NWA (ナショナル・レスリング・アライアンス)の歴史は大きく分けると、4時代ある。
- 1948年7月~1993年9月: 発足~WCW脱退
- 1993年9月~2012年8月: WCW脱退、プロ・レスリング・オーガニゼーションLLC設立~加盟団体保険制度に関する裁判に敗訴
- 2012年8月~2017年9月: インターナショナル・レスリング・コープLLC設立(ブルース・サープ)~ライトニング・ワンINC(ビリー・コーガン)への売却
- 2017年9月~現在
NWAが各地に加盟団体を持つプロレス界の国際的主要組織だったのは、事実上1950年代前半から1980年代中期までの間。それから約15年後の2002年、新興団体トータル・ノンストップ・アクション・レスリング(NWA-TNA)と提携することにより、NWAは再び米プロレス界で注目を集めることになった。
だが、そのTNAとの提携も、5年後の2007年5月に終わりを迎える。
その背後には、かつて新日LA道場の運営に関わっていたデビッド・マルケスが、NWA内での勢力拡大により、TNA無しでもNWAは十分やっていけるという自信がつき、TNA反対派の中心人物として台頭していったという説がある。マルケスは、2002年頃に新しくNWAに追加されたアソシエートやアフィリエイトといったメンバーの傘下にも加盟団体を持てるという制度を利用し、『NWAプロレスリングInc』の社名で、カリフォルニアだけでなく、オレゴン、アリゾナ、ユタなど、NWAメンバーのいなかった西部一帯を自分の担当地区にし、更にスペイン語を話せるということでチリやメキシコ、そしてオーストラリアにも自身の傘下の団体を増やしていった。
NWAはTNAとの提携終了から僅か2週間後の6月2日から9月1日まで、『Reclaiming the Glory』(栄光を取り戻す)と題して世界ヘビー級王座決定トーナメントを全米15ヶ所で開催。16人の参加選手の中には、クラウディオ・カスタニョーリ(セザーロ)やファーガル・デヴィット(フィン・ベイラー)など、後にWWEで活躍する選手達やアーロン・アギレラ(ゾディアック)やブレント・オブライト(ガンナー・スコット)などといった元WWE所属選手もいた。
だがふたを開けてみると、ブライアン・ダニエルソン(ダニエル・ブライアン)やアダム・ピアース、デヴィット、アギレラなど、参加選手のうちの約半分はマルケスの息のかかった選手たちだった。
準決勝では8月12日にシャーロットでオブライトがカスタニョーリを、18日にバンクーバーでダニエルソンがピアースをそれぞれ破ったが、試合中にダニエルソンが目を負傷、繰り上がり進出したピアースが、9月1日プエルトリコでの決勝で、オブライトを破り、新世界王者に君臨した。
2008年1月、マルケスはディッシュ・ネットワークという衛星放送サービスのカラーズTVというチャンネルで『NWAレスリング・ショーケース』の放送を開始。ラスベガスで収録し、マルケスお抱えのロサンゼルスの地元選手達はもちろん、世界ヘビー級、ジュニアヘビー級、タッグおよび北米ヘビー級、ナショナル・ヘビー級といった、NWA本部が直接管理する王座の保持者達もカリフォルニアに招き、選手権試合を放送した。カラーズTVでの放送は2009年までだったが、2010年には、マルケスの『NWAプロレスリングInc』がロサンゼルスの地元局KDOCと協力し、『NWAチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド』の名で毎週の放送を開始する。マルケスは、ロサンゼルスだけではなく、時折、他地区とのNWA会員プロモーターとも協力し、テレビ収録を行い、自分の番組で放送することもあり、全体的なNWAブランドの向上に努めた。
世界王者のピアースは、リング・オブ・オーナー(ROH)にも参戦、2008年にはROH世界王者とのダブルタイトル戦が行われたり、ブレント・オブライトとROHのリング上でNWAの選手権試合を行い、8月にニューヨークで一度は奪取されたが、翌月にはフィラデルフィアで奪回。
2008年1月には、マルケスがブルー・デーモン・ジュニアと共に、『NWAメキシコ』を旗揚げ。後に、ボブ・トロビッチNWA事務局長と共に、メキシコで長年ライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3階級においてNWA世界選手権を認定していたCMLLに対し抗議を始める。結果、2010年8月、CMLLは3王座を全て『CMLLヒストリック王座』に改称することを発表するが、間もなく『NWAヒストリック世界選手権』として認定。これにより、世界最古の選手権だった世界ミドル級王座の幕が閉じられた。デーモンは同年10月メキシコシティで、ピアースから世界王座を奪取、メキシコ人初のNWA世界ヘビー級王者として、アメリカやメキシコで1年半におよび王座を防衛。
NWA世界ヘビー級選手権試合: アダム・ピアース [王者] vs ブルー・デーモン・ジュニア
2010年3月、ピアースが王座奪回し3度目の栄冠。
2012年4月8日、ロサンゼルス郊外のグレンデールでライバル、コルト・カバナがピアースから王座を奪取。間もなく、トロビッチ事務局長とマルケスは、ピアースとカバナとの間での7番勝負の開催を発表。5月13日、ロサンゼルス郊外のグレンデールでの試合を皮切りに、マサチューセッツやミネソタ、オレゴンなどで6試合を行い、7月21日、カンザスシティでの第3戦では、ピアースが奪回した。
トロビッチとマーケスの指揮により、NWAは再び盛り上がりを見せているかのように見えた。
だが、この、アメリカの多くのインディプロレスファン達が注目する7番勝負開催中に、NWAでは内乱が起ころうとしていた。
『NWAサウスウェスト』の団体名でダラスを拠点としたNWAメンバー、ケン・テイラーの傘下だった2人のアソシエート、ブルース・サープ(テキサス州ブラウンズビル)とクリス・ロンキーロ(NWAヒューストン)は、NWAが加盟団体向けに用意していた保険制度に不正があることを指摘、NWA本部にクレームを付けた。それが原因かどうかは不明だが、2011年9月にテイラーはNWAサウスウェストを閉鎖、それによりロンキーロと、殆ど自主興行をしていなかったサープが正式にメンバーに繰り上がりした。だがサープとロンキーロはNWA本部を相手取り、法的な処置に出た。
後のロンキーロの証言によると、弁護士だったサープは、つながりのある裁判官のいる地元ブラウンズビルで裁判を起こすことによって有利にもっていくという、アメリカではよくある方法を使ったのだという。
結果、サープとロンキーロは勝訴した。だが、2人は、NWAの理事の1人だった悪役レフリー『ミスター・フレッド』ことフレッド・ルーベンスタイン(ニュージャージー)を「信用できる人物」として、3人でインターナショナル・レスリング・コープLLCを立上げ、商標や選手権などのNWAの資産がプロ・レスリング・オーガニゼーションLLCから新会社に移管された。2012年9月を以って、トロビッチやマルケスを含む全会員がNWAから離れることになる。
そんな中、ピアースとカバナの7番勝負は、オーストラリアのバーウィックで最終章を迎えた。
だが、この日のために準備をしてきた地元の団体『NWAウォーゾーン』が新生NWAの加盟団体じゃないということを理由に、サープは、ピアースとカバナの試合を選手権試合として認定しなかった。
結局ノンタイトル戦となった試合にはカバナが勝利。試合後ピアースはマイクを持ち、NWAが認定していないとはいえ、これまでそのために7試合を戦ってきたので、カバナがベルトを持つべきだと主張。だが、カバナは新NWAの首脳陣を罵り、ベルトを拒否。ピアースもそのままベルトを拒否してリングを去った。
2007年9月のトーナメント優勝からオーストラリアで返上するまでの5年2ヶ月のうち、通算約3年ピアースが世界王座を保持、WCWによるNWA脱退以来、最も多くの地域において積極的に防衛する世界王者だった。2014年12月、マルケスの『チャンピオンシップ・レスリング・フロム・ハリウッド』で、カバナと引退試合を行い、2015年5月にはNXTのトレーナーとしてWWEと契約、現在もロードエージェントとしてRAWで時折その姿を見ることができる。
一方NWAは、再び空位となったNWA世界ヘビー級王座と共に、サープ、ロンキーロ、ルーベンスタインの3人による新体制の下、更に弱小化した不安定な日々を迎えることになる。