『南部の大家族』でも紹介したウェルチ一族は、1940年代から1980年代まで、プロモーター、レスラー、レフリーなど、業界の中でもあらゆる方面で活躍し、テネシー州とアラバマ州を牛耳った。
ロイ・ウェルチはテネシー州の北西部、メンフィスから車で約1時間半北上したとこにあるダイヤースバーグを本拠としていた。長年NWAの会員として名を連ねていたのもウェルチだったが、実際にはナッシュビルのニック・グラスと共に同地区を運営していた。ただし、テレビや新聞など表向きにはグラスのみがプロモーターとして登場し、選手として活動し続けていたロイは、共同経営者だという事実を隠していた。
アラバマ州バーミンガム出身のグラスは、1930年代から、同州のプロモーター、クリス・ジョーダンのスタッフの一員として活動していた。
ジョーダンは、1900年代後期から20年代中期にかけて、世界ミドル級王座を何度も獲得し、米国各地で活躍。20年代後半になると、選手としての活動を続けながらも、1929年にはジョージア州メーコンで、1931年にはインディアナ州エバンスビルなどでプロモーター業も始めた。1931年以降、アラバマ州ジャスパーに定住し、翌1932年にはライトヘビー級の試合を中心にバーミンガムやタスカルーサなど州北部で興行、その後モービルやドーサン、モントゴメリーにも進出し、アラバマ州全体のプロモーターとなる。
だが、1930年代後期になると健康状態が悪化、ジョーダンは後任として初代南部ジュニアヘビー級王者ジョー・ガンサーを仕立て、1940年3月他界。ガンサーはアラバマだけではなくルイジアナ州まで進出。
ニック・グラスは引き続きガンサーとアラバマ州地区の運営に関わっていたが、1940年8月からはテネシー州ナッシュビルで興行を始め、間もなくロイ・ウェルチと共にグラス・ウェルチ・エンタープライズを設立。2人はテネシーとアラバマだけではなく、1946年8月からは半年という短期間だがフロリダ州タンパの興行権を手に入れ、またポール・ジョーンズがプロモーターだったジョージア州にも選手を派遣。そして1949年11月には前年発足したばかりのNWAに加盟。ガンサーもウェルチとグラスの傘下に入ったが、ついに1953年、アラバマ州の興行権の全てを2人に売却し、ウェルチとグラスはテネシーとアラバマの全域を手中に収めるだけではなく、アーカンソー州北東部やケンタッキー州、ミズーリ州南東部、バージニア州やジョージア州の一部も傘下に収め、南東部一帯においての影響力を強めていった。尚、アラバマ州を売却したガンサーは1960年代までルイジアナ州で興行を続けた。
グラス・ウェルチ・エンタープライズのテネシーおよびアラバマ地区は、プロレス史を語るうえで、『NWAミッドアメリカ』と呼ばれることが多いが、実際には、NWA会報の中の記事や地区傘下の各プロモーターに対しては、『ミッドサウス・ブッキング・オフィス』の名を使うことが多かった。同地区でミッドアメリカ・ヘビー級およびタッグ選手権が認定されていたことと、1980年代にビル・ワットがルイジアナを中心に運営していたミッドサウス・レスリング・アソシエーション(MSWA)と区別することから、地区閉鎖から10年以上経って『NWAミッドアメリカ』と呼ばれるようになったと思われる。
ところで、テネシー州では1948年、キャリー・エステス・キーフォーヴァーが連邦上院議員に選出され、1957年には上院司法委員会反トラスト・独占小委員会の委員長に就任、1963年8月に他界するまで務めた。同じく1957年、米3大テレビネットワークの1つ、NBCでのクイズ番組『21』における取り決めが発覚。前年、既に連邦政府から独禁法違反で判決を言い渡されていたNWAが、このクイズ番組の件で、取り決めの可能性が大きいという点においても標的になりかけていた。
だが、大のプロレスファンで、ビンス・マクマホン・シニアが興行していたワシントンDCのキャピタル・アリーナからの中継でも時々観客席にいる姿が映っていたキーフォーヴァーに、グラスは多額の寄付をしていたという。キーフォーヴァー率いる小委員会は、ボクシングにおける独禁法違反は調査していたが、FBIが引き続き独禁法と『取り決め』の両方においてプロレスに関する苦情を受け続ける中、1956年に判決を言い渡されたNWAに対し、1957年以降、連邦政府が起訴することがなかったのは、グラスとキーフォーヴァーの親しい関係によるものだという説が強い。そういう意味では、グラスとウェルチがNWAを救ったと言っても過言ではないのかもしれない。
ロイ・ウェルチ(下記写真右)とニック・グラス(中央)を語る上で、もう1人欠かせない人物がいる。
(写真提供: カリフラワーアレイ・クラブ)
クリスティーン・ジャレットだ。
当初、ナッシュビルのプロレス会場で切符を売るためにグラスに雇われたジャレットは、次第に地区内での任務も増え、1970年初期にはルイビルやレキシントンといったケンタッキー州の主要都市、そしてインディアナ州エバンスビルでの興行も任される。
1953年、ジョー・ガンサーは、アラバマ州南部を中心としたメキシコ湾岸地区の興行権を、ロイ・ウェルチと弟ジャック、息子エドワード・ウェルチ(バディ・フラー)に譲る。
その後も20年以上、テネシーを中心とした地区においてウェルチとグラスによる政権が続くが、1974年にはエドワードの息子でロイの孫、ロナルド・ウェルチ(ロン・フラー)が、ノックスビルを中心としたテネシー州東部地区の興行権をロイと、同地区担当だったジョン・カザナから譲り受ける。ロン・フラーは1980年、アラバマ州北部にも進出。いずれにせよ、テネシー州もアラバマ州も、ウェルチ一族により運営されていたことには変わりはなかった。
だが、1977年3月には、クリスティーン・ジャレットの息子で、健康状態が良くなかったロイ・ウェルチからメンフィス地区のブッキングの大部分を任されていたジェリー・ジャレットがグラスに興行戦争を仕掛け圧勝。メンフィスだけではなく、ルイビルやエバンスビルの興行権も手に入れる。約半年後の9月、ロイ・ウェルチ他界。
1980年9月、グラスがついに引退。ナッシュビルやチャタヌーガの興行権も、ジェリー・ジャレットが引き継ぐことになる。
かつてニック・グラスとロイ・ウェルチの傘下にあった大地区が、一時は5団体に分かれ、1980年代中期には2団体に納まる訳だが、各団体についての詳細は今後少しずつ書いていければと思う。