今尚NWAを追う(5) – 新体制発足

提携関係に頼りながら…

カテゴリー: 今尚NWAを追う

NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。だが1993年には、ジム・クロケット・プロモーション時代を含むと1951年3月以来42年半におよび加盟していたWCWがついに脱退、NWAは小規模団体の連盟として歩み始めることになる。

1993年9月3日、WCW不在の総会では、それまでの会長制が廃止、3名からなる執行委員会が結成され、ジム・クロケット・ジュニア(ダラス)、スティーブ・リッカード(ニュージーランド)、そして前年秋加盟したばかりのデニス・コラルーゾ(ニュージャージー)が就任した。その他の会員としては、トニー・リッカード(ハワイ担当という名目だったが、同地での興行は一度もなし)、ラリー・オデイ(オーストラリア)、そしてクロケット会長時代の1989年から法律顧問を勤めていたボブ・トロビッチ弁護士も名を連ねていた。ジム・コーネット(ノックスビルSMW)も加盟を申請したが、当時WWFと提携しており、NWA王座を世界王座と認定するかが不明だったため保留となった。

また、同総会では、トッド・ゴードン(フィラデルフィアECW)の加盟も承認されたが、これが翌年大きな問題を起こすことになる。

WCW脱退により空位となったNWA世界ヘビー級選手権の新王者を決定するため、NWAはトーナメント開催を決定。1994年8月27日、フィラデルフィアのECW(NWAイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)の会場で、ディーン・マレンコやクリス・ベノワ、西村修を含む8名の選手が出場し、決勝戦ではECWヘビー級王者シェーン・ダグラスがトゥー・コールド・スコーピオを破り優勝した。

だが試合後、リング上でNWAのベルトを手に取ったダグラスは、マイクを握り、過去のチャンピオン達の名を挙げ、「所詮過去の遺物、元王者達よ糞喰らえ」と言わんばかりに突然ベルトを投げ捨て、自らECW世界ヘビー級王者を名乗った。間もなくECWはNWA脱退を表明、団体名も『エクストリーム・チャンピオンシップ・レスリング』に変更し、既にインターネット上でカルト的な人気を得ていたが、WWFやWCWが脅威を抱くほどの団体に成長していく。

テリー・ファンクもトーナメント参加を打診されていたが、どういう結末になるかを知らされていたため、拒否したという。

ECWの造反によりNWA世界王座は再び空位となったが、3ヶ月後の11月19日、コラルーゾは王座決定トーナメントをニュージャージー州チェリーヒルで開催。西村やジェリー・ローラー、エディ・ギルバートら10名が参加し、決勝では当時まだ若手扱いだったクリス・キャンディートがベテランのトレイシー・スマザースを破り優勝。

一方、1994年10月に、ダラスにてNWAの名で再旗揚げしたクロケットは、キャンディートが王者になることに反対。独自で北米ヘビー級世界タッグ王座を認定していたが、翌1995年1月、年会費を払うことを拒否したことを理由にNWAから除名される。3名からなるNWA執行委員会では前年加盟したばかりのハワード・ブロディ(フロリダ)が後任となった。同年5月、クロケットはついに長年におよぶプロモーター業から引退した。

1995年2月には、非加盟団体SMW主催のケンタッキー州アーレンジャー大会にて、ダン・スバーンがキャンディートを破り世界王座奪取。アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップに参戦していたスバーンは、UFCの大会においても、NWAのベルトを誇らしげに抱え上げたコラルーゾをセコンドに入場、オクタゴンの中でNWA世界ヘビー級王者として紹介された。また、8月には川崎でターザン後藤を相手に防衛。

1995年2月24日 ケンタッキー州アーランジャー
NWA世界ヘビー級選手権試合: クリス・キャンディド [王者] vs ダン・スバーン

1995年の年次総会では、執行委員会が廃止、再び会長制が設けられ、唯一旧世代のNWA以来の会員だったリッカードが就任した。翌1996年にはブロディが会長に就任し、同年10月、世界ヘビー級王座以外の全てのNWA選手権の空位を発表した(実際に空位になったのは世界女子王座のみで、NWAの商標が登録されていたのは米国のみだったため、当時ウルティモ・ドラゴン保持の八冠王座の一つだった世界ジュニアヘビー級と、メキシコのCMLLが管理していた世界ライトヘビー級王座は引き続きそれぞれの国で認定されていた)。1998年1月には、『プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC』(LLC=有限責任会社)が発足、NWAに関する全ての商標がナショナル・レスリング・アライアンスIncから委譲された。

ブロディ率いる新生NWAは、1997年12月、WWFと提携し、北米ヘビー級および世界タッグ王座の防衛戦がWWFの会場で行われ、世界ヘビー級王者スバーンも登場。これを機に、1997年にはブロディ会長、コラルーゾ副会長、トロビッチ弁護士、リッカード、ビクター・キニョネス(IWAプエルトリコ)の5人だったNWAが、1998年にはアントニオ猪木(UFO)も含む22人に膨れ上がった。同年8月頃、WWFとの提携は切れたが、スバーンは引き続き合計約2年WWFに参戦した。

猪木率いるUFOは1999年3月、ブロディ会長および特別レフリーとしてドリー・ファンク・ジュニアを招いて横浜大会を開催、小川直也がスバーンを破り、4年間の長期政権に終止符を打つ。小川は途中米国にて1週間だけゲリー・スティールに王座を奪われるが、翌2000年7月、負傷を理由に王座返上するまで1年以上保持した。

1999年10月2日 コネチカット州トマストン
NWA世界ヘビー級選手権試合: ゲリー・スティール [王者] vs 小川直也
※ 実は、自分もこの場所で観戦していたが映ってないようだ。

2001年には、1972年以来の会員だったリッカードがNWAを脱退、ついにNWAが1990年代以降加盟した会員のみになる。また同年、日本のプロレスリングZERO-ONEが加盟、12月にはペンシルベニア州で橋本真也がスティーブ・コリノから世界王座を奪取する。だが、4ヶ月後の2002年3月、レフリーのミスター・フレッド(NWA理事フレッド・ルーベンスタイン)の高速カウントにより、スバーンに王座を奪われる。

NWAは2002年、ジェリーとジェフのジャレット親子による新興団体トータル・ノンストップ・アクション・レスリング(TNA)と提携するが、6月19日に予定されていたTNA初の生放送に参戦ができないことを理由に、5月28日付でスバーンから世界王座を剥奪した。生放送当日は王座決定トーナメントが開催され、ケン・シャムロックが優勝した。

以後、約5年間におよび、NWA世界ヘビー級、タッグ両王座は、TNAに管理され、NWAの名は再び全米規模のテレビ中継で注目を浴びるが、これがきっかけでNWA内部に再び波乱が生じることになる。


Credits for pictures and images are given to these sites/people.

Copyright © 1995-2025 puroresu.com. All rights reserved. Privacy Policy