ニューイングランドとは、米国北東部にある地方で、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、メイン、ニューハンプシャー、バーモントの6州からなる。中心都市はマサチューセッツ州ボストンだが、他にもコネチカット州ハートフォードやロードアイランド州プロビデンスなどが主要都市だ。だが、ブリッジポートやニューヘブン、現在WWE本社のあるスタンフォードなどを含むコネチカット州の南西部は、人口調査などを目的とする統計地域の定義上、ボストンではなくニューヨーク近郊という扱いだ。
プロレス史におけるニューイングランドといえば、1922年から1960年までボストンのプロモーターだったポール・バウザーの印象が強いかもしれない。バウザーが1931年からアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)の名称を使い始めてからは、少なくとも王座の面では世界ヘビー級選手権が中心となっていったが、AWA以外ではその他の階級の選手権が認定されることもあった。
現在判明している範囲で、ニューイングランドにおいて最初に世界ライトヘビー級王者として紹介されていたのは、1905年10月頃にマサチューセッツ州スプリングフィールドで王座を主張していたジェームス・パーだ。ゲオルグ・ハッケンシュミットとも対戦したことがあるランカシャースタイルのイギリス人選手で、この数ヶ月前にはオハイオ州でも王座を主張していたことがあった。だが、11月9日、ニューヨーク州バッファローで、王座主張者フレッド・ビールに敗れる。この頃パーは、他地区では主に英国王者として紹介されることが多かったので、スプリングフィールドでは単発的なものだった可能性がある。
1909年10月4日、コネチカット州ハートフォードで、サイクロン・バーンズことジョニー・バーンズが、ジョン・パレリを破り王座に君臨。
その年の3月、メリーランド州ボルティモアでは、アメリカスこと米国王者ガス・ショーンラインが欧州王者ボブ・モノゴフ(後の世界ヘビー級王者ボビー・マナゴフとは別人)を破り、同地区において王者に認定されていた。
サイクロン・バーンズは1911年に入ってからもコネチカット州やバーモント州で王座を保持していたが、ボストンでは同年11月、アメリカスが王者として紹介される。そして1912年5月13日、ボストンでアメリカスがバーンズを破るが、統一戦ではなく、あくまでアメリカスによる防衛戦だという扱いだった。
だが、1912年後半になると、アメリカスがライトヘビー級の体重制限を維持できなくなったということを理由に、バーンズが再び王座を主張し始める。以後数年間、ニューイングランドにおいて王座を防衛し続け、更には1917年2月に開催された国際トーナメントにも優勝。バーンズは通算10年半王座を保持し、1920年3月にはボストンでジム・ロンドスに敗れ王座を奪われる。

1910年代の殆どを王者として活躍。
1921年2月、ニューヨークで元世界ヘビー級王者アール・キャドックがロンドスから王座を奪取。一方、コネチカット州やバーモント州では、翌1921年1月頃から、レナト・ガルディーニが王座を主張していたが、同年4月、ボストンでキャドックに敗れる。キャドックは1923年、伝道師になるために引退。
※ キャドックが引退を最初に表明したのは1922年5月で、一般的には最後の試合が1922年6月だと言われているが、7月にもセントルイスで試合をし、翌1923年3月、改めて引退が報道されている。
キャドック引退が新聞などで報道された数日後の1923年3月15日、ポール・バウザー主催の興行での王座決定戦でジョン・ペゼックがジョージ・コツォナロスを破る。だが、これ以降のペゼックの防衛戦の記録はなく、中西部や南部などの他地区では、既に世界ジュニアヘビー級王者として活動していたことから、これもまた単発的なものだったのかもしれない。
アメリカス、ロンドス、そしてペゼックと、まるで登竜門であるかのように、後に世界ヘビー級王座に君臨する選手達が、20世紀初期のニューイングランドで世界ライトヘビー級王者に名を連ねていた。
だが、不思議なことに、1920年代の中頃については、同地区でのライトヘビー級選手権に関する情報が殆ど発見されていない。世界選手権やニューイングランド選手権だけではなく、各州選手権においても同様だ。1928年3月に、バーモント州バーリントンでピンキー・ガードナーが世界王座を防衛したようだが、これはおそらく、前年オハイオ州で王座を保持していたことから、ゲスト参戦的なものだったのではないかと思われる。
1929年、南部およびフロリダ州ライトヘビー級王者に認定されていたスティーブ・パッサスが、王座から転落するとニューイングランドに転戦。当初はバーモント州などで南部王者として紹介されていたが、1930年に入ると、マサチューセッツ州スプリングフィールドを中心に世界王者として紹介され始める。
ボストン・アリーナを本拠にしていたポール・バウザーがアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)を発足した1931年6月、同じくボストンのメカニックス・ビルディングを本拠にチャーリー・ゴードンがマサチューセッツ・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足。以降、AWAはヘビー級王座、MWAはライトヘビー級以下を中心に興行を続けていく。
MWAは発足間もなくパッサスを正式に世界ライトヘビー級王者に認定。MWA以前の時期も含めると約3年保持し、1933年1月にはグレート・メフィストに王座を奪われる。同年9月に奪回するが、11月にはニューハンプシャー州ベッドフォードでチャーリー・モクィンに敗れる。他地区ではジョージ・デュセットの名で活躍していたが、ニューハンプシャー州では引き続きモクィンとして試合を続けていた。
1934年3月22日、MWAの興行で、モクィンはカウボーイ・ヒューズを相手に王座を防衛する予定だったが、不出場。代打として出場したウィン・ロビンスがヒューズを破る。この頃からボストン近辺の世界ライトヘビー級王座が分裂し、ボストンのMWAではロビンス、メーン州ポートランドを含むそれ以外の地域では引き続きジョージ・デュセットが認定。
MWAではウィン・ロビンス以外にもジャック・バーナードやキラー・マードックなども王座を保持したが、1930年代初期、同団体で世界ミドル級王座を保持したテッド・ジャーメインとポール・アダムスが、1930年代後半にはそれぞれ4度ライトヘビー級王座を奪取。1939年にMWAが閉鎖したと思われる頃にも、アダムスが王者だった。

ニューイングランドでミドル級、ライトヘビー級、ジュニアヘビー級と、世界選手権3階級制覇。
一方、MWA以外で引き続き認定されていたデュセットは、1934年4月、ポートランドでフレッド・ブルーノに敗れ王座を奪われる。1934年6月には同じくポートランドでパッサスがブルーノを破り王座奪回。翌7月、マサチューセッツ州セーラムでデュセットがパッサスから王座奪回するが、1935年後半になると、デュセットはオハイオ州に活動の場を移す。この際、王座が空位になったと思われるが、ニューイングランドを去る前にパッサスに王座を奪回された可能性もある。いずれにせよ、翌1936年に入ると、パッサスが4度目の王座栄冠を果たしていた。
1936年2月、ポートランドでジャッキー・ニコルズがパッサスから王座を奪取。少なくとも5月までは王座を保持していた。
同年8月、ロードアイランド州プロビデンスで開催された世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントでドロップキック・マーフィーが優勝してからは、ボストンでもライトヘビー級に代わりジュニアヘビー級王座が防衛されるよになった。
だが約2年後の1938年9月、当時ボストンやプロビデンスで世界ジュニアヘビー級王者として活躍していたスティーブ・パッサスが、コネチカット州ブリッジポートで世界ライトヘビー級王者として登場。

通算3年半以上王座を保持。
ブリッジポートのプロモーターはジョー・スミスという、後に1950年代から1960年代にかけて、同地においてビンス・マクマホン・シニアとトゥーツ・モント率いるキャピタル・レスリングおよびWWWFのテレビマッチを担当した人物だった。だがこの1930年代後期は、悪名高きプロモーターとして知られるジャック・フェファーとの共同運営だった。プロレスを競技としてではなく、あくまで芸能として催していたフェファーは、過去にも新聞上で業界の裏を暴露するなどし、他のプロモーター達からは『業界の癌』と呼ばれ、後にモントリオールのエディ・クインがNWAを脱退する理由につながるほど毛嫌いされていた。
パッサスは11月、ボストンでカーリー・ドンチンに敗れジュニアヘビー級王座を奪われるが、ブリッジポートでは翌1939年1月、ジョージ・ベッカーに敗れるまでライトヘビー級王座を保持した。
ベッカーは3月、デーブ・レヴィンに敗れるが、約1ヶ月で奪回。だが、更に1ヶ月後の5月、キャロル・クラウザー(カール・ゴッチとは別人)に王座を奪われる。9月にはモーリス・ボイヤーがクラウザーから王座を奪取するが、11月には、後に日本で力道山をコーチしデビュー戦の相手も務めることになるボビー・ブランズに敗れる。1939年だけで6度と、著しく王座が移動した。
現在と違い、第二次世界大戦前の米プロレス界はボクシング同様多くの体重階級が存在していたが、ここでもフェファーは、その『競技らしさ』を無視し、この試合の後、突如ブランズを世界ヘビー級王者として認定した。そしてこの王座が、後にプロレス史に残る面白い展開をしていくことになるのだが、それについては別の機会に書こうと思う。
以後、ニューイングランドで世界ライトヘビー級選手権が定着することはなく、1940年代に入ると、単発的なものしか存在しなかったようだ。現在判明している範囲で最後にニューイングランドで主要団体が認定したのは、1957年夏、トニー・サントスのビッグタイム・レスリングでポール・カーペンティアが保持していた王座で、翌1958年6月頃まで保持していた。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Boston Globe
- Boston Herald
- The Portsmouth Herald
- The Bridgeport Telegram