グレコローマン選手権

娯楽化における犠牲

カテゴリー: プロレス史一般

今でこそ、グレコローマン・スタイルといえばフリースタイルと並びオリンピックのレスリングの種目の1つという印象が多くの人々にとっては強いと思うが、元々レスリングにはアマチュアという概念がなかったようなもので、かつてはプロレスにおいても、腰から上だけを使っての攻防によるグレコローマンの試合が主流だという時代があった。

第二次世界大戦以前のヨーロッパのプロレスは、選手権試合で勝って王座を奪取するという形式のものよりも、何日も何週間もかけて行われるトーナメントが中心で、戦後、現在の様な選手権試合が増えてからも、スイスでは1970年代、ドイツやオーストリアでは1990年代まで各地でトーナメントが開催されていた。特に第二次世界大戦に入る頃までは、トーナメントといえば通常グレコローマンだった。

北米では、『カラー・アンド・エルボー選手権』でも書いたとおり、南北戦争中には既に選手権試合が行われていた。現在自分が持っている情報では、米国最古のグレコローマン選手権は太平洋岸王座で、1874年12月にサンフランシスコで、フランス出身といわれるティーボー・バウワーがオーストラリア出身のウィリアム・ミラーを破り奪取したもの。翌1875年10月には、ニューヨークでミラーがフランス出身のアンドレ・クリストルを破り、米国王者に認定されるが、この2つの選手権に直接の関連性があるのかは今のところ不明。

試合中に負傷したということを理由に、クリストルも米国王座を主張するが、12月には同じくニューヨークでバウワーがクリストルを破り、世界王者に認定。18日後にはニューヨークでバウワーがクリストルに敗れるが、翌1876年3月、セントルイスで王座奪回。同年8月にはオハイオ州シンシナティで米国王者ミラーを相手に世界王座防衛。ミラーはその後も、少なくとも1877年2月まで米国王座を主張し続ける。

バウワーは、約4年世界王座を保持した後、1880年1月、ニューヨークでウィリアム・マルドゥーンに敗れ王座転落。『先駆者の墓』にも書いたとおり、マルドゥーンはその後プロレスだけではなくボクシングの世界でも重鎮となり、特にニューヨークでは州体育協会の初代理事長にも就任し、両競技の歴史を語る上で欠かせない人物となった。

1882年後半、数ヶ月という短期間だが、マルドゥーンが一時的に引退したため世界王座は空位となった。1883年2月、フロリダ州ジャクソンビルでの王座決定戦でダンカン・C・ロスがバウワーを破るが、翌月にはニューオリンズでバウワーに敗れ転落。そして1883年12月、マルドゥーンが再びバウワーを破り、約7年間王者に君臨し一時代を築いた。

一方、オーストラリアのメルボルンでは1886年12月、イギリス出身のトム・キャノンがウィリアム・ミラーを破り、世界王者に認定。1891年7月、ドイツのハンブルグでカール・エイブスに敗れるまで4年半の間、ヨーロッパで世界王座を保持する。

米国にて世界王者として長期政権を築いたマルドゥーンは1891年に引退を発表し、アーネスト・ローバーを米国王者に認定した。

ドイツ出身のローバーは、翌1892年7月、ニューヨークでフランス王座主張者アポロンを破り、世界王者に認定される。そして1895年1月、エイブスが病気で試合不可能のため、ヨーロッパでも世界王座を授与され、1900年3月にニューヨークでマグナス・ベック・オルセンに敗れ一度は王座を明渡すが、半年後の9月にデンマークのコペンハーゲンで奪回、1901年まで通算5年以上、欧米共通の世界王者として活躍し、マルドゥーン引退後のグレコローマンの第一人者となった。だが、グレコローマンとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの両形式を3本や5本勝負で競い合う混合試合では、エバン・ストラングラー・ルイスやトム・ジェンキンズといった世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者に負けることも多かったようだ。この頃からグレコローマンの人気に影が見え始めていたのかもしれない。

ローバーは1901年11月に引退を発表。ヨーロッパでは、既にその約半年前の時点で王座は空位で、1901年5月にロンドンでの王座決定戦でアントニオ・ピエーリを破ったトム・キャノンが王座に復帰するが、翌1902年9月リバプールで、後の統一世界ヘビー級王者ゲオルグ・ハッケンシュミットに敗れる。

ローバー引退後は、ニューヨークでジョン・ピエニングが米国王者として1907年頃まで活躍、場所によっては世界王者としても認定されることもあった。オハイオ州ではローバー現役時代からチャールス・ウィットマーが世界王座や米国王座を主張したが、1904年に入ったころには、単にシンシナティ市王者という肩書になっていた。

1910年代に入ると、ロシア出身のアレクサンダー・アバーグが米国北東部を中心に世界王者として活躍。1914年2月には、ボストンでスタニスラウス・ズビスコがアバーグから王座を奪取するが、5月にはカンザスシティでフランク・ゴッチ引退後に世界ヘビー級王者に認定されていたアメリカス(ガス・ショーンライン)も破り王座奪取。だがズビスコは同年後半から1920年までの長期に亘り国外で活動していたため、両王座は空位になった。

ズビスコが米国を去ると間もなくアバーグが再び世界グレコローマン王座を主張。1915年10月ニューヨークで開催されていた国際トーナメントのグレコローマン部門でスタニスラウスの弟ウラデック・ズビスコを破り正式に世界王者に認定。1920年頃まで王座を保持し、1910年代の大半をグレコローマン王者として活躍した。

だが1920年代には、エド・ストラングラー・ルイスとビリー・サンドウ、トゥーツ・モントのゴールドダスト・トリオを中心に『プロレス団体』という概念も生まれ、選手権認定もより明確になり、選手同士の抗争といった『流れ』も増え、プロレスの興行形態自体に大きな変化が訪れる中、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンが主流となった。

ヨーロッパでも、国によって1930年代や1940年代まではグレコローマンのトーナメントが続いていたが、1950年代には大半がフリースタイルになっていた。

アマレスでは現在もグレコローマンが2大種目の1つだが、大衆娯楽としての分かり易さを求められるという理由からか、プロレスにおける需要はなくなったのかもしれない。

 


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