メキシコ湾岸地区

アラバマ州南部およびフロリダ州北西部

カテゴリー: NWA

2004年の夏、当時頻繁に参加していた英語のプロレス掲示板でつながってるNさんから連絡があった。Nさんとは、それまで掲示板上でのやり取りはあったが、そこまで頻繁でもなく、ある程度プロレスの歴史について詳しいんだろうという印象しかなかった。掲示板のメールボックスにメッセージが入ってたので、メールにしてくれとお願いした。

間もなくNさんからメールが届いた。「ファックス持ってるか? 湾岸地区の選手権史で完璧なのを幾つか用意してる。」

当時、既にスキャナーは存在していたが、みんなが持っていたわけじゃなかったような気がする。即、返事して、電話番号を渡した。

ある日、仕事を終えてアパートに戻ったら、ファックスの下に大量の紙が落ちているのをみた。15~20ページはあったような記憶がある。

Nさんは、メキシコ湾沿いにあるフロリダ州ペンサコーラ出身。同地区のプロレス史の権威とも言えよう。

それまで、Wrestling-Titles.comのメキシコ湾岸地区の情報は、『Wrestling Title Histories』からの丸ごとコピーだったと思うが、Nさんからいただいた情報で大幅に更新することができた。

プロレス史でいうメキシコ湾岸とは、1950年代前半から1978年までのアラバマ州モービルを中心に、同州南部およびフロリダ州北西部、そして一時はミシシッピ州やルイジアナ州の南部も含んでいた地区。英語では『Gulf Coast』なので、和訳は単に『湾岸』になるのだが、『湾』というのは英語で gulf だったり、bay だったりするし、真珠湾のように harbor の場合もあるので、明確にするために自分はメキシコ湾岸と表記するようにしている。

もう一つの「ミッドサウス」』にも書いたが、1950年の時点で同地区のプロモーターだったのは初代南部ジュニアヘビー級王者ジョー・ガンサーだった。1953年2月、リー・フィールズが参戦、以後約25年、同地区に大きな影響を及ぼすことになる。

1953年春、ロイとジャックのウェルチ兄弟が同地区の興行権をガンサーから買収、結果テネシーとアラバマの両州全域を手中に収めた。リー・フィールズも2人の甥だった。そして同年7月には、ロイの息子エドワード・ウェルチが、バディ・フラーというリングネームで参戦するが、実際にはバディも父ロイと叔父ジャックと共に同地区の運営に携わっていた。

ロイ・ウェルチがテネシー州を本拠としていたためか、当初は南部ジュニアヘビー級王座が同地区の主要選手権だったが、タッグに関しては1955年にテネシーとは別に独自で南部王座を認定。ヘビー級は、SWAも認定していたジョージア版南部王座を時々フレッド・ブラッシーが防衛していた。同地区の主力選手はリー・フィールズの他、マリオ・ガレント、そしてウェルチ兄弟の末弟レスターらだった。

1956年10月、バディ・フラーがプロモーターだということが公表されたが、表面上はあくまで新しく就任ということだった。同じ頃、南部タッグ王座は廃止、1959年10月に復活するまでテネシー版が同地でも防衛されることになった。翌1957年5月、ついに同地区の看板選手権となる湾岸ヘビー級初代王座決定トーナメントが開催。また1958年7月にはミシシッピ州ヘビー級王座も新設された。

だが1959年末には、バディ・フラーが従兄弟のリー・フィールズに興行権を売却。選手としての活動に専念し、アリゾナやテネシー、ジョージアなどで活躍した。

1960年前半の主力選手は、引き続きマリオ・ガレント、ディック・ダン、そしてリー・フィールズの弟ドンとボビーらだったが、1964年にはケン・ルーカスが湾岸地区に参戦、以後20年以上に亘りアラバマ州やテネシー州でトップ選手の1人としての地位を保ち続けた。

リー・フィールズはミシシッピ州ヘビー級王座に加え、1962年10月にはアラバマ州王座、1964年10月にはルイジアナ州王座もそれぞれ新設。1965年には南部タッグ王座とは別に、US王座も認定したが、1974年4月に中南部版に統一された。また、南部タッグ王座は1967年に封印、それに代わる湾岸王座を新設した。

1960年1月に正式にプロモーターに就任したフィールズは、試合数を減らすと同時に、カーレーサーとしての活動も始め、後にアラバマ州モービルのレース場、インターナショナル・スピードウェイも運営する。

同地区はロイ・ウェルチとニック・グラスの主宰するテネシー州地区の傘下という扱いだったが、1969年、リー・フィールズが単独でNWAの会員になることが承認された。それ以降、湾岸地区には王座が乱立した。前述の各州王座に加え、市王座までも設立し始めたのである。ヘビー級はアラバマ州モービル、フロリダ州ペンサコーラパナマシティ、そしてタッグはアラバマ州ドーサン、ミシシッピ州ハティスバーグ、ガルフポート、ローレルの各地の王座が認定された (英語ページ参照)。タッグにはベルトではなく背中に町の名前が縫われたジャケットが使われた。また、湾岸王座も6人タッグブラスナックル王座が追加され、短期間ではあったが、同地区とは最も縁の深い日本人選手ミスター・イトー(上田馬之助)が、湾岸マーシャルアーツ王者として認定されていたこともあった。

1970年代における同地区のトップ選手はカウボーイ・ボブ・ケリー。後にブッカーも兼任し、1977年の引退後も1986年まで時折リングに上がり続けた。また、2014年の他界までカリフラワー・アレイ・クラブの理事や湾岸地区選手同窓会の会長も務めた。

1959年末、従兄弟バディ・フラーから湾岸地区の興行権を買収したリー・フィールズだが、1978年1月、バディの息子で、既にテネシー州東部で南東部地区(サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)を運営していたロン・フラーに同地区を売却、以後レース場の運営に専念した。湾岸地区の全ての選手権は封印され、南東部地区のものに置き換えられたが、結果的に1953年から南東部地区閉鎖の1989年11月まで、同地区はウェルチ一族により運営されたということになる。

ところで、Nさんが情報を提供してくださってから、自分もできる限り研究を続けていたのだが、2017年11月、親切にも「あれからまた色々調べて、かなりの変更があるんで、また送るよ。」と声をかけてくれ、13年前以上の、ほぼ完全に近い各王座変遷史を送ってきてくださった。

勿論今回はファックスではなくメールで (笑)、それも添付されていたファイルは、判りやすくExcelに入力されていたものだった。Nさんには頭が上がらない。


Credits for pictures and images are given to these sites/people.

Copyright © 1995-2025 puroresu.com. All rights reserved. Privacy Policy