ダラス角力史 – 第五章

1920年代後半

カテゴリー: ダラス角力史

1925年1月時点での選手権保持者:

1920年代半ばになると、元テキサス州ウェルター級王者ジャック・フォックスと、同じくウェルター級選手だったバート・ウィロビーが、ダラス地区初のプロレス専用会場『フォックス・ウィロビー・アスレチック・アリーナ』を拠点に同地区での興行を共同で手掛けるようになる。オープンエアで、『レスリング・パビリオン』とも呼ばれた同会場は、後にスポータトリアムが建てられた場所からトリニティ川を越えた辺りに所在していたと思われる。他にも、屋内会場としてフェアパーク・アリーナやダラス市役所講堂などでも試合が開催された。

1925年春の時点では、米国には世界ヘビー級王座を主張する選手が3人いた。スタニスラウス・ズビスコ、ウェイン・マン、エド・ストラングラー・ルイスだ。5月30日には、セントルイスでジョー・ステッカーがズビスコを破り王座を奪取。同日、インディアナ州ミシガンシティでは、ルイスがマンを破り王座統一。それでも年末には相変わらずルイスとステッカーと、複数の世界王者がいた。

ダラスでは1925年11月にルイスがジャック・ローランドを相手に防衛するが、数ヶ月後の1926年3月には、ステッカーが同じプロモーター達によりダラスへ招かれ、後にニューヨーク州体育協会から世界王者に認定されるジム・ブラウニングを破った。だが、相変わらず同地区のヘビー級は、世界王者が頻繁に防衛しに来ていたわけでもなければ、特に地域の王座も認定されず、それほど盛んではなかったようで、ライトヘビー級からウェルター級が興行の中心だったようだ。

1925年5月にアーネスト・グローバーから南部ライトヘビー級王座を奪取したスタンリー・ロジャースは、夏になるとあまり試合をしなくなった。ロジャースに敗れたグローバーは、隣のルイジアナ州で引き続き王者を名乗り防衛を続けていたが、9月2日、ダラスでハリー・デメトラルに敗れる。結局、防衛をしないロジャースは王座を剥奪され、デメトラルが認定されるが、ロジャースはその後も南部王座を主張し続けたり、南西部王者を名乗ったりしていた。

1925年9月23日には、後に世界ライトヘビー級王者として全米で活躍することになるヒュー・ニコルズが東部王者を名乗りダラス地区に参戦、デメトラルを破り2冠王となった。更にニコルズは翌1926年2月、南部または南西部王座を主張し続けていたロジャースも破る。後のプロモーターとしての活躍から、ハリウッドという印象が強いニコルズだが、実はアイオワ州出身で、この頃はダラスから140kmほど南に下ったとこにあるメキシアという町に落ち着き始めていた。以後、南部と東部の両王座は、ジョー・シムカス、チャーリー・フォックス、ハリー・マモスと、約半年の間に3人の選手達が奪取。

1926年11月、西部ライトヘビー級王者を名乗るビリー・エドワーズがダラス地区に参戦、南部および東部王者マモスを破り、米国王者に認定された。翌12月には、世界王者クラレンス・エクランドに挑戦し王座奪取に失敗するが、約2週間後の1927年1月3日、ついにエクランドを破り王座奪取、3月にヒュー・ニコルズに敗れるまで2ヶ月間保持した。その後、11月にエクランドがニコルズを破り奪回、1928年1月に元南部王者ジョー・シムカスに奪われるが3週間で奪回し、9月にはオーストラリアで、テッド・サイやアド・サンテルといった、他の王座主張者達を破り、統一世界王座に君臨した。

ビリー・エドワーズ
西部王者として南部と東部二冠王者を破って米国王者に認定された後、世界王座を奪取

一方、ミドル級では、1927年夏、「約4週間前(7月上旬)にジョニー・マイヤースから奪取した」として、世界王者ジョー・パレリがダラス地区に参戦。8月22日に、一度ガス・カリオに敗れ、約2週間後の9月7日に奪回するが、3週間後の9月29日には、減量をしてまでダラス地区での2階級制覇を狙ってきた世界ライトヘビー級王者ヒュー・ニコルズに敗れる。後にニコルズは、ライトヘビー級に専念し、ミドル級の体重制限を維持できていなかったことを理由に王座が空位となった。その後ダラスでは、多くの他地区同様、1928年8月に、シカゴで行われたイリノイ州体育協会認定の世界王座決定戦でチャーリー・フィッシャーを破り王座に帰り着いたガス・カリオが認定された。以降、1935年にメキシコでオクタビオ・ガオナに敗れるまでの殆どの期間、カリオがミドル級の頂点に君臨する。

ニコルズを中心としたライトヘビー級やミドル級の選手達の活躍により、盛況ぶりを見せていたダラスのプロレス界だったが、1927年夏、プロモーターの1人であるバート・ウィロビーが、選手として他地区に転戦することになり、一時的だがパートナーのジャック・フォックスに興行を一任することとなった。フォックス同様ウェルター級だったウィロビーは8月27日、オハイオ州コロンバスで、当時ウェルター級の第一人者だったジャック・レイノルズから世界王座を奪取し、同地で奪回されるまで約3週間保持した。その後約1年間オハイオで選手として活動したが、翌1928年夏にはダラスに戻り、再びフォックスとのプロモーター業に専念。

ヒュー・ニコルズ
ダラスで、ライトヘビー級とミドル級の二階級を制覇

フォックスは1927年秋、再び世界ヘビー級王者エド・ストラングラー・ルイスをダラス地区に招く。ルイスは9月30日、フォートワースでジム・クリンストックに2本ストレート勝ち。だがフォックスは、ダラスでの世界選手権試合に向けて、あくまで勝ち抜き戦による挑戦者の選出に拘った。当時の新聞記事からのみだと解り難い部分もあるが、おそらくトーナメントというよりは、指定試合の勝利者が、更にフォックスが指定する相手と対戦し、最終的に勝ち抜き続けた選手が挑戦者になるということだったと思われる。多くの場合、その地区にヘビー級選手権を設立し、世界王者への挑戦権を得させるのだが、そうしてなかったのは、ヘビー級の選手層が薄かったからなのかもしれない。

10月20日、『ライオット・スクワッド』と呼ばれたデュセック4兄弟の1人で、当時同じテキサス州でも南にあるヒューストンで南部ヘビー級王者に認定され、南部だけではなく中西部でも活躍していたルディ・デュセックが、パット・マッギルと対戦。フォール技ではなく、寝技の展開中に転がっている間にレフリーにフォールを数えられたという理由で、マッギルが抗議し、観衆の中からも不満の声が多かったという不明慮な判定に終わった試合だが、最終的にプロモーターのフォックスは、記録上でフォール勝ちを修めたデュセックではなく、試合中にデュセックの歯を折るほどの意気込みを見せたマッギルに、次の試合への進出を認めた。

フォックスはマッギルの次の対戦相手として、ポール・ジョーンズか、または既に同地区で活躍していたアート・モントの弟で『トゥーツ』として知られるジョセフ・モントを候補として考えていたが、最終的に選んだのは、以前ヒューストンで南部ヘビー級王者に認定されていたジョーンズだった。11月3日、フェアパーク・アリーナで開催された世界王座挑戦者決定戦には約2,000人の観衆が集まり、ジョーンズがマッギルを破り挑戦権を得た。11月17日に同会場で行われた世界選手権試合では、1,800人と、挑戦者決定戦の時よりは少なかったが、王者エド・ストラングラー・ルイスが2本ストレート勝ちで防衛した。ルイスは2ヶ月後の1928年1月5日にも、ダラスのヒッポドローム劇場で、元世界王者ウェイン・マンを相手に、これまた2本ストレート勝ちし王座を防衛。1928年9月10日、フォックス・ウィロビー・アスレチック・アリーナでルディ・デュセックがラブリオラなるイタリア系の選手を破るが、これがルイスとマンによる世界選手権試合以来、ダラスにおける8ヶ月ぶりのヘビー級の試合で、やはり選手層が薄かったことが判る。

ウィロビーがオハイオ滞在中に抗争を繰り広げた世界ウェルター級王者ジャック・レイノルズがダラス地区に初登場したのは、奇しくもウィロビーが留守中の1927年9月12日、タフィー・マクマレンに2本ストレート勝ちした時で、世界王座をウィロビーから奪回した5日後のことだった。

その頃、同じテキサス州内とはいえダラスから1,020kmも離れた『国境の町』エルパソでは、1920年6月にレイノルズを破って以来、マティ・マツダが世界ウェルター級王座に君臨。他地区ではレイノルズら他の選手達に敗れたりすることもあったが、地元では約8年間、その地位を不動のものにしていた。だが1928年になると、体調不良により体重制限を維持できず、レイノルズとの試合を何度か延期し、最終的には1928年6月に王座を返上。それにも関わらずダラスでは、改めてマツダを招いて1928年8月13日に決着戦を開催、レイノルズが勝利した。

1920年代の大半を、世界ウェルター級王者として中西部から南西部、西海岸まで幅広く活動していたマツダは、その後地元エルパソでジュニアミドル級として試合をしていたが、1929年になるとオハイオやインディアナといった中西部に転戦。シンシナティでのバサンタ・シンとの試合で負傷し、ミシガン州の中でもインディアナに近いバトルクリークで療養していたが、8月15日、プロレス界初の日本人世界王者は帰らぬ人となった。追悼式には最後の対戦相手となったシンの他、かつてのライバルだったレイノルズ、ジョニー・マイヤースらが出席した。

同じく1929年には、アル・カラシックがダラス地区に参戦、世界ミドル級王者ヒュー・ニコルズに挑戦し敗れたものの、1933年頃まで同地区で時折メインイベントにも出場しながら活躍。

ヒュー・ニコルズ(ハリウッド)、ルディ・デュセック(ニューヨーク)、ポール・ジョーンズ(アトランタ)、アル・カラシック(ホノルル)と、将来のNWAに主要プロモーターとして名を連ねる面々が集結していたダラス地区。ウィロビーとフォックスによる指揮の下、安定していたと思われたが、1930年代に入ると大きな事件に遭うことになる。

1929年12月時点での選手権保持者:


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