以前、プロレス界初の黒人世界王者は、1954年にイギリスのアバディーンでノーマン・ウォルシュを破り、世界ミッドヘビー級王座を奪取したブラックブッチャー・ジョンソンだと言われていると書いたが、その後、実際にはそれより約17年前に他の選手が世界王者に認定されていたことを知った。
まず、なぜ多くの研究者達がこの話題に拘るのかということを説明すると、『ダラス角力史 – 第九章』でも多少触れたように、米国における一般社会や他のスポーツ同様、プロレス界でも白人選手やプロモーター、観客らによる有色人種に対する差別が多く、黒人選手に触れるのを嫌がったり、黒人選手が王座を奪取するなどして売り出されることに反感を持つ白人選手も少なくなかったからだ。挙句の果てには『黒人選手権』なるものまで登場したくらいだ。
よく話題に挙がるのが、誰が黒人初のNWA世界ヘビー級王者なのかということ。これは、2002年8月にテネシー州ナッシュビルでケン・シャムロックを破って奪取したロン・キリングス(R・トゥルース)だということは明確だ。1962年にボボ・ブラジルがバディ・ロジャースを破ったという話があるが、これについては、『幻の黒人世界王者』に詳しく書いたとおり、ブラジルを元王者に含めるのには無理がある。
AWAはどうだろうか。世界ヘビー級選手権については、1984年2月にニック・ボックウェインケルから奪取したジャンボ鶴田と、1990年2月にラリー・ズビスコから奪取したマサ斎藤以外は全て白人だ。世界タッグ選手権でさえも、1987年10月にテネシー州メンフィスでドクター・Dと組みジェリー・ローラー & ビル・ダンディから奪取したヘクター・ゲレロ以外は、これまた全て白人だが、僅か一週間後にはローラー & ダンディに奪回されたことから、メンフィス限定の王座移動だったのはほぼ確実で、AWA本部(というかバーン・ガニア)が黙認したか、またはメンフィスがガニアの許可なしで王座移動を強行したのではないかと思われる。
これについては、以前当時のAWAに詳しい方々にも尋ねてみたところ、「単にガニアがあまり黒人のことを好きではなかった」というのと、「南部と違って、北部でわざわざ黒人選手を売り出す必要はなかった」という、2つの説が多かった。だがAWA圏における最大都市はシカゴで、昔から黒人音楽として広まったブルースも盛んで、決して黒人ファンを無視できない土地であることも事実なので、地域的なことが理由だとは思い難い。
WWEについては、元々ニューヨーク近辺の人種的な状況を基に王者を決めていたことがあったので、イタリア系のファン向けにブルーノ・サンマルティノ、プエルトリコ系を中心としたヒスパニック向けにペドロ・モラレスが王者に仕立て上げられていたが、黒人選手で初めて世界ヘビー級王座を奪取したのは、1998年12月、王座決定トーナメントに優勝したロッキー・メイビア(ザ・ロック=ドウェイン・ジョンソン)だ。『ハーフ』という言葉が使われる日本から来ている自分にとっては、長年非常に理解し難かった話として、通常アメリカでは、混血だろうと何だろうと、何故か、少しでもアフリカ系の血が入っていれば黒人という扱いになるという事実がある。ドウェインも父親が大人気の黒人選手ロッキー・ジョンソンだったわけで、本来ならそうなりそうなものだが、どちらかというと黒人と言うより、WWFデビュー当時はリングネームの姓も本名の『ジョンソン』ではなく『メイビア』で、サモア系の格好で登場していた。いずれにせよ、黒人選手として売り出されてはいなかった。それ以外にも、これまでWWEヘビー級王座を奪取してきた中で、有色人種はほんのわずか。世界的な企業のWWEでさえもこういう状態で、以前、数年間におよぶWWEでの活躍後に帰国した某日本人選手が、「WWE王座に届くまでには『見えない壁』がある」という内容のことをインタビューで話していたのが思い出される。
米国やカナダのみではなくヨーロッパやオーストラリアにも遠征し国際的に活動していた団体において、初めて世界ヘビー級王者に認定された黒人選手は、1992年8月、ビッグ・バン・ベイダーからWCW王座を奪取したロン・シモンズだ。ただ、WCWが『NWA』の名称を使用するのを止め、全ての選手権を『WCW認定』としたのがその前年だったことから、シモンズが初の黒人NWA王者だと誤解されることも少なくない。
上記を含む米国の全ての主要団体での初の黒人王者は、1963年8月、ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーからWWA王座を奪取したベアキャット・ライトだ。興行という面では、カリフォルニア州南部および隣のネバダ州の一部と、全米規模ではなかったが、ブラッシーが全米各地で同王座を防衛していたことから、NWA、AWA、WWWFと並び、4大主要団体の1つとして認識されることもあったようだ。ただし、『ニューイングランドの世界王座(1)』でも書いたとおり、ベアキャット・ライトはその約2年前の1961年4月にも、マサチューセッツ州ボストンでキラー・コワルスキーを破りビッグタイム・レスリング認定世界王座を奪取している。
そして1937年、そのボストンで黒人選手が世界ヘビー級王者として認定されていた。
当時、ボストンでは、ニューイングランドだけではなく全米に及んで影響力を持っていたポール・バウザー以外にも、小規模の興行を続けていたプロモーター達がいた。チャーリー・ゴードンもその1人で、マサチューセッツ・レスリング・アソシエーションという団体名で、世界ライトヘビー級およびミドル級王座を認定していた。だが1937年、MWAは、当時黒人選手として頭角を現していたシーリー・サマラに白羽の矢を立てた。

場所によってはラス・サマラというリングネームも使っていたが、エチオピア出身で、エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世ともつながりがあるという触れ込みで、ハイレ・サマラを名乗ることもあった。
だが、本名はジョージ・ハーディソンで、ジョージア州フォートバレーの出身。父親が元ボクサーと親しかったということもあり、若い頃にボクシングに夢中になり、『バルバドスの悪魔』ジョー・ウォルコット(ジャージー・ジョー・ウォルコットとは別人)の子分だったという説もある。事実、ボクサー時代には『ヤング・ウォルコット』のリングネームで試合をしていたそうだ。
1934年頃プロレスラーとしてデビュー。技術的な面でも成長が著しく、行く先では主要選手の1人として名を連ねることも困難ではなかったという。
1937年11月、『黒い悪魔』の異名でボストンのMWAに参戦。翌12月には同団体から世界ヘビー級王者として認定されていた。1938年1月7日には、なんと敵対するポール・バウザーのAWAの会場ボストン・ガーデンに殴り込み、エベレット・マーシャルがエド・ダン・ジョージと対戦したメインイベントの前にリングに上がり、挑戦を表明。1月12日のMWAのボストン・アリーナ大会には、AWAの代理人が現れ、挑戦受託を発表。翌週の大会での試合が決定した。
1月19日、ボストン・アリーナで、MWA世界ヘビー級王者シーリー・サマラに、AWA代表ビリー・バートゥッシュが挑戦。本来なら、AWA世界王者であるイボン・ロベアか、次期王者候補だったスティーブ・ケーシーがAWAから送り込まれるべきだと思われるかもしれないが、バートゥッシュはAWAにおいて、プロモーターの意図から外れるようなことが起こった場合に『対応』する『ポリスマン』的存在だったようだ。大きな話題となった試合だが、なんと翌日には結果が新聞に載っていなかった。バウザーが期待していた結果ではなかったため、新聞社に圧力をかけたという説があり、事実、数日後のボストン・グローブ紙1月24日号では、サマラの圧勝だったと思わせる記事が載っており、2月2日号ではサマラがバートゥッシュを「叩きのめした」とまで書かれていた。また、2月2日に行われたMWAの大会では、AWAからの2人目の刺客トーア・ジョンソンがサマラに挑戦するが、またもや翌日の新聞には結果が載っていなかった。更に2月23日、サマラはAWAの常連だったハンス・スタンキーも破っている。
だが、3月11日、AWAのボストン・ガーデン大会で、AWA世界王者スティーブ・ケーシーに敗れ、MWA王座は封印。サマラは、夏頃までニューイングランドで試合をしていたようだが、年末にはペンシルバニア州に下り、フィラデルフィア周辺に転戦。その後、1940年代には全米各地で世界黒人ヘビー級王者として活躍。オレゴン州では1945年3月に北西部ヘビー級王座も奪取している。第二次世界大戦後はオーストラリアやニュージーランドにも遠征し、シドニーでは1万人の観衆の前で世界ヘビー級王者ジム・ロンドスに挑戦したという。1956年冬以降の試合結果が見つからないことから、その頃引退したと思われる。
1930年代から1940年代にかけて、サマラやジャック・クレイボーンらによって切り開かれたプロレス界における黒人選手の活躍は、1950年代になると、ルーサー・リンゼイ(ルター・レンジ)やドリー・ディクソン、スウィート・ダディ・シキらに受け継がれることになる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Boston Globe
- Boston Herald
- Biography of Seelie Samara
- Legacy of Wrestling