長年、日本では1970年1月23日オクラホマ地区で上田馬之助がダニー・ホッジからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取したと言われてきた。それについては本人が自伝『金狼の遺言 ―完全版―』で、反則負けで王座奪取にはならず、ベルトを持ち出して撮影したりで、ホッジへの挑戦は1回のみだったと書いている。

だが先日、『テネシー州の世界王座(3)』を書いている最中、テネシーの近隣各州の世界ジュニアヘビー級選手権試合についても調べていたら、面白い記事を見つけた。
まず1月23日は、オクラホマシティでプロレスの興行があったのは事実だが、ミスター・イトー(上田)はミスター・オータ(松岡巌鉄)と組んで、ホッジ & クロンダイク・ビル組とタッグで対戦しており、この日は選手権試合は開催されていなかった。
当時のオクラホマ地区は、アマリロ地区同様、同じ地区内でも町によってそれぞれ『流れ』が違うことが多く、ある選手が何等かの王座を奪取しても、現地のみの認定だということも珍しくなく、王座を奪われた選手が、翌日別の町で再び王者として紹介されるということも頻繁にあった。
疑惑の裁定があったのは、1月13日アーカンソー州リトルロックでの防衛戦。レフリーの目を盗みオータがホッジを攻撃し、イトーがフォール勝ちをもぎ取ったのだ。
翌日の新聞記事によると、観客からの罵声の中、レフリーはイトーの勝利を宣言したとしか書かれていない。王座預かりになったのは後日の話で、それについても翌週まで報道されていなかった。つまり、少なくとも13日試合後から14日朝にかけてはイトーが王者だったということで、もしイトーが控室までベルトを持ち去ったとすると、この時だった可能性が高い。翌週1月20日にリトルロックで再戦が予定されていたが、悪天候のため中止となった。
2日後の1月22日、テキサス州ウィチタフォールズでもオータの加勢により一度はイトーが勝ち名乗りを上げたが、リングサイドにいた関係者から苦情があり、判定はその場で覆されホッジの反則勝ち防衛となった。

右: 1970年1月22日 テキサス州ウィチタフォールズ
このウィチタフォールズでのホッジの反則勝ちがリトルロックで報道されたとは思えないが、2月10日の時点ではいつの間にかリトルロックでも再びホッジが王者として紹介されていた。
その後イトーは3月18日にミシシッピー州グリーンビルでもホッジの王座に挑戦、1本目を取ったものの、残りの2本はホッジが勝利で王座を防衛した。またイトーは、2月25日にアーカンソー州フォートスミス、4月12日オクラホマ州タルサでもホッジとシングルで対戦しており、これらも選手権試合だった可能性が高いのだが、いずれも敗れている。1回のみだったどころか、最低3回は挑戦していたようだ。
ちなみにこの頃はオータも何度かホッジに挑戦。また、2人でUSタッグ王座への挑戦も繰り返していたが王座奪取はならなかった。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Arkansas Democrat (アーカンソー州リトルロック)
- Wichita Falls Times (テキサス州ウィチタフォールズ)
- The Delta Democrat-Times (ミシシッピー州グリーンビル)
