1945年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ビル・ロンソン
- 世界ジュニアヘビー級: レロイ・マクガーク
- 世界女子: ミルドレッド・バーク
- 州ヘビー級: オラフ・オルソン
第二次世界大戦中もある程度盛り上がり、終戦を迎えようとしていたテキサスのプロレス界。州東部では、ヒューストンのモリス・シーゲルを中心とし、エド・マクレモアがプロモーターを務めるダラス地区を含む全域においてカール・サーポリスがマッチメーカーとして手腕を発揮していた。1935年に建てられたプロレス専用会場スポータトリアムも、10年目に入っていた。
NWA(アソシエーション)世界ヘビー級選手権の実権を握っていたのが、シーゲルと友好関係にあったミズーリ州セントルイスのトム・パックスだったことから、同王座はダラスでも頻繁に防衛された。1945年4月11日のスポータトリアム大会では、ビル・ロンソンが、王座奪回を狙う前王者ボビー・マナゴフの挑戦を退けた。ロンソンは1943年2月にセントルイスでマナゴフから王座を奪取後、1947年2月に同じくセントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンに敗れるまで、4年間の長期政権を築いた。

📷 – テキサス大学アーリントン校図書館
テキサス州ヘビー級選手権も、当然のことながらダラスで頻繁に防衛され、1946年6月24日には、フォートワースでケイ・ベルがバディ・ロジャースを破り、1944年5月にヒューストンでの王座決定戦に勝利したルー・テーズが本格的に州王者として認定されて以来初めてダラス地区で王座が移動。また、1946年11月には、ダラスでテーズがテッド・コックスを破り、4度目の奪取となるが、翌1947年4月にはセントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り世界王座を奪回したことから、州王座は空位。1947年7月、フォートワースで王座決定トーナメントが6人で争われ、サニー・マイヤーズが優勝した。約1ヶ月後、ヒューストンで、後に州王座を合計10度奪取することになるミゲル・グスマンがマイヤーズを破る。1948年3月には、フォートワースでレベル・ラッセルがグスマンを破り州王座を奪取するが、1週間後には、これまた10度奪取することになる元祖『流血王』ダニー・マクシェーンがフォートワースでラッセルでを破り初栄冠。

テキサスで活躍する前は、母国メキシコで世界ミドル級王座やナショナル・ライトヘビー級王座も奪取。
1948年といえば、1月から2月にかけて、沖識名がテキサスを転戦。太平洋戦争開始当時、アラバマ州で試合をしていた沖だったが、真珠湾攻撃の翌日、バーミンガムのプロモーターだったジョー・ガンサーの配慮(?)により、危険から逃れるため試合から外され、その後数年間は他の日系人達のように捕虜収容所に入ることなく、雛の性別を鑑別する仕事に就いていた。1月13日、戦後初のダラスでの試合で、NWA(アソシエーション)世界ヘビー級王者ビル・ロンソンに挑戦し敗れた。
プロレス会場として知られるダラス・スポータトリアムだったが、プロモーターで所有者でもあるエド・マクレモアは1947年、同会場にてカントリー音楽のラジオ番組を開始する。1926年開設以来現存するラジオ局KRLDで放送されたこの番組は、1948年10月に『ビッグD・ジャンボリー』と名称を変え、後にカール・パーキンズやエルビス・プレスリーらも出演、CBSラジオでも全国放送され、カントリー音楽で最も有名な番組であるテネシー州ナッシュビルの『グランド・オール・オプリ』への登竜門的な位置付けだった。

📷 – Scotty Moore / Wikipedia
この『ダラス角力史』シリーズでは、南北戦争が終わった頃の事からを書き続けているが、奴隷制度はなくなったとはいえ、1世紀後の1960年代まで人種差別が本格的に法律上制限されることはなかった。1940年代と言えば、特に南部ではまだまだ公な人種隔離が続いていた時代で、軍隊内でさえも黒人部隊は白人と別にされながらも指揮をするのは白人という状況だった。一般庶民の白人達が黒人を取り囲んで木から吊るして絞首するという公開私刑も珍しくなかった。プロレス界でも当然のように、黒人選手と手を合わせるのを嫌がったり、黒人選手が王座を奪取するなどして売り出されることに反感を持つ白人選手も少なくなかったという。そういった理由からか、選手数自体少なかったようで、自分が調べてきた範囲では、黒人選手の活躍が新聞記事で目立つようになったのは1930年代後半以降のことだ。全米各地で黒人専用選手権が認定され始めたのもこの頃だ。
そんな中、1947年7月15日にスポータトリアムで行われた前座試合で、ダラス初の黒人同士の試合が組まれ、タイガー・レッド・ニューソンがジョニー・コブに勝利。1948年にはテキサス州黒人ヘビー級王座も新設され、12月16日のスポータトリアム大会でグラディ・シングレタリーがコブを破り、初代王者に認定。ちなみに、3千人の観衆を集めた同大会のメインイベントでは、渡米間もない同年8月、ヒューストンでテキサス州ヘビー級王座を奪取したアルジェンティナ・ロッカ(アントニーノ・ロッカ)が、アントン・レオネを破り州王座を防衛。

メインイベントではミゲル・グスマンがスターリング・デービスに勝利。
1949年4月19日には、1947年からロサンゼルス周辺で世界黒人ヘビー級王者として活躍していた『黒豹』ジム・ミッチェルが登場。ダラスでの王座防衛の記録は見つかっていないが、4月28日には州南部メキシコ湾沿いのガルベストンでドン・キンドレッドを破り防衛。
同じく1949年、モリス・シーゲルのNWA(アライアンス)加盟が決定。年次総会がセントルイスで開催されたのは11月だったが、シーゲル他2人のプロモーター達の加盟が承認されたのは9月のことだった。前年7月、アイオワ州のピンキー・ジョージを発起人とし計6人のプロモーター達によって結成されたNWAも、1949年総会には会員20人に拡大していた。
NWA(アライアンス)では、原則として各地区の窓口となる『ブッキング・オフィス』を持つプロモーターが加盟することができ、テキサス州東部の場合は、ヒューストンのモリス・シーゲルが正会員で、ダラスのエド・マクレモアはその傘下という形になっていた。1949年の総会にはマクレモアもシーゲルと共に出席。同じテキサス州内でも、西部アマリロのドリー・デットンが加盟したのは1951年10月だった。ちなみに、力道山時代の日本プロレスは、当時のNWA会報誌によるとアル・カラシックを窓口としたホノルルのブッキング・オフィスの傘下という扱いで、日プロが正式に加盟したのは1969年のことだった。
シーゲルがNWAに加盟する前からその準備は進んでいたようで、承認される5ヶ月前の1949年4月、マクレモアは既にNWA(アライアンス)世界ヘビー級王者オービル・ブラウンをダラスに招こうとしていた。実際にブラウンがダラスに登場したのは8月下旬で、サンディ・オドネル(レイ・エッカート)を破り王座防衛。
世界ジュニアヘビー級選手権は、同年末アイオワ州でビリー・ゲルズを破りアライアンス王座を統一するまで、レロイ・マクガークが引き続き1939年以来保持していたアソシエーション王座をダラスで防衛していた。
1949年11月1日、NWA(アライアンス)世界ヘビー級王者オービル・ブラウンが交通事故に遭い、11月25日にセントルイスで予定されていたアソシエーション王者ルー・テーズとの統一戦に出場不可能となったため、11月27日付でテーズが統一王者に認定。12月には早速テキサス州にも新王者として登場し、12日にはフォートワースでチーフ・チュワッキ、翌13日にはスポータトリアムで世界ジュニアヘビー級王者レロイ・マクガークの挑戦を退ける。
NWAに加盟したヒューストンのモリス・シーゲルやマッチメーカーのカール・サーポリスと共に、テキサス州東部のプロレス界を独占していたダラスのエド・マクレモアだが、1950年代にはそれを揺らがす出来事が待ち構えていた。
1949年12月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ルー・テーズ
- 世界ジュニアヘビー級: レロイ・マクガーク
- 世界女子: ミルドレッド・バーク
- 州ヘビー級: バーン・ガニア
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Legacy of Wrestling
- Dallas Morning News
- Texas State Historical Association