになって死んでしまったというのも、雑誌のインタビューで読んだ記憶がある。
結局猪木の相手として使い物にならなくなると、UWFの旗揚げに参加。このUWFという団体自体、怪しい理由で発足し、ここでも木村は利用されて終わったような気がしないでもない。
その後ジャイアント馬場の全日本プロレスに、当初は馬場のタッグパートナーとして参加するも、結局直後に馬場相手の悪役に。とはいえ、中堅どころのコメディマッチでマイクを握っての、馬場や他の選手達に対するコメントが、木村を全国的に人気者にしたというのも事実。
多くの人達が言うのは、ラッシャー木村という人間は、物静かで、本当にいい人だってこと。そんな人が、リング上では悪の限りをつくしたり、マイク持って喋ってたりした。
70年代かそれ以前からプロレスを見てる人達にとっては、いつも金網の中で血まみれで試合をしていた印象が強いんだろうな。
90年代以降にプロレスを見始めた人達にとっては、マイクを握って笑いを取ってるオヤジってとこなんだろうか。
だが、国際プロレス崩壊寸前にプロレスを見始め、80年代後半に日本を出た自分にとっては、なんとなく哀愁漂うレスラーという感じがする。だからこそ、いつも気になる存在でもあった。
たくさんの思い出に感謝。
RIP…
ラッシャー木村氏が亡くなった記事を読んだときに真っ先に君の事を思ったよ。私はプロレス全然わかんないんだけどラッシャー木村は知っています。昭和プロレスラーがなくなるのは寂しい限りだね。
新聞では68歳となってる。ワシより1歳上?もっと上かと思ってた。
本当に彼はフアンを大切にする真面目な人だった。
試合で足首を骨折し、治療退院、その直ぐ後の長野に試合を見に行った。
彼が試合後引き上げる時、通路で駆け寄り「脚は大丈夫ですか?」と聞いたら「うん、大丈夫」とわざわざ答えてくれたのには感激したのを、今でもはっきり思いだす。
ライガーとは彼が電大付属高校生の時、金沢氏という元Mr.日本、Mr.ユニバース4位の金沢氏の「広島トレーニングセンター」で一緒だった。彼はレスリングで国体3位になった。背は160cmのチビだったけど、プロレスラーになると言ってた。
本当になってしまったのには驚いた。
彼は腕相撲も強く、岩国の米軍基地のボディビル大会の時の腕相撲大会で軽量級優勝した。
新日本プロでも中西、健介に次いで3番目に強いとの事。
あら、生熊先生、近くにいるのに最近ご無沙汰してます。こんなところでお目にかかるとは以外でした。ライガーと海田のジムで一緒だったIさんってのは、生熊先生のことだったんですね。いやあ、生熊先生はプロレス格闘技界に顔がお広い。
ラッシャー木村は、私が小学校時代にはテレビで国際プロレスの試合を見てましたし、はぐれ国際軍団として新日に参戦して猪木らと抗争をしていたのも面白かったですね。晩年の馬場とのコミカルなタッグも楽しかったです。
ああ、また一人昭和のプロレスラーがこの世を去ってしまいましたね。
合掌
あれー、「ヤポン」さん、書き込みされたのですね!
それと、西村と武藤が東城に演説に来たのですか。
知りませんでしたね。
「国民新党」で西村が立候補するので、亀井さんが呼んだと思いますが、知らせが有りませんでしたね。
両選手とも、私フアンですので今度来られるようでしたら知らせてもらいます。
ところで、福山にプロレスが来るようでしたらお知らせ下さい。
「広島トレーニングセンター」は海田では無く、広島市基町でした。
(田辺君ので書き込み失礼しました)