プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。
日本国外のPURORESUファン同士でのビデオ交換が活発になり、インターネットが一般の人々に普及した1990年代以来、日本のプロレス界が世界に誇るジュニアヘビー級。かつてその最高峰だと言われたのがWWFジュニアヘビー級王座だ。
1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、新日本プロレスから海外武者修行中だった藤波辰巳が奪取したこの王座、後に新日の実況により、『ディファジオ・メモリアル』として知られることになった。
だが、意外にもそのジョニー・ディファジオという選手については、多くは知られていない。それもそのはず、日本では『ディファジオ・メモリアル』という言葉のおかげで、あたかもニューヨークで大活躍していたかのような印象をファンに持たせている感があるが、実際のところディファジオはそのプロレス人生の殆どをピッツバーグ地区のみで過ごしたからだ。少なくとも現時点で判明している記録によると、ディファジオはマディソン・スクエア・ガーデンはおろか、ニューヨーク市周辺で試合をしたことがないと思われる。
ではなぜ『ディファジオ・メモリアル』と呼ばれるようになったのか。
1958年から1966年まで、ピッツバーグのプロモーターは、ワシントンDCのビンス・マクマホンとキャピタル・レスリング・コーポレーション(CWC)を共同運営していたトゥーツ・モントだった。ジョニー・ディファジオは1962年にデビュー。『ジャンピング・ジョニー』と呼ばれていたことから、その動きも軽快だったのだろう。
翌1963年、CWCは(表面上では)NWAを『離脱』しWWWFを『発足』。そんな中、ピッツバーグ地区に留まっていたディファジオは、メインイベントでWWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルティノのタッグパートナーに抜擢される程の人気者になっていた。
1965年9月、モントは、世界ジュニアヘビー級王者ポール・ドゥガレの参戦を発表。

(ベルトの写真はおそらく合成)
📷 – Steel Belt Wrestling
ドゥガレは1950年代後半、オハイオ州のMWAから世界ジュニアヘビー級王者に認定されていたこともあったが、1960年7月には当時ピッツバーグ地区の一部だったウェストバージニア州チャールストンでインターナショナル王者として参戦したこともあった。だが1965年の時点では、どこの団体からも世界王者に認定されていたわけではなく、ピッツバーグ地区参戦時に王者として仕立て上げられただけで、『WWWF認定』ではなく、あくまで地区限定だった。
そして1965年10月15日、ディファジオはドゥガレを破り王座奪取。
だが翌1966年、モントは同地区の興行権をピッツバーグ在住だったサンマルティノに売り渡す。サンマルティノはジュニアヘビー級に興味を示さなかったのか、同年後半になると、ピッツバーグにおいてディファジオがジュニアヘビー級王者として紹介されることはなくなった。同地区内でもピッツバーグ以外の町では1968年頃まで時々王者として紹介されることがあったようだが、肝心な同地区のテレビ中継『スタジオ・レスリング』での防衛戦は行われなくなったようだ。
1971年、ニュートン・タットリー(ジート・モンゴル)がサンマルティノから興行権を受け継ぎ、同年12月には、ディファジオをパートナーにピッツバーグ版世界タッグ王座を奪取するが、翌1972年、NWFが同地区を買収した頃には、ディファジオのジュニアヘビー級王座は既に自然消滅していた。その後もディファジオは同地区で選手活動を続け、1980年代にWWFが全米進出を初めてからも、地元での大会には時折前座で出場していたが、引退後はペンシルバニア州アレゲニー郡議員になり、これを書いている時点でも議長を務めている。
※ 追記: 2021年2月26日、80歳で他界。
ピッツバーグのローカル王座とはいえ、WWWFと提携していた地区であり、WWWFには他にジュニアヘビー級王座がなかったことから、後に日本でこの王座がWWWF王座の原点として認識されることになったのだろう。

右の写真がジート・モンゴルと共に保持していた世界タッグ王座であることから、左の写真が世界ジュニアヘビー級のものだと思われる。
ピッツバーグ地区がNWFに買収されてから6年後の1978年、新日と提携関係にあったWWWFは正式にジュニアヘビー級王座を認定。過去の日本の情報では、1月20日にニューヨーク州ユニオンデールで行われた王座決定戦でホセ・エストラーダがトニー・ガレアを破ったとなっていたが、当日ガレアはピッツバーグでスタン・スタージャックとの試合が組まれており、それ以前に当時既にヘビー級としてセミファイナルあたりで活躍していたガレアが、前座中心に試合をしていたエストラーダにジュニアヘビー級の王座決定戦で負けるとは考え難い。いずれにせよ、エストラーダは藤波戦のために王者に認定されたということになる。
正式にはエストラーダが初代WWWFジュニアヘビー級王者ということになるが、もし遡及的にディファジオを元WWWF王者とするなら、あくまで第2代王者であって、初代王者はドゥガレだ。

📷 – NYProWrestling.com
1978年当時、NWA世界ジュニアヘビー級王座は、通常オクラホマ州やテキサス州から東側の米国南部のみで防衛され、1979年に同王座を管理していたレロイ・マクガークのオクラホマ州地区が縮小すると、管理も曖昧になっていった。
一方、エストラーダからWWWF王座を奪取した藤波は、以後WWWFと新日本、ロサンゼルスでの試合に王者として頻繁に出場するだけではなく、カルガリーやメキシコも含む、NWA世界王者を超える広範囲で防衛を続けた。更には1981年7月、NWA世界王座こそかけられなかったものの、王者レス・ソントンを破りWWF王座を防衛、実質上ジュニアヘビー級の頂点に君臨し、日本が世界に誇る『新日ジュニア』の魁となった。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Pittsburgh Post-Gazette
- Steel Belt Wrestling
- Allegheny County
