テネシー州の世界王座(7)

世界6人タッグ選手権および世界ブラスナックル選手権

カテゴリー: 各地区版世界選手権 , テネシー

米国南部に位置し、50州で16番目に人口の多いテネシー州。東西に広く、ケンタッキーアラバマなど8つの州に囲まれている。海や大きな湖はなく、東のアパラチア山脈と西のミシシッピ川に挟まれている。州都は1847年以来ナッシュビルで、長年州内ではメンフィスに次ぐ第二の都市だったが、2017年遂にメンフィスの人口を超え最大都市となった。1940年代から1970年代までの間、ニック・グラスはナッシュビルを本拠とし、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)会員ロイ・ウェルチと共にアラバマやケンタッキー、アーカンソーといった南部一帯を牛耳った。ナッシュビルやメンフィス以外でも、ノックスビル、チャタヌーガ、ジャクソンなどでプロレスの興行が盛んで、1974年にはノックスビル周辺の地域がグラス派から独立する程だった。

今回は過去6回でふれなかった残り2つの王座について。

世界6人タッグ選手権

6人タッグ王座を認定する際に頭に入れておかなければならないのは、当然のことだが常に王者側と挑戦者側を3人ずつ、そしてベルトも3つずつ用意しておく必要があるということだ。シングルやタッグ程重要性がない割には経費が生じる。

今でこそ主要団体は契約を交わすことにより長期的に選手達を確保できるので、ROHのように5年も6人タッグ王座が続くことも可能かもしれないが、選手の移動の多かった地域制時代の米国では、6人タッグ王座を維持させるのは困難だった。王座移動の際には、王者組の誰か1人が出場できないことも多く、代打の選手を用意する必要があった。あの鉄の爪兄弟とフリーバーズがプロレス史に残る抗争を繰り広げたテキサスWCCWでさえも、6人タッグ王座は王者組のメンバーの交代や空位が繰り返された。ミッドアトランティック地区認定のNWA世界王座についてはまともに王座が移動した試しがなく、わざわざ日本から天龍源一郎を招いてロード・ウォリアーズと組ませた際も、短時間で両組反則引き分けに終わったことから、その扱いについては論外と言えよう。

現在判明している限りで、最初に世界6人タッグ王座が認定されたのは、1955年5月にイリノイ州シカゴで行われた王座決定戦でロイ・マクラリティ & パット・オコーナー & ユーコン・エリックがレジー・リソワスキー & アート・ニールソン & ドン・レオ・ジョナサンを破り『世界3人タッグ王座』を奪取した時だが、これ以外に同王座の選手権試合の記録が見当たらない。

この単発的なものだったシカゴ版を除くと、最初に定着したのはテネシー地区認定NWA世界王座だ。

だがWCCWやミッドアトランティック同様、テネシー地区も例外ではなく継続性には欠けていた。これまで何度も書いてきたが、同じ地区内でも場所によって王座を保持する選手が違うなどで、ただ元々一貫性がないという点を考慮すると、6人タッグ王座を認定すること自体無理があったはず。

では何故ニック・グラスはこの選手権に拘ったのだろうか。

変遷史を見ていただければ一目瞭然かと思われるが、正に息子のために用意されたと言っても過言ではないくらい常にジョージ・グラスがこの王座を保持していた。

ジョージは1973年レフリーとしてデビューすると間もなく、プロモーターであった父親と共にマッチメーカーとして広告にその名が掲載されるようになる。そして翌1974年1月に選手としてデビュー。

詳しくは『ナッシュビルとメンフィス』に書いたが、当然のごとくニック・グラスは息子ジョージを売り出すことになる。選手としてのデビューから僅か10ヶ月後には6人タッグ王座が新設され、ジョージはジャッキー・ファーゴ、デニス・ホールと共に初代王者に認定された。

だがジョージはお世辞でも巧い選手だとは言えなかったらしく、今でも当時同地区のプロレスを観ていたファンの間では、名前を出すだけで『ネタ』にされるほどの存在だ。それが理由からか、通常ジョージのタッグパートナーはジャッキー・ファーゴやトージョー・ヤマモトといった同地区の大御所達、またはボビー・イートンのような新鋭ながらも既に試合巧者として頭角を現していた選手で、そうすることによって『しょっぱさ』を補っていたとさえ言われている。常にパートナーに頼る必要があったためか、プロモーターだった父親によって売り出されていたにも関わらず、同地区では一度もシングル王座を奪取していない。

写真右から: ジャッキー・ファーゴ、ジェリー・ジャレット、トージョー・ヤマモトといったテネシー地区の重鎮達と肩を並べていないジョージ・グラス。

ジョージは他にもミッドアメリカ・タッグ王座を何度も奪取したが、両王座とも基本的にナッシュビルやチャタヌーガおよびアラバマ州北部で防衛されていた。一方、メンフィス中心に防衛されていた南部タッグ王座は(正式には)一度も奪取していない。6人タッグ王座も、初代王座決定トーナメント開催から僅か1年半しか経っていない1976年春頃に一旦姿を消すことになる。

同じく1976年、ニック・グラスのパートナーだったロイ・ウェルチの健康状態が悪化し、メンフィスのブッキングを傘下選手だったジェリー・ジャレットに任せることになる。ジョージの売り出しに強く反発していたジャレットは、水面下でグラス派からの離脱を計画。1977年2月、ジャレットはついに独自の興行会社を設立、当時既にトップ選手だったジェリー・ローラーを含むグラス派の選手の大半がジャレット派に加わることに同意した。メンフィスでの興行戦争に惨敗したグラスは、この頃から王座新設を乱発することになる。6人タッグ王座も1978年秋頃から再び認定されるようになり、当然のことながらジョージ・グラスがその中心だった。

1980年9月、ニック・グラスが撤退し、ナッシュビル地区の興行もジャレットが受け継ぐと、6人タッグ王座も消滅。

それから4年後の1984年8月、ジム・クロケット・プロモーションズがNWA世界6人タッグ王座を新設。1988年秋、当時王座を保持していたダスティ・ローデスとロード・ウォリアーズが仲間割れを起こすと、12月7日チャタヌーガで王座の権限をかけたシングル戦が行われ、アニマルがローデスに反則勝ちを収めたため、ウォリアーズが新パートナーとして天龍源一郎を選ぶこととなった。同王座に関連する試合がテネシー州内で行われたのはこの時だけである。

1991年にはWCW6人タッグ王座を認定。隣のアラバマ州では何度も防衛されたがテネシー州での防衛記録は見つかっていない。この王座もまた10ヶ月程度で封印。

1989年2月15日 オハイオ州クリーブランド
NWA世界6人タッグ選手権: ロード・ウォリアーズ & 天龍源一郎 [王者] vs スティング & マイケル・ヘイズ & ジャンクヤード・ドッグ
※ 試合直前にバーシティクラブ(ケビン・サリバン & スティーブ・ウィリアムス & マイク・ロトンド)が挑戦者チームを監禁し、そのままリングに上がり王座に挑戦するが6分弱で両者反則引き分けに終わるという、なんのために天龍を読んだのか解らないような結果となった。同王座はそのまま自然消滅。

ブラスナックル選手権

グラスが6人タッグ王座を復活させた1978年には、世界ブラスナックル王座も新設され、11月15日ナッシュビルで開催された王座決定トーナメントの決勝では、日本でもお馴染みのジプシー・ジョーがメキシカン・エンジェルを破り初代王者に認定された。

だが同じ頃、前年秋頃からメキシコ湾岸地区で王者として認定されていたドン・ファーゴがナッシュビル以外のチャタヌーガやケンタッキー州ルイビルにも王者として登場。1979年4月4日、ナッシュビルで行われた選手権試合では、ジョーがあくまで挑戦者として出場したファーゴを破り王座防衛。翌日の新聞にはジョーによる『upset』(番狂わせ)とされていた。8月にデニス・コンドレーがジョーから王座を奪取すると、同王座は自然消滅となる。

ドン・ファーゴ
1950年代から1980年代までと長期に亘り活躍。ジャッキー・ファーゴ(プロレス上のみでの兄弟)とのタッグを含め、各地の選手権を総なめにした。

それから約1年後の1980年9月、ドン・ファーゴが再び世界ブラスナックル王者としてテネシー地区に登場し、メンフィスやケンタッキー州ルイビルなどで王座を防衛した。テネシー地区に『世界』と付いたブラスナックル王座が存在したのは、この頃が最後だと思われる。10月になると、NWA南東部地区がテネシー州東部のノックスビルからアラバマ州北部のバーミンガムに本拠を移し、1983年には世界ブラスナックル王座を認定、日本でも有名なモンゴリアン・ストンパーやバック・ロブレーらが奪取するが、テネシー州内での防衛記録は現時点では見つかっていない。


資料元:

  • Wrestling-Titles.com
  • The Tennessean (ナッシュビル)
  • Commercial Appeal (メンフィス)
  • The Daily Times (チャタヌーガ)
  • The Birmingham News (アラバマ州バーミンガム)
  • The Courier-Journal (ケンタッキー州ルイビル)

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