ダラス角力史 – 第拾壱章

1950年代後半

カテゴリー: ダラス角力史

1955年1月時点での選手権保持者:

1940年以来ダラス地区で興行を続けていたエド・マクレモアは1952年末、ヒューストンを本拠としたNWA会員モリス・シーゲルと袂を分かつことになり、ダラス地区において興行戦争が勃発。17ヶ月後の1954年5月に終結すると、再び同地区はマクレモアの独壇場となっていった。

マクレモアが所有するリング常設会場『スポータトリアム』では、プロレス以外にもボクシングやコンサート、そして人気ラジオ番組『ビッグD・ジャンボリー』の放送が行われていた。1950年代中期には、『ロックンロール』という音楽のジャンルが全米において人気が急上昇し、マクレモアもこれに目を付け、番組にロックやロカビリーの歌手を出演させるだけではなく、ジーン・ヴィンセントジョニー・キャロルのマネージャーも務めた。

1955年6月18日、『ビッグD・ジャンボリー』の放送でリング上から演奏するエルビス・プレスリー
4月16日に初登場して以来、同番組には何度か出演したが、後年エド・マクレモアは、僅か$50(現在だと$500以下)のギャラで出演してもらうこともあったと自慢気に語っていたという。
📷 – Steve Bonner / Scotty Moore

1955年3月22日、カリフォルニア州サンフランシスコでNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズにレオ・ノメリーニが挑戦。現地のプロモーターでノメリーニのマネージャーとしてセコンドにもついていたジョー・マルセヴィッチの介入もあり、テーズが2本目をリングアウト、3本目を反則で負けしてしまう。NWAはリングアウトや反則での王座移動を認めることを拒否したが、カリフォルニア州体育協会はノメリーニを王者に認定。同年5月10日、テーズはダラス・スポータトリアムでターザン・マイクを相手に防衛するが、なんと翌週17日には、ノメリーニも世界王座主張者としてダラスに登場、レイ・ガンケルを破った。最終的には7月15日、ミズーリ州セントルイスでテーズがノメリーニを破り決着をつけた。

4月26日には後にテキサスで一時代を築き上げるペッパー・ゴメスがダラス初登場。スポータトリアムでのノンタイトル戦で州ブラスナックル王者ブル・カリーを倒した。7月28日にはメキシコ湾岸のガルベストンでリト・ロメロと組みハードボイルド・ハガティ & スチュ・ギブソンから州タッグ王座、更には8月5日にはヒューストンでミスター・モトを破り州ヘビー級王座初栄冠を果たし、数ヶ月間で一挙にテキサスの頂点に上り詰めた。

5月24日のスポータトリアム大会では、NWA世界ジュニアヘビー級王者エド・フランシスにデューク・ケオムカが挑戦するが、3本目で反則を取られ、王座奪取に失敗。以後、理由は不明だが、1960年代に入りダニー・ホッジが王者になるまで同王座がダラス地区で防衛されることは殆どなかった。

ペッパー・ゴメス
1955年から約10年の間にテキサス州ヘビー級王座を12回、州タッグ王座も何度も奪取し、正に州の頂点に立っていた。

1956年2月21日のスポータトリアム大会では、デューク・ケオムカがキンジ渋谷と組み、ペッパー・ゴメス & ルイージ・マセラから州タッグ王座を奪取。1950年から1958年にかけて、ダニー・サビッチやミスター・モトなど様々なパートナーと組み、同王座を13度奪取したケオムカだったが、意外にも渋谷との王座は短命に終わり、約1ヶ月後の3月23日にはヒューストンでレイ・ガンケル & プリンス・マイアバに王座を奪われる。

3月15日、カナダトロントでホイッパー・ビリー・ワトソンがルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。4月3日にはスポータトリアムで12人参加挑戦者決定トーナメントが開催され、決勝でデューク・ケオムカを破ったレイ・ガンケルが、翌週10日ワトソンに挑戦。2本目をコブラツイストで取ったものの3本目で敗れ王座奪取には至らず、同会場での連勝記録も10回止まりとなった。ワトソンは8月にもテキサスを転戦し、13日にはフォートワースで州王者ペッパー・ゴメスと90分時間切れ引き分け防衛、翌14日にはダラスでバディ・ロジャースを3本目棄権に追い込み挑戦を退けた。

ワトソンの世界王座は短命で、11月9日にはセントルイスでテーズが奪回し、12月17日にはフォートワースでペッパー・ゴメスを破り王座防衛。ダラスでは11日、挑戦者決定戦が行われ、ルーサー・リンゼイ(日本ではルター・レンジ)がデューク・ケオムカを破った。リンゼイは18日にテーズに挑戦するが、1本目と3本目を取られ、敗れてしまう。尚、同日のセミファイナル前には、11日後にデビュー2周年を迎えようとしていたシラキュース大学フットボール部助監督のディック・ベイヤーが、冬休みを利用しての遠征からかダラスに初登場し、デューク・ケオムカに反則勝ちを収めた。

1957年3月12日 – スポータトリアム
ペッパー・ゴメス & ボビー・マナゴフ 対 ダニー・マクシェーン & デューク・ケオムカ
元祖流血王マクシェーンはもちろん、日系の悪役として1949年から1963年にかけてテキサスで大活躍したケオムカも、ダラスのテレビ中継では欠かせない存在だった。

1957年6月14日、イリノイ州シカゴでNWA世界王者ルー・テーズがエドワード・カーペンティアの挑戦を受けるが、腰の負傷を理由に3本目で試合を放棄し王座転落してしまう。詳しくは『魔術師の残骸』に書いたが、この試合以降しばらくの間NWAには2人の世界ヘビー級王者が存在した。シカゴや東海岸一帯およびカナダのモントリオールではカーペンティアが王座を防衛していたが、テキサスを含むその他の地域ではテーズが引き続き世界王者として認定されていた。テーズは8月5日にフォートワースでレイ・ガンケル、6日にはダラスでドン・レオ・ジョナサンを破り王座を防衛。同月セントルイスで行われたNWA総会でカーペンティアのマネージャーでもあったモントリオールの会員エディ・クインがNWAを離脱し、カーペンティアの王座奪取自体が白紙に戻され、改めてテーズが唯一の世界ヘビー級王者として認定された。

同年9月10日のスポータトリアム大会では、3つのテキサス州王座の防衛戦が開催。黒人ヘビー級王者タイガー・コンウェイは元王者ウィリー・ラブ、タッグ王者組のペッパー・ゴメス & エル・メディコはダニーサビッチ & アイク・アーキンズ、ヘビー級王者イワン・ザ・テリブルはリップ・ロジャース(エディ・グラハム)をそれぞれ破り防衛した。

11月14日にはカナダのトロントでディック・ハットンがルー・テーズがNWA世界ヘビー級王座を奪取し、12月16日にフォートワースでペッパー・ゴメス、17日にダラスでルーサー・リンゼイを破り防衛。

ネル・スチュワート
1950年3月30日にメイ・ヤングを破り初代テキサス州女子王者に認定されてから1963年3月8日にペニー・バナーに敗れるまで、何度か王座から脱落することもあったが、その期間中の大半において王座に君臨。
他地区ではナショナル・テレビ王者US女子王者にも認定されていた。

1950年代においてテキサス州ヘビー級王座が移動したのは通常ヒューストンだったが、1958年1月21日のスポータトリアム大会ではジョニー・バレンタインが王者ビル・メルビーを破り2度目の栄冠、約7年ぶりにダラスで同王座が移動した。一方、ジュニアヘビー級やタッグ、ブラスナックルなど他のテキサス州王座はダラスやフォートワースでも頻繁に移動した。

ラリー・シェーン
1954年から1958年にかけてテキサス州ジュニアヘビー級王座を4度奪取し、ダニー・マクシェーンらと抗争。
その後アマリロ地区、アラバマ州ミシガン州デトロイト、カナダのマリタイム地区などを転戦し、1964年9月にAWA入りするが、10月1日イリノイ州モリーンでのラリー・ヘニングとの試合後、交通事故に遭い、35歳の若さで帰らぬ人となった。

1958年3月29日のダラス・モーニング・ニュース紙で、4月1日のスポータトリアム大会にジャック・アドキッソンが新リングネームで参戦することが発表された。フリッツ・フォン・エリックとしてのダラス初登場では、勢い余っての攻撃からか、サム・スティムボートに反則負けを喫した。2週間後の4月15日にはブラスナックル王者ブル・カリーを破り、ダラス地区で初の王座奪取を果たす。

1953年1月にダラスでデビューしたアドキッソンは、同年夏にボストン地区入りし、8月には既にフリッツ・フォン・エリックを名乗り始めていた。その後、ミネソタ州やアイオワ州といった中西部、またカナダのアルバータ州やオンタリオ州でもリングネームで試合をしていたが、テキサスに里帰りする際には本名で試合をしていた。1957年に入るとテネシー州ケンタッキー州を拠点にしながらもNWAの総本山セントルイスでも頻繁に試合をするようになる。1957年秋から1958年2月にかけてオンタリオ州やニューヨーク州北部を転戦し、3月ダラスにフリッツ・フォン・エリックとして初登場した後も、カナダやセントルイス、ニューヨーク州北部、およびアマリロ地区など、1964年7月にダラス地区に定着するまで各地で活躍した。

デイリー・レコード (ボストン) – 1953年8月12日
現在自分の研究で判明している範囲において、フリッツ・フォン・エリックが紹介されている最古の記事。

1959年1月9日にミズーリ州セントルイスでパット・オコーナーがディック・ハットンからNWA世界ヘビー級王座を奪取すると、それまで以上にテキサス州を転戦し、1959年だけでもダラスとフォートワースでそろぞれ7回ずつ防衛戦が開催された。

1959年2月、エド・マクレモアのプロモーター就任20周年を祝うためセントルイスからダラスに駆け付けていたサム・マソニックNWA会長は、他地区におけるテレビスタジオからの中継の成功例もあることから、ダラス地区でもマクレモアがスタジオマッチを計画中だと発表。それまで行われていたスポータトリアムでの定期戦からのテレビ放送は止め、テレビ局内スタジオを借りて少人数の前での試合を行い、そこで定期戦を宣伝するという、全米各地で1980年代まで続いた方式だ。4月18日、土曜午後5時にダラスのテレビ局KRLD(4チャンネル)からのスタジオマッチが初中継された。

激動の1950年代前半とは裏腹に、1960年代に入っても数年間はダラス地区で安泰な時代が続く。

1959年12月時点での選手権保持者:


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