当然のことながら、大半のプロレスにとって、『NWA』というと、ナショナル・レスリング・アライアンスのことを指す。だが、1948年7月の発足以前の米国には、『NWA』という団体が少なくとも3つ存在した。
ナショナル・レスリング・アソシエーション
本拠地: ミシシッピ州フライアーズポイント(会長事務所)
会長: ハリー・ランドリー(1930年9月~1960年代)
1930年 – 1985年11月
日本では何故かこの団体のみが『旧NWA』と呼ばれているが、おそらく、昔NWA(アライアンス)が発表していた世界ヘビー級王座の『公式』記録上で、初代アライアンス王者のオービル・ブラウンをほぼ無視し、このアソシエーションの王者だったルー・テーズが継続してアライアンス王者に認定されたような印象を持たせたからだと思われる。
ワールド・ボクシング・アソシエーション(WBA)の前進であるナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)のレスリング部として発足し、1930年9月にNWAとして独立した。トム・パックス(セントルイス)とレイ・ファビアニ(フィラデルフィア)が中心となり、ジム・ロンドスをヘビー級王者として売り出したかったから設立されたという説もあるが、ジュニアヘビー級からウェルター級までの各階級においても世界王座を認定していた。
セントルイスでは、1945年12月から、サム・マソニックがパックスに対抗して興行を始めるが、1948年6月には、パックスの興行権をルー・テーズが受け継ぎ、短期間ながらマソニックとテーズが敵対関係にあった。
テーズが引き継いだ1ヶ月後の1948年7月にアライアンスが発足。その後もアソシエーションは存在し続けていたが、セントルイスではテーズがマソニックに合流することに同意。翌1949年11月、アライアンス世界ヘビー級王者ブラウンとの統一戦がブラウンの交通事故による引退のため中止になり、テーズが統一王者に認定される。
その後、アソシエーションの世界選手権の殆どにアライアンスと同じ王者を認定したが、ヘビー級に関しては1960年代中期の時点でWWWF世界王者ブルーノ・サンマルティノを認定していたことから、1963年1月にテーズに敗れた後も引き続きバディ・ロジャースを認定していた可能性がある。
その後も有名無実の存在だったが、書類上では少なくとも存在し続け、1985年11月18日に正式に閉鎖。
尚、前述のアライアンスによる当時の『公式』記録上では、1938年に、アソシエーションがスティーブ・ケーシーから王座を剥奪し、同年9月の総会でエベレット・マーシャルを認定したことになっているが、実際にアソシエーションが剥奪したのは、ジャック・ペゼックであり、ケーシーは当時AWA(ボストン)世界王者だった。いくら強引にリック・フレアーからテーズを経由してアソシエーション王座を遡っても、マーシャルで止まってしまう。また、1930年のアソシエーション発足の際、ロンドスが王者に認定されたのは、前年開催の王座決定トーナメントに優勝してニューヨーク州体育協会から認定されたディック・シカットを破ったことに基づいているので、その流れを遡ってもシカット止まり。つまり、いずれの流れを辿ったところで、どう考えてもゲオルグ・ハッケンシュミットやフランク・ゴッチが保持していた世界王座には行き着かないのである。『Wrestling-Titles.comについて』でも書いたが、オービル・ブラウンを初代王者にしない限り、NWA世界王者を『第何代』と数えるのは、やはり無理なことだと自分は思う。
ナショナル・レスリング・アライアンス
本拠地: カンザス州ウィチタ
プロモーター: ビリー・サンドウ、マックス・バウマン、ノリス・ストーファー他
1941年 – 1947年1月
現在判明している中で『ナショナル・レスリング・アライアンス』の名称を使った最初の団体。かつてエド・ストラングラー・ルイスのマネージャーとして活躍し、1920年代にはルイスとトゥーツ・モントと共に『ゴールド・ダスト・トリオ』として米プロレス界に大きな変革をもたらしたと言われるビリー・サンドウと弟のマックス・バウマンが、長年ウィチタでプロレスやボクシングの興行をしてきたノリス・ストーファーやペリー・バッシュらと運営。
1941年1月、当時のアソシエーション世界ヘビー級王者レイ・スティールが挑戦を受けなかったという理由で、ロイ・ダンを世界王者に認定。1942年4月、エデ・ヴィラグがダンから王座を奪取するが、第二次世界大戦後の1946年4月にダンが奪回。1947年1月にはストーファーがプロレスの興行を停止。それ以後もダンは他地区で王者を名乗るが、1948年一時的に引退した際王座空位。
ナショナル・レスリング・アライアンス
本拠地: アイオワ州デモイン
プロモーター: ピンキー・ジョージ
1943年 – 1948年7月
アイオワ州では1940年頃からMWA(カンザスシティ)世界ヘビー級王者オービル・ブラウンを認定していたが、1943年5月、「ミネアポリスとフィラデルフィアで行われたトーナメントで、オービル・ブラウン(MWA王者)とビル・ロンソン(アソシエーション王者)を破った」とし、アライアンス(ウィチタ)世界王者のエデ・ヴィラグをアイオワ州でもアライアンス王者として認定。1944年にはMWA王者ブラウンが「カンザス州トピカでヴィラグから王座を奪取した」という報道のもと、アイオワ州でアライアンス世界王者として認定されたが、架空の王座移動の可能性が高い。
ジュニアヘビー級も、1943年5月頃からアライアンス世界王座を認定。
1948年7月、ピンキー・ジョージはマソニックを含む中西部の5人のプロモーター達と共に正式にプロモーター達の連盟を設立、名称も自分が使ってきたナショナル・レスリング・アライアンスにし、改めてブラウンを初代世界ヘビー級王者に認定する。ジュニアヘビー級もアイオワでアライアンス王者だったビリー・ゲルズを認定。
だがジョージは本来、中西部で共通の世界王者を認定したかった程度で、全米はおろかカナダやメキシコまで加盟団体が増えることは想定しておらず、予想以上にNWAが膨れ上がったことに疑問を持っていたという。発足から僅か2年会長を務め、その後マソニックによる長期政権が始まり、1959年には自ら創立したNWAを脱退した。
ウィチタのNWA王座は自然消滅したが、NWA(アソシエーション)とアイオワ州のNWAの流れは、1948年発足のナショナル・レスリング・アライアンスが受け継ぐことになる。
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