今尚NWAを追う(6) – TNA

誇りと欲の葛藤は続く。

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NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。

  1. 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
  2. 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
  3. 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
  4. 2017年9月~現在

NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。以後、WCW離脱、少数メンバー時代を経て、1998年に約7ヶ月という短期間とはいえWWFと提携していたことにより、メンバーも20人以上と、ある程度の規模にはなっていた。

1993年にNWAを脱退したWCWは翌1994年、ハルク・ホーガンと契約。その後も月曜夜にWWFの主要番組に対抗して生中継を始め、ホーガンを悪役に転向させてWWFから引き抜いた選手たちを中心とした軍団『nWo』を結成するなど、しばらくの間はWWF以上の人気を保っていた。だが最終的にはWWFに逆転され、同じ頃に内部の権力争いや多額の契約金、過度な芸能人起用など様々な理由で低迷し、2001年には商標や映像などの資産をWWEに買収される。

WCWがWWEに『吸収合併』された翌2002年、元テネシー地区プロモーターのジェリー・ジャレットと、息子で元WCW選手のジェフは、トータル・ノンストップ・アクション・レスリング(NWA-TNA)を発足。TNAがNWAに使用料を払うことを条件に、NWA世界ヘビー級世界タッグ王座を管理し、NWAブランドの知名度を向上させるという協力関係だった。

だが、この頃のNWAは、約5年も会長を務めたハワード・ブロディが辞任し、更にNWAからも脱退した後で、既に不安定だったと思われる。当初はTNAの番組中に、NWA加盟団体の宣伝として興行日程が流されてたにも関わらず、それも次第になくなっていったが、一説にはNWA内部でTNAへの情報提供の面も含めて、統制が取れていなかったと言われる。TNAと契約したのは前年から会長だったジム・ミラー(ペンシルバニア)だが、その2002年にはリチャード・アーピン(ウェストバージニア)が就任、2003年にはビール・ベーレンズ(ジョージア)、2004年にはアーニー・トッド(マニトバ)と、毎年会長が代わっていた。そして、現職の会長だったトッドは2005年でNWAを脱退、7月の年次総会では会長制が廃止され、ジム・クロケット・ジュニアが会長だった時代から長年NWAの法律顧問を務めていたボブ・トロビッチ弁護士が事務局長として就任した。

https://youtu.be/mKr2SA1pRtg
2002年6月19日 アラバマ州ハンツビル
NWA世界ヘビー級王座決定バトルロイヤル決勝: ケン・シャムロック vs マーリス
※ TNAが第1回の放送での王座決定戦を希望したため、NWAは前月ダン・スバーンから王座を剥奪。

TNAとの提携における長所としては、前述のとおり、毎週のTNAのテレビ番組にその名が出ることからNWAの知名度が保たれるということ、そして決して多額ではなかったと言われるが、NWAの名称および2つの主要選手権の使用料があった。

その反面、短所としては、TNAのテレビ中継が優先されるため、加盟団体にとっては、以前よりも世界王者を招聘できる機会が減ったという点がある。スケジュールの面もそうだが、当然のことながら、毎週テレビで活躍する選手ということで、ギャラも他のインディ常連選手達に比べたら高かったと言われる。事実、当時は毎年行われていたNWA発足記念大会だが、2003年の55周年には世界ヘビー級とタッグのいずれの王者も不参戦ということがあった。必然的に、NWA内部でTNA反対派が現れた。

また、TNAとの契約が始まった前年(だったと思うが)、NWAは新しい制度を設けた。1998年1月以来、NWAブランドを所有していたのはプロ・レスリング・オーガニゼーションというLLC(有限責任会社)で、各加盟プロモーターがLLCの『メンバー』(出資者)だったが、それに加え、2002年頃には『アソシエート』と『アフィリエイト』を追加した。両方とも正メンバーの傘下で出資者ではないが、アソシエートは会費を払う義務と同時に親メンバーの地域内での担当地区が与えられた。アフィリエイトの基準は親メンバー次第で様々だった。この二つの制度の追加により、ただでさえインディ団体の集合体だったNWA内部に『インディの中のインディ』と言っても過言ではないような、毎回100人観客が入るかどうか判らないような小規模団体まで『NWA』の名を使えるという状態になってしまった。

この新制度を、うまく利用したメンバーも数人いた。中でも、かつてサイモン猪木の下で新日LA道場の運営に関わっていたデビッド・マルケスは、カリフォルニアだけでなく、オレゴン、アリゾナ、ユタなど、NWAメンバーのいなかった西部一帯を自分の担当地区にし、更にスペイン語を話せるということでチリやメキシコ、そしてオーストラリアにも傘下のアソシエートやアフィリエイトを増やしていった。勢力拡大の中で、マルケスには、TNA無しでもNWAは十分やっていけるという自信がつき、TNA反対派の中心人物になったという説もある。

結果、2007年5月13日、クリスチャンが保持する世界ヘビー級とティーム3D(ダッドリー・ボーイズ)が保持するタッグ王座の防衛戦が行われる予定だったTNAのPPV大会開始数時間前、トロビッチ事務局長は、NWAとTNAの提携の終了、および両王座の剥奪を発表する(一般には、TNAから離れていったという説が強いが、これは間違い)。

同PPV大会では、NWAの名が使われずに世界選手権試合が決行され、3ウェイでのヘビー級戦は、カート・アングルがクリスチャンとスティングを破り、一時的に王座奪取となるが、不明慮な判定のため、翌日剥奪される。後日、王座決定戦に勝利したアングルが正式にTNA世界ヘビー級王者として認定される。ティーム3Dは、4日後の5月17日、初代TNA世界タッグ王者に認定。

メンバー数約20名、それらにぶらさがるアソシエートやアフィリエイトが多数、全体的に約80~100と推定されるほどの団体がNWAを名乗っているという、すっかり膨張してしまった状態で、「とっくに死んでたようなものだったが、今度こそ本当に終わった」と多くのファンに言われながら、再びNWAはテレビでの露出が皆無に等しい時代に突入していく。


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