1994年の夏、テキサスで大学生だった頃のこと。
Windows 95がリリースされる前の年なんで、まだインターネットが世間一般に普及してるわけではなかったが、自分はコンピューターサイエンス専攻だったということもあり、大学からアカウントをもらえていて、アパートからモデムを使って大学の回線に接続し、プロレスのニュースグループによく投稿していた。それに加えてCompuServeやProdigyといった『パソコン通信』にも加入していたので、多くの英語圏のプロレスファン達と連絡をとっていた。
英語のニュースグループには、もう1人の日本人、それも同じテキサスにある大学院の博士号過程にいるKさんという方もいて、うちら2人は英語圏での『puroresu』という言葉の普及に励んでいた。
そんな時、あのアントニオ猪木が、超久々にアメリカで試合をするという情報が入ってきた。WCWのアイオワ州シーダーラピッズ大会で、PPVではなく全米で生中継とのこと。日本人の友人…あえてここではイニシャルではない『B』とするが、解る奴には判るはず(笑)…の住んでるアイオワシティからも近い。それも8月24日、水曜だが大学の秋学期が始まる前(だったはず)なんで、無理すれば行けないわけでもない。当時は、おそらくそれが猪木最後のアメリカでの試合になると思われていたので、意地でも行きたいと思った。
当然のことながら、大の猪木信者だったKさんを誘った。まず、オースティンからKさんが、ダラス郊外にある自分のアパートまで車で3~4時間かけて来てくれて、我が家で一泊していただいたかどうか覚えてないが、そこから2人で、自分の車で10時間以上かけてアイオワシティまで。車での中では入手したばかりの1980年代初期の『ニューミュージック』が入ったテープを何度も繰り返して聴いた。
アイオワシティでは、現地の大学に行ってるがプロレスファンってわけでもないBのアパートに泊めてもらった。大学の周辺も案内してもらったが、夜中でも女子大生が独りで歩いてたりして、ダラス近辺とは比べ物にならないくらい安全で平和そうな雰囲気の町だった。
翌日の試合、うちら2人のチケットは既に入手していたが、土壇場になってBも少しだけ興味を示したんで、説得して急遽チケットを購入。結局あいつの方がいい席だったような気がする。
会場には、予想通り日本人客が大勢来ていた。後で聞くと、週刊プロレスのツアーだったらしい。
試合結果(左側が勝者):
- ナスティボーイズ vs ポール・オーンドーフ & ポール・ロマ
- USヘビー級選手権: リッキー・スティムボート vs スティーブ・オースティン
※ 王座移動 - ダスティ・ローデス & ダスティン・ローデス vs テリー・ファンク & バンクハウス・バック [ジミー・ゴールデン]
※ 反則 - アントニオ猪木 vs ロード・スティーブン・リーガル
- WCW世界ヘビー級選手権: リック・フレアー vs ハルク・ホーガン
※ リングアウトのためホーガン防衛
今思うと、凄い豪華なカードで、実際にどの選手が出場していたかも大体覚えてるのだが、何故だか、あるいは当然なのか、猪木の試合以外は内容をあまり覚えていない。
試合後、Bのアパートに戻り、3人で飲みまくった。いや、それは前の晩だったかもしれない。3人でビール飲んで、テキーラも1本空けて、牛タンを焼いて喰ったんだが、テキーラと牛タンが同じ晩だったかどうかも覚えてない。おそらく2晩とも飲みまくったのだろう。
翌朝、Kさんと共に車に乗り、再び10時間以上かけてテキサスへ戻るわけだが、そこでもまた、行く時に聴いたテープを何度も流して、最終的にはKさんが呆れてイラついてたような記憶がある。(笑)
実際には、2年後ロサンゼルスで猪木自ら主催した『平和の祭典』でタッグ戦に出場したので、結果的にアイオワでの試合はアメリカ最後というわけではなかったが、ロサンゼルスの大会が豪華な顔ぶれだったにも関わらず、アメリカでのテレビ中継もなく、実は(マニアを除く)一般のファンの間では大して話題にもならなかったので、シングル戦とテレビ中継と、両方の面でアメリカでは最後だったアイオワでの試合の方が結局強い印象を残したんじゃないかと思う。
自分のアパートに戻り、Kさんにもうちに泊まっていただいた翌日、またもや2人でプロレスを観に行くことになる。
