プロレスの主な源流だと言われるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン。
定期的に行われていたトーナメントや特に管理団体のない選手権は古くから幾つもあったようだが、ランカシャーにおいて特定の団体が正式に認定した最初のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン王座は、1861年1月、マンチェスターのニュートン・ヒースにあった『コペンハーゲン・グラウンド』で数々のスポーツ興行をてがけていたトミー・ヘイズが設立した126ポンド級選手権だといわれている。ジョン・メドウクロフトがトーナメント決勝でウィリアム・ショラを破り初代王者に認定された。この選手権は7年間続き、1868年1月に封印され、翌1869年コペンハーゲン・グラウンドも閉鎖となった。
一方、同じくマンチェスターのオールダムにある『ハギンショー・グラウンド』でも経営者ジョセフ・チャドウィックが126ポンド級王座を認定し、1865年7月に開催された6人参加初代王座決定トーナメント決勝でテディ・ロウがデビッド・ベントレーを破った。1871年11月、当時の王者エドウィン・ビビーが王座を封印し、126ポンド級という体重制限から、キャッチ級(無差別級)に転向。

ビビーは、1878年12月の時点でイギリスのバーミンガムで世界王者として紹介されており、これが現在自分が把握している限りでは最古の世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王座に関する記述だ。ビビーが保持していた王座は、階級が明確にされてなく、1879年2月まで7度(実際にはそれ以上の可能性が高い)対戦したと言われるジョー・アクトンとの試合も、その度に異なる体重制限が設けられていて、特定の階級の選手権ではなかったようだ。
アクトンに敗れたビビーは米国に渡り、1881年1月、ニューヨークでダンカン・C・ロスを破り、米国王者に君臨。だが、『米国と世界』でも書いたとおり、場所や日時によって世界王座もしくは米国王座と書かれていたりと様々なので、研究している側としては混乱しやすい。Wrestling-Titles.comでは、なんとかそれぞれを別王座としてまとめてみたが、それでも注釈が多くなってしまう。また、米国王座も英国版世界王座同様、当時の新聞記事を調べる限りでは体重別階級が明確ではない。この米国王座(または米国版世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王座)に『ヘビー級』というのが使われ始めたのは、おそらく1890年代後半、ファーマー・バーンズが保持していた頃からだと思われる。尚、日本人初のプロレスラーとして知られるマツダ・ソラキチが、1884年1月ニューヨークでのデビュー戦で敗れた相手もビビーだった。
更に複雑なのは、米国王者と英国王者の間で試合が行われ、勝利者が世界王者に認定されるという場合。片方は正式に王者であっても、相手の選手は、選手権に権威を持たせるため、その試合のためだけに王者を名乗ることが多かったようだ。例えば、米国王者が、英国では特に何の選手権も保持していないのにイングランド王者として紹介された選手を破り、世界王者に認定されるといった具合だ。以下にその例を幾つか挙げるが、『』が付いているのが、実際に選手権を保持していたわけではないのに王者として紹介されている場合。左が勝者。
- 1882/08/07 米ニューヨーク – 世界選手権: ジョー・アクトン (米国で『イングランド王者』) vs エドウィン・ビビー (米国王者)
- 1888/05/07 米シカゴ – 世界選手権: エバンルイス (米国王者) vs ジャック・ワノップ (米国で『イングランド王者』)
- 1890/02/15 米ミルウォーキー – 世界選手権: ジャック・カーキーク (前年同地で世界王座を奪取したが、なぜかこの時点では米国王者) vs トム・コナーズ (米国で『イングランド王者』)
- 1894/10/08 英リバプール – 世界選手権 (米ボストンでは英国選手権として報道): トム・マキナーニー (英国で『米国王者』) vs チャールス・ドナルドソン (スコットランド王者)
19世紀後期のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン選手権については、英米の2国間だけで『世界』が決まることが多かったようだ。
1887年6月、数年に亘り英国で世界王者に認定されていたトム・コナーズが、ピッツバーグで米国版世界王者エバン・ルイスを破り、米国においても世界王者に認定された。だが、ルイスの経済的支援者だったパーソン・デイビーズは王者としてのルイスを必要としていたため、その後も引き続きルイスに米国王者を名乗らせ、上述のとおり、翌1888年5月、仲間であるジャック・ワノップに『イングランド王者』を名乗らせ、ルイスと対戦させた。当然のごとくルイスが勝利を収め、再び世界王座を主張し始める。以後、1891年まで、幾度もコナーズとの再戦の話が持ち上がったが、実現には至らなかった。
ルイスの王座は、その後1895年4月にファーマー・バーンズ、1897年10月にダン・マクラウド、1901年11月にトム・ジェンキンズが奪取。ジェンキンズは、それ以前の1899年6月にピッツバーグでモラディ・アリを破り既に世界王座を主張し始めており、1901年4月には世界グレコローマン王者アーネスト・ローバーを破り混合試合の世界王者としても認定され、マクラウドを破ることで、更に主張を強めた。1904年1月、ワシントン州ベリンガムで、フランク・ゴッチがジェンキンズを破り米国王座を奪取するが、ジェンキンズは判定を不服とし引き続き世界王座を主張。
一方、コナーズは1889年1月、米国ミルウォーキーでジャック・カーキークに王座を奪われる。カーキークは1890年4月に、世界王座主張者トム・キャノンも破り、その後も1899年11月にリバプール、1904年1月にはロンドンでトーナメントに優勝。
最終的には、1905年1月、サンフランシスコでジェンキンズがカーキークを破るが、この試合に関する報道も様々だ。

世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン選手権
トム・ジェンキンズ(上) vs ジャック・カーキーク(下)
サンフランシスコ現地の新聞では、王座を主張し続けるジェンキンズが世界王者カーキークに挑戦と報道されているが、他地区の新聞の中には、世界王者ジェンキンズに元王者カーキークが挑戦というものもあった。
いずれにせよ米国版世界王者ジェンキンズが英国版世界王者カーキークを破り、2ヶ月後の1905年3月にはフランク・ゴッチから王座も奪回し、更に2ヶ月後の1905年5月にゲオルグ・ハッケンシュミットに敗れるまで、少なくとも米国においては、真のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者に君臨した。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Story of Catch: First Fity Years 1820-1870
- WrestlingClassics.com
- The San Francisco Examiner
- The Era (ロンドン地方紙)
