今尚NWAを追う(3) – 地域制崩壊

もっと前から始まったていたらしい。

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NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。その頃になると、ビンス・マクマホン・ジュニア率いるWWF(現WWE)の全米侵攻により、アメリカとカナダのプロレス界の中核となっていた地域制度はほぼ崩壊していた。

…というのが、定説だが、実際そうなのだろうか。

自分は必ずしもそれだけが原因だとは思わない。それどころか、いずれにせよ起こりうることで、マクマホンでなければ、他の誰かがその状況をうまく利用していたはず。

ここで、1970年代後半からの流れを追ってみる。

1975年8月: NWA年次総会でサム・マソニック会長が辞任。ジャック・アドキッソン(フリッツ・フォン・エリック)が会長、ジム・バーネットが第一副会長に就任するが、以後数年間バーネットが世界ヘビー級王座の実権を握ることになる。

1977年: テネシーとアラバマ北部およびケンタッキーやアーカンソーの一部という広域な地区を牛耳っていたNWA理事ニック・グラスの傘下としてメンフィス地区のプロモーターだったジェリー・ジャレットがグラスに興行戦争を仕掛け圧勝。ナッシュビルやチャタヌーガで引き続きプロモートしていたグラスも1981年に引退、ノックスビル以外のテネシー全域とケンタッキー州ルイビル、インディアナ州エバンスビルなどがジャレットの傘下になる。ジャレットは引き続き80年代中頃までNWA会員として籍を残すが、どちらかというと提携したAWAとの関係を重視していた。

1978年: ディック・マードックとボブ・ウィンダム(ブラックジャック・マリガン)がファンク兄弟からアマリロ地区の興行権を買収。不調だったサンフランシスコ地区へも進出を試みるが失敗、80年にリッキー・ロメロに売却、翌年地区閉鎖。

1979年: ビル・ワットがNWA世界ジュニア・ヘビー級王座管理者であるレロイ・マクガークから、中南部地区(ルイジアナ、オクラホマ、アーカンソー、ミシシッピ)のうち、ルイジアナとミシシッピを買収。マクガークはオクラホマで興行を続けるが、1982年に同地区は閉鎖、ワットのMSWAが進出。MSWAは決してNWAとは敵対関係ではなく、世界王者のリック・フレアーを出場させたこともあったが、最後までNWAには加盟せず。

1980年: ザ・シークのデトロイト地区が閉鎖。

1981年: サンフランシスコ地区閉鎖、翌年AWAが進出。カルガリー地区のスチュ・ハートが、NWA世界ヘビー級王者の招聘を止め、AWA王座を同地区の世界王座として認定する。以後、WWFへ同地区を売却するまでNWA王者を出場させることはなかった。ダスティ・ローデスがNWA王者になったことに反対したという説がある。

1982年: 通算22年NWA会長を務めたセントルイスのサム・マソニックが引退。6月にはビンス・マクマホン・ジュニアのタイタン・スポーツが、マクマホン・シニアからWWFを買収 (翌年第一回IWGPが開催された際には既にシニアの実権はなかった)。同年末、マイク・ラベールのロサンゼルス地区が閉鎖し、翌年から友好関係にあったWWFが当面はラベールを表面上のプロモーターとして同地区進出。12月には、長年NWAの重鎮だったジム・バーネットが、実験を握っていたオレイ・アンダーソンとの不仲が原因でジョージア・チャンピオンシップ・レスリングの理事辞任に追い込まれる。

1983年: 1975年のサム・マソニック会長辞任以来内部で大きな影響力を持っていたジム・バーネットがNWAを脱退しWWFに加入。トロント地区のフランク・タニーが他界、甥のジャック・タニーが引き継ぐ。ビンス・マクマホン・シニアがNWAを脱退。

1984年: ブリスコ兄弟がオレイ・アンダーソン率いるジョージア・チャンピオンシップ・レスリングの株の持ち分をWWFに売り渡し、TBSでの放送がWWFに乗っ取られるが、視聴者の抗議の電話が殺到。アンダーソンはチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージアを立上げ、別の時間枠でTBSでの放送を開始。同年WWFはトロント地区も買収。

1985年: ジム・クロケット・ジュニアがチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージアを買収、WWFからTBSでの放送権も買い戻し『NWA』の名で全米進出を開始。同年フロリダ地区のエディ・グラハム元NWA会長が自殺。この頃からクロケットの世界王者リック・フレアー独占が始まり、NWA内部でもクロケットに対する反感が高まる。

1986年: フリッツ・フォン・エリックのテキサス地区がNWAを脱退。この時点でNWAの地域制は大幅に崩壊したと言われる。

1987年: クロケットがフロリダ地区とUWF(旧MSWA)を買収。UWFの買収により、大きな損害が生じたと言われる。ボブ・ガイゲル元NWA会長のセントラル・ステーツ地区がNWAを脱退しWWAを旗揚げするが、翌年閉鎖。CCW (アラバマ、テネシー東部)がNWAを脱退。

1988年: UWF買収で損害を受けたクロケットがテッド・ターナーに身売り、WCW発足。だが、WCWは正式にNWAに加盟していなかったにも拘わらずNWAの権利も買収したと理解していたため、後に問題となる。

1990年: 法律上存在し続ける『NWA理事会』がWCWによる『NWA』の名称の使用にクレームをつけたため、WCWは即NWAに加盟。だが、翌年からWCWは全ての王座においてWCWの名称を使用、当時のNWA世界ヘビー級王者フレアーが初代WCW王者に認定される。NWAも引き続きフレアーを王者に認定。

1991年: リック・フレアーは引き続きNWAとWCWの両方から世界王者に認定されるが、東京ドームでの対藤波辰爾戦における不明慮な裁定により、(公式的には)NWA王座WCW王座が別扱いとなる。だが同年フレアーのWWF移籍により、1948年の結成以来初めてNWA世界ヘビー級王座が空位となる。前年にはNWA会員として名を連ねていたオレゴン地区PNWのドン・オーウェンが、この年のNWA総会には不参加だったことから、この頃脱退したと思われる。これにより、米国およびカナダでのNWA加盟団体はWCWのみとなる。同年AWAも事実上閉鎖。

要するに、マクマホン・ジュニア率いるWWFが今や世界一のプロレス企業という揺るがない地位を築き上げたのは確かだが、プロレス界の地域制が崩れゆくのを他のプロモーター達より先に察知し、地域限定でなく全米に対して情報発信が可能なケーブルテレビの普及の中、うまくその時代の流れを読んだ経営判断ができたということではないかと思う。

だが、NWA内部においては、クロケットの行動が『自滅』につながったような気がしないでもない。


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