1950年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ルー・テーズ
- 世界ジュニアヘビー級: レロイ・マクガーク
- 世界女子: ミルドレッド・バーク
- 州ヘビー級: バーン・ガニア
1948年7月、アイオワ州ウォータールーで、同州デモインのピンキー・ジョージを発起人とし中西部の6人のプロモーター達によってナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が結成された。本来ジョージは自身の周囲のプロモーター達の間で世界王座を共有するという程度しか視野に入れてなかったが、その後全米からプロモーターが集まり、翌年の総会には会員数が20人に膨れ上がっていた。1949年総会がミズーリ州セントルイスで開催されたのは11月だったが、ヒューストンのモリス・シーゲルの加盟が承認されたのは9月のことだった。NWA(アライアンス)では、原則として各地区の窓口となる『ブッキング・オフィス』を持つプロモーターが加盟できることになっており、テキサス州の場合はテキサス・レスリング・エージェンシー(TWA)のシーゲルが正会員で、ダラスのエド・マクレモアはTWAの傘下という形になっていた。1949年の総会にはマクレモアもシーゲルと共に出席。ヒューストンとダラスを含む州東部全域において、後にアマリロのプロモーターになるカール・サーポリスがマッチメイカーとしてその手腕を発揮し、時には巡業に同行しレフリーも務めた。
1950年代に入った頃テキサス州では、人口1万人以上いる町であれば、ほぼ毎週プロレスの試合が開催されていると言われるほどプロレスが盛んだった。NWA世界ヘビー級王者ルー・テーズもダラスやフォートワースで頻繁に王座を防衛した。
1950年3月14日にはダラスで行われた新設テキサス州タッグ王座決定戦でリト・ロメロ & ミゲル・グスマンがアル・ラブロック & ダニー・マクシェーンを破った。5月16日のスポータトリアム大会ではメインイベントでテーズがテキサス州ヘビー級王者ダニー・マクシェーンに2本ストレート勝ちで世界王座防衛。セミファイナルでは、同年3月末にガルベストンでの初代王座決定戦でメイ・ヤングを破ったばかりのネル・スチュアートがドット・ドットソンを破りテキサス州女子王座を防衛した。スチュアートは1950年代の大半において同王座に君臨。
1950年のNWAの年次総会は、9月8日から10日にかけてダラスで開催された。初代会長ピンキー・ジョージに代わり新会長に就任したのは、以降通算22年『NWAの顔』として会長を務めることになるミズーリ州セントルイスのサム・マソニック。第一副会長にはヒューストンのモリス・シーゲル、第二副会長には同年2月交通事故により視力を失い選手生命を断たれたオクラホマ州タルサのレロイ・マクガークがそれぞれ就任。また、マクガークの引退で空位となった世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントが年内にタルサで開催されることも決定した。同トーナメントは、11月13日の決勝でサニー・マイヤースを破ったバーン・ガニアが優勝、早速翌週21日にはダラスでデューク・ケオムカを相手に防衛した。ガニアは1949年12月から1ヶ月、そして1950年9月から約1ヶ月半の間テキサス州ヘビー級王座を保持していたので、既にダラスでもお馴染みの選手だった。
テキサス州ヘビー級王座が移動したのはヒューストンが殆どだったが、1950年4月10日にはフォートワースで元世界ミドル級王者ミゲル・グスマンがダニー・マクシェーンを破り6度目の栄冠。1951年9月4日にはダラスでレイ・ガンケルがデューク・ケオムカから同王座を奪取するが、10月23日には同じくダラスでグスマンがガンケルを破り10度目の栄冠を果たす。
1951年10月16日にはスポータトリアムで世界ヘビー級王者テーズと世界ジュニアヘビー級王者ガニアの対決が実現。3本目で両者リングアウトとなり引き分けに終わる。また同大会では、ネル・スチュアートがグロリア・バラティニを破りテキサス州女子王座を防衛し、リト・ロメロ & ミゲル・グスマンがベーブ・ザハリアス & クリス・ザハリアスから州タッグ王座を奪取。翌1952年には、テーズだけではなく、ガニアから世界ジュニアヘビー級王座を奪取したダニー・マクシェーンもテキサスで頻繁に王座を防衛した。
また1952年11月11日には、当時としては稀な、6人タッグ王座選手権試合も行われた。テキサス州王座決定戦でビリー・ヴァーガ & リッキー・スター & オーブ・カールソンがホアン・ウンベルト & デューク・ケオムカ & ダニー・サビッチを破ったが、この王座は1ヶ月程度しか続かなかった。

1937年の初栄冠から1940年代の大半においてNWA(アソシエーション)世界ライトヘビー級王者として活躍。1948年3月から1950年12月にかけてテキサス州ヘビー級王座を7度獲得し、その後1951年11月にはバーン・ガニアからNWA(アライアンス)世界ジュニアヘビー級王座も奪取。
NWA傘下で全てが順調だと思われていたTWAだったが、1952年12月11日に事件は起きた。
予定されていたサンアントニオでのテレビ収録が、選手達のボイコットで中止となってしまったのだ。テレビ中継が始まったことにより、観客動員も減り、テレビ放送分の収益の一部が選手達に払われていないなどの理由で、ワイルド・レッド・ベリーを中心とした選手達が、テレビ収録のスタッフが会場から去らない限り試合をしないと主張。結果、やむを得ずテレビなしでの決行となった。ヒューストンのモリス・シーゲル、ダラスのエド・マクレモア、そしてテキサス州労働局コミッショナーのM・B・モーガンの間で、選手達にテレビ放送分も支払うことで一度は同意となったが、間もなくテレビ中継からの収益に関する契約内容についてマクレモアとTWAの関係が悪化する。結果、マクレモアはTWAから離脱、1939年1月にマクレモアがダラスでの興行権を買収して以来、共にテキサスのプロレス界の活性化を目指して来たシーゲルと袂を分かつ。
NWA系の選手達を呼べなくなることを覚悟していたマクレモアは、カンサス州ウィチタのプロモーターで1920年代にはトゥーツ・モントとエド・ストラングラー・ルイスと共に『ゴールド・ダスト・トリオ』として業界を牛耳ったビリー・サンドー、そして『プロレス界の癌』と呼ばれ悪名高いマッチメーカーとして知られるジャック・フェファーと結託。世界ヘビー級王者にはサンドーの秘蔵っ子であるロイ・ダンを起用したが、それ以外はフェファー一座の常連やNWAから排斥されていた選手達が殆どだった。

1936年、AAU選手権のヘビー級で優勝、ベルリン・オリンピックに出場後プロ入り。1941年1月にはカンザス州ウィチタでNWA世界ヘビー級王者に認定。
1953年1月6日、マクレモアはスポータトリアムでNWA離脱後初興行を開催。世界王者ロイ・ダンがジャック・バーナードの挑戦を退けた。だがシーゲルのTWAも同日興行で対抗。義理の兄弟でガルベストンでの興行を手掛けていたノーマン・クラークをダラスのプロモーターに任命し、ダンスホール『パピーズ・ショーランド』での初興行では、NWA世界ヘビー級王者ルー・テーズの他、サイクロン・アナヤ(ヘビー級)、ネル・スチュアート(女子)、レイ・ガンケル & リッキー・スター(タッグ)の各テキサス州王者、そして世界黒人ヘビー級王者ウッディ・ストロードという錚々たる面子による防衛戦が行われた。
マクレモアは地元のファンにまだ馴染みの薄い選手達を売り出すため、モーリス・ベックを担当プロモーターとして毎週木曜のスポータトリアム大会も追加した。1953年1月8日に開催された初の木曜定期戦ではジャック・アドキッソンがデビュー。この23歳の青年が、後にプロモーターとして大きな変革をテキサスのプロレス界にもたらし、同地が世界に誇る選手としても一世を風靡することになる。

ダラスとヒューストンの間に位置するジュウェットで生まれ、ダラスにある南メソジスト大学ではフットボール選手として活躍。
人気選手の大半をNWA系のクラークに引き抜かれ、興行的に苦戦していたマクレモアは強硬手段に出る。世界王者ロイ・ダンが、如何にNWA系の選手達より優れているか、新聞の紙面を買い取って主張し始めたのだ。クラークのNWA系興行では1953年4月21日、王者レイ・ガンケルにデューク・ケオムカが挑戦するテキサス州ヘビー級選手権試合が予定されていたが、マクレモアは新聞を通じて、「ダンならその試合の勝者とルー・テーズの2人を同日相手に試合して勝てる。その試合を組んだ人間に$1,000を払おう。」と宣言。2日後の23日にはマクレモアはサンアントニオと更に南でメキシコ湾岸のコーパスクリスティへの進出も発表。更には25日、TWAのマッチメーカーだったカール・サーポリスがマクレモア派に鞍替えし、勢力を伸ばしつつあるかのように思えた。
だが数日後の新聞では、今度はクラーク派による反論記事が掲載された。ロイ・ダンの世界王座に信憑性がないこと、そしてケオムカを相手にテキサス州王座を防衛したガンケルが次回のクラーク派の興行でダンの挑戦を受けるという内容だった。ガンケルが待つリングにダンが姿を現すわけがないのだが、その模様がテレビ中継でも放送され、ダンがガンケルとの試合を避けたという印象を打ち付けた。当日の収益金はクラーク派が$964.30、マクレモア派は半分以下の$440.15という散々な結果だった。
更に追い打ちをかけるように、1953年5月1日午前0:15頃、スポータトリアムから出火し約40分で全焼に近い状態となった。当日の新聞でマクレモアは何者かによる放火だということを主張。当面マクレモアはフェアパーク・ライブストック・パビリオンで火曜の定期戦を継続するが、木曜の興行は中止とした。
7月7日のメインイベントではジャック・フェファーが認定する世界女子王者スレーブガール・ムーラがダラスに初登場。セミファイナルではミスター・アメリカが東部ヘビー級王者としてエル・ディアブロを一蹴。ダラスでは引き続きロイ・ダンが世界王者だったが、それ以外のウェーコ、サンアントニオ、コーパスクリスティなどの町では何故か東部王者が世界王者として紹介される。同月21日にはアルジェンティナ・ズマがミスター・アメリカから王座を奪取。
その間、スポータトリアムの再建は早急に進められ、マクレモア派は9月22日の大会から新生スポータトリアムに復帰。外観は以前と違う長方形だが、内部はすり鉢型のような、八角形時代の名残のある構造だった。当日はトミー・フェルプスがズマから東部王座を奪取。10月6日にはペドロ・マルティネスがフェルプスから奪取し、引き続きダラス以外でのマクレモア派の興行では世界王者として防衛を続けた。

📷 – Ring the Damn Bell
ダラス興行戦争はそれから半年以上続くが、マクレモアの損害額は約$8,000(現在だと約$788,000)だったという。
1954年5月21日、ノーマン・クラークのNWA派の常連で18日に試合をしたばかりのデューク・ケオムカが、25日のマクレモア派の大会に出場することが発表された。翌日マクレモアはヒューストンでモリス・シーゲルと会い、話し合いの結果和解することになり、17ヶ月に及ぶ興行戦争に終止符が打たれた。マクレモアはNWAに復帰し、クラークも25日の大会を最後にダラスから撤退。ペドロ・マルティネスが保持していた東部ヘビー級王座も自然消滅し、マクレモア派世界王者ロイ・ダンとNWA世界王者ルー・テーズとの間での統一戦も行われることなく、6月29日にはテーズが約1年9ヶ月ぶりにスポータトリアムに出場し、レイ・ガンケルを破り王座を防衛した。また、12月14日には、ジャック・アドキッソンが新生スポータトリアムに初登場、ジャック・ケネディと引き分ける。
尚、ダラスから227km北西にあるウィチタフォールズでは、1951年から1954年までオクラホマ州タルサのレロイ・マクガークが定期的に興行を打っていた。同地ではテキサス州ジュニアヘビー級王座が認定され、ビリー・ラバーンが5度奪取。マクガーク撤退後ラバーンは1954年7月からヒューストンにも再度王者として登場。8月3日にはダラスのスポータトリアムでラリー・シェーンを相手に時間切れ引き分け防衛。
NWA系の選手達や王座もスポータトリアムに復帰し、以後12年以上に及びダラスでのエド・マクレモア政権は続く。
1954年12月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ルー・テーズ
- 世界ジュニアヘビー級: バロン・ミシェル・リオーニ
- 世界女子: ジューン・バイヤーズ
- 州ヘビー級: ポロ・トレス
- 州ジュニアヘビー級: ラリー・シェーン
- 州女子: ネル・スチュアート
- 州黒人ヘビー級: ウィリー・ラブ
- 州黒人女子: エセル・ジョンソン?
- 州タッグ: リト・ロメロ & ペペ・メンディエッタ
- 州ブラスナックル: ジョー・クリスティ
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Legacy of Wrestling
- Dallas Morning News