NWA草創期

アライアンスとアソシエーション

カテゴリー: NWA

『1948年以前のNWA』で書いたとおり、1948年7月の発足以前の米国には、『NWA』という団体が少なくとも3つ存在した。ここでは1948年発足のナショナル・レスリング・アライアンスと、通常日本で『旧NWA』と呼ばれるナショナル・レスリング・アソシエーションの複雑な関係について書いてみる。

中西部連盟

1948年が明けて間もない1月18日、アイオワ州デモインで6人のプロモーター達が集結。プロモーターといってもプロレスではなくボクシングだ。出席したのは現地デモインのピンキー・ジョージ、ミネソタ州ミネアポリスのトニー・ステッカー、ネブラスカ州オマハのマックス・クレイトン、その他3人のプロモーター達だった。中西部においてプロモーター同士の連盟を結成することが目的でクレイトンが会長に就任。トニー・ステッカーは元プロレスラーで、かつては弟で元世界ヘビー級王者のジョー・ステッカーのマネージャーでもあった。クレイトンとジョージ、そしてステッカーは3人ともそれぞれの地域においてボクシングだけではなくプロレスの興行も手掛けているベテランプロモーターだった。

このボクシングのプロモーター達の連盟が結成されると、その流れでプロレスにおいても同様の連盟が計画された。発案者はピンキー・ジョージだ。

ピンキー・ジョージ
ナショナル・レスリング・アライアンス創始者で初代会長

アライアンス結成

ボクシングの連盟結成から丁度半年後の7月18日、アイオワ州ウォータールーのホテル・プレジデントにあるゴールドルームという部屋に、5人のプロレスのプロモーター達が集まり、ナショナル・レスリング・アライアンスが結成された。出席したのはジョージとクレイトンの他、ステッカーの代理ウォーリー・カルボ、セントルイスのサム・マソニック、カンザスシティのオービル・ブラウンだった。ブラウンは選手として、自ら運営するミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)だけではなく、アイオワ州でもピンキー・ジョージからナショナル・レスリング・アライアンスの名称で世界ヘビー級王者に認定されていた。また、もう一人発足会員としてこの日の会議には欠席だったが電報で加盟の意思を示したというシカゴのフレッド・コーラーが挙げられている。

アライアンス誕生の場所であるホテル・プレジデントと実際に会議が行われた『ゴールド・ルーム』

この日の会議では、ヘビー級のオービル・ブラウンに加え、同じくアイオワ州で世界ジュニアヘビー級王者として認定されていたビリー・ゲルズも、それぞれ改めて初代アライアンス世界王者に認定された。ブラウンはそれ以前からMWA王者として中西部だけではなくアイダホ州やモンタナ州でも王座を防衛していた。そしてアライアンスが発足し世界王者に認定されると、東はウェストバージニア州、西はカリフォルニア州、そしてカナダ一帯と、未加盟地区を含む広範囲において世界王座を防衛していく。ブラウンは中西部のみで活躍していた選手だといった内容の文章を英語でも日本語でも見たことがあるが、全くそんなことはなかったようだ。185cmで109kgという体格だったが、60分はもちろん90分時間切れ引き分けでの王座防衛というのを何度もやってのけていた程のスタミナの持ち主だった。

オービル・ブラウン
アライアンス発足時会員および初代世界ヘビー級王者

アソシエーション vs アライアンス

そしてアライアンスの歴史を語る上で、どうしても欠かせないのがアソシエーションの存在だ。

ナショナル・レスリング・アソシエーションは元々WBAワールド・ボクシング・アソシエーションの前身であるナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)のプロレス部門として始まったのだが、1930年に独立した団体だ。基本的に各州のアスレチックコミッションの連合のような団体で、各体重別階級において世界選手権を認定していたが、ヘビー級王座の実権を握っていたのはセントルイスのトム・パックスだった。

トム・パックス

1938年8月、パックスの渉外担当に元スポーツ記者サム・マソニックが就任する。長年の経験を活かし、地元の新聞に試合の宣伝用の記事を書いたり選手達との交流も深めていく中、関係者の中にはパックスの団体で実権を握っているのはマソニックだと思い込んでいる人達もいたそうだ。

1941年4月8日、パックスはセントルイス・アリーナで世界ヘビー級ボクシング王者ジョー・ルイスとトニー・ムストによる選手権試合を開催し17,472人の観衆を集め約5万2千6百ドルの収益を上げる。だが、関係者の中にはマソニックが興行の成功に貢献したということを理由に、マソニックに収益の1割以上を支払うべきだと主張する者もいた。となると$500以上の額になるわけだが、実際にパックスがマソニックに支払ったのはわずか$200。マソニックは9月、ついにパックスと袂を分かち自ら興行を手掛けることを発表するが、ミズーリ州アスレチックコミッションにライセンスの申請をするも却下される。諦めることなく申請を繰り返し、約半年後の1942年3月とりあえずセントルイス市から興行の許可を与えられ、3月27日にセントルイス・アリーナで初興行を開催する。

だが、その4ヶ月前の1941年12月に太平洋戦争が勃発し、マソニックも徴兵され翌年5月空軍に配属。せっかく始めた プロレス興行からもやむを得ず遠ざかることになる。その結果セントルイスのプロレス興行においてパックス政権が続くことになった。

サム・マソニック

マソニックは40ヶ月の軍役を経て1945年9月に名誉除隊が認められ、10月にはミズーリ州アスレチックコミッションからプロモーターとしてのラインセンスを与えられる。ミネアポリスのトニー・ステッカーやコロンバスのアル・ハフト、そしてジャック・フェッファーなど大物プロモーター達の協力の元、12月5日にキール・オーディトリアムで色々な地区から選手達を招いて復帰後初興行を開催するが、パックスの観客動員を上回ることはなく、1948年になってやっと赤字経営から抜け出すことができた。

一方パックスは、投資管理の不手際が続いてた上、プロレス興行の面でもマソニックに押され気味だったため経営難に陥っていた。パックスは興行権と事務所、そしてアソシエーション世界ヘビー級王座の権利をある新会社ミシシッピ・バレー・スポーツ・クラブ(MVSC)に売却する。MVSCの社長はマーティン・テーズだったが、あくまで表面的な役職で、実際には現役アソシエーション世界ヘビー級王者ビル・ロンソン、元王者ボビー・マナゴフ、エディ・クイン(モントリオール)、フランク・タニー(トロント)らによる共同出資で、実権を握っていたのはマーティンの息子ルー・テーズだった。1948年6月4日のキール・オーディトリアム大会を最後にパックスは引退し、2週間後の6月18日テーズ派が旗揚げ興行を開催。セントルイスを米国プロレス界の中心地にし、マソニックやテーズを『発掘』したことにより プロレス史において偉大なる功績を遺したパックスだったが、プロレスとボクシングから撤退した後はサーカスとロデオに専念したそうだ。

マーティン・テーズ
ルー・テーズの父

パックスから興行権を受け継いだことにより、テーズはマソニックとの興行戦争に突入する。MSVCの旗揚げ興行の丁度一ヶ月後の7月18日に、マソニックはウォータールーでピンキー・ジョージやクレイトン、ステッカー、オービル・ブラウンに合流しアライアンス発足会員に名を連ねる。

アライアンス結成から2日後の7月20日、インディアナポリスでテーズがビル・ロンソンを破り、アソシエーション王者としては三度目の栄冠を果たす。

アライアンス発足から約2ヶ月後の9月25日には、ミネアポリスで第一回のアライアンス年次総会が開催され、アル・ハフト(オハイオ州コロンバス)とハリー・ライト(ミシガン州デトロイト)の加盟が決定。ライトはデトロイトで独自に世界ジュニアヘビー級王座を認定していたが、アライアンス加盟に伴い中西部王座に名称を変更した。また、当初アライアンスが決定していたビリー・ゲルズの世界ジュニアヘビー級王座認定が一旦保留となった。その原因は不明だが、ゲルズは引き続きアイオワ州はもちろん、ミシガン州西部やウィスコンシン州を含むシカゴ地区、およびカンザス州やミズーリ州の一部といった、割と広範囲で王者として活動する。

ビリー・ゲルズ

また、1948年6月までセントルイスでトム・パックスの興行に出場していた人気選手バディ・ロジャースが、11月にはサム・マソニックの興行に出場するようになり、26日にロジャースがジム・ライトを破った大会では、マソニック派としては記録となった9,176人を動員する。ちなみに新聞記事では10,176人とあるが、後日マソニックがジャック・フェファーに宛てた手紙の中で、新聞社に対して千人上乗せした数字を伝えたため、ミズーリ州アスレチックコミッションにテーズ派からの苦情があったということを書いていたそうだ。

1949年4月には、テーズの本拠地であるセントルイスの新聞に、ブラウンがテーズに対して挑戦の意志を示したという記事が掲載される。そこにはなんと、「ドロップキックやパイルドライバーなどのショー的な技を除いた『shooting match』での対戦を希望」ということも書かれていた。

地域制度時代のアメリカのプロレス史に関する多くの本の著者であるティム・ホーンベイカーによると、それまでアソシエーション仲間だったプロモーター達も少しずつアライアンス加盟に興味を示していき、アライアンス世界王者オービル・ブラウンがアメリカやカナダの各地で王座を防衛していく中、テーズもアソシエーションにしがみついていくことに危機感を感じ始めたそうだ。

一方テーズの自伝『Hooker』によると、MSVCの興行成績は決して悪くなく、むしろマソニック派には勝っているという気がしていたのにも関わらず、共同経営者だったエディ・クインやフランク・タニーが彼ら自身の地区における興行に専念し始めたため、テーズは試合への出場だけでなく団体経営者としての業務の全てを自分が背負う羽目になり、そのうえ結婚生活にも影響が出始めていたとのことで、団体運営を続けることに限界を感じ始めていたそうだ。

もちろんテーズかホーンベイカーのどちらかが間違っているというより、両方正しいという可能性もある。

そして7月29日、コロンバスでピンキー・ジョージやマソニック、ハフトらアライアンスの面々とテーズとの間で会議がもたれ、マソニック派とMSVCが合併することに同意し、更には11月25日セントルイスでブラウンとテーズとの間での世界王座統一戦が行われることが決定した。またその大会後にはアライアンスの総会も開催されることになった。

ちなみにそれまでのブラウンとテーズの対戦は6回で、両者1勝ずつで他の4試合は引き分け。

テーズの自伝『Hooker』によると、統一戦では既に各地で王座を防衛していたブラウンが勝ってアライアンスの権威を上げ、それからしばらく2人の間で抗争を続け、一年以内にテーズが王座を奪取ということも決定していたそうだ。

1949年9月にはフレッド・コーラー(シカゴ)、サム・アベイ(オクラホマ州タルサ)、そしてモリス・シーゲル(テキサス州ヒューストン)の加盟も決定した。また、保留となっていた世界ジュニアヘビー級王座については、新しく加盟したアベイの影響もあってか、秘蔵っ子であるアソシエーション王者のレロイ・マクガークがアライアンス王者としても認定されることが決定した。だが前述のとおり、当初アライアンス王者に認定されていたビリー・ゲルズも引き続きアイオワやシカゴ地区などで王座を防衛していく。

幻の統一戦

ヘビー級王座統一戦が近づいていた10月31日、アイオワ州デモインでボビー・ブランズを相手に60分時間切れ引き分けでアライアンス王座を防衛したオービル・ブラウンは、試合後の真夜中、対戦相手のブランズと共に車でカンザスシティに戻る途中、デモインとカンザスシティの中間あたりで交通事故に遭い重傷を負う。当時はまだ抗争中の選手同士が公で行動を共にするというのはありえない時代だったので、物議をかもす結果となった。ブラウンは4日後に意識を取り戻すがテーズとの統一戦は中止。

その試合だけではなく大会自体が中止となったが、アライアンスの総会は予定通り11月26日から2日間にかけてセントルイスで開催され、ポール・バウザー(マサチューセッツ州ボストン)、そしてアソシエーションのテーズ派だったエディ・クイン(モントリオール)、フランク・タニー(トロント)ら計10名のプロモーターの加盟が承認された。車椅子のブラウンとアソシエーション会長ハリー・ランドリー大佐を含む約50名の出席者が集まり、27日には正式にテーズがアライアンスとアソシエーション両団体認定の統一世界ヘビー級王者に認定された。

その約一ヶ月後の12月28日にはデモインで、レロイ・マクガークと、現地においてアライアンス王者として防衛を続けていたビリー・ゲルズの間で統一戦と銘打った試合が行われマクガークが勝利する。

だがその約1ヶ月後の1950年2月7日アーカンソー州リトルロックで、マクガークも自動車事故に遭う。既にこどもの頃片目の視力を失っていたマクガークは不幸にもこの事故で見えていた方の目を負傷し、盲目になってしまう。マクガークの引退により世界ジュニアヘビー級王座は空位となった。

女子選手権

また、この頃ビリー・ウルフもアライアンスに加盟。ウルフはオハイオのMWAから世界女子王者に認定されていたミルドレッド・バークの夫で、他にも自ら教えた多くの女子選手のマネージャーでもあった。アライアンス本部はバークが保持していた王座を正式にNWA世界王座として認定し、その実権をウルフに任せていたが、ウルフとバークの夫婦関係が悪化し、それに関する問題の数々に嫌気をさした会員達もいて、その結果アライアンスは1953年9月シカゴで開催された年次総会で女子王座の認定を正式に取り消す。

新会長選出

1950年9月、テキサス州ダラスで開催された年次総会では、アライアンス創始者ピンキー・ジョージに代わり、選挙により新しく会長に就任したサム・マソニックの長期政権が始まる。またまくがーく引退により空位となっていた世界ジュニアヘビー級王座は、14人参加の新王座決定トーナメントがオクラホマ州タルサにて10月2日に開始することが決定。11月13日に行われた決勝ではバーン・ガニアがサニー・マイヤースを破り王座を奪取。

トーナメントに優勝して王者に認定されたガニアにはマクガークがアソシエーション’王者時代に保持していたベルトが授与された。

各地区版王座

1951年9月、タルサで開催された年次総会でNWAは全加盟地区に対して、ヘビー級とジュニアヘビー級において、各地区が独自で認定している世界王座を1952年2月初日までに何等かの処分をするよう最後通告を出す。シカゴやミネアポリス、コロンバスでは現地版ヘビー級王座がそれぞれ既に1949年末までに封印されていたが、引き続き独自の王座を認定していた地域もあった。テネシー地区では1951年5月にアライアンス世界ジュニアヘビー級王者バーン・ガニアが現地版王者アリ・パシャを破る。ガニアは11月19日にはテネシー州メンフィスでダニー・マクシェーンに敗れるまで王座を保持。

ロサンゼルスでは1952年5月21日、ハリウッドのギルモア・フィールドで現地版世界王者バロン・ミシェル・レオーニがアライアンス王者ルー・テーズと対戦し、テーズが王座統一を果たした。

テーズとレオーニの統一戦は25,256人の観衆を集め、史上初収益十万ドル以上を上げた興行となった。当時の十万ドルというと2024年の価値にすると約百十八万5千ドル。

ボストンのAWAでは1952年11月に当時の世界ヘビー級王者ドン・イーグルが負傷欠場のため王座が空位になり、そのまま封印。

ロサンゼルスでヘビー級王座統一戦が粉われた約一ヶ月後の6月25日、オリンピック・オーディトリアムに約一万人の観衆を集め、アライアンス世界ジュニアヘビー級王者ダニー・マクシェーンが現地版世界王者リト・ロメロを破り王座統一。

中量級

1952年9月にはロサンゼルス近郊のサンタモニカでアライアンスの年次総会が開催され、メキシコのエンプレサ・メヒカナ・デ・ラ・ルチャ・リブレ (EMLL)のサルバドール・ルテロの加盟が承認される。既にアソシエーション世界ミドル級王座がメキシコに定着しており、またEMLLも独自に世界ウェルター級王座を認定していたため、いずれもアライアンス加盟と同時に、本部が正式に認定していたかどうかは別として、アライアンス王座としても認定されることになった。またこの年の総会では、正式にアライアンス本部によるライトヘビー級の認定も決定。

アライアンス初の公認ライトヘビー級選手権試合として11月5日アイオワ州デモインで、既にアイオワとイリノイでアライアンス王者として活動していたジョニー・バルボとジプシー・ジョーとの対戦が決定した。試合の場所が既にバルボが王者として認定されていたアイオワだったので、新聞記事では当然ジョーがバルボから王座を奪取したとなっているが、実際に試合前の時点でバルボがアライアンス本部から正式に認定されていたのかは、実のところ定かではない。

ジプシー・ジョー(右)はジョー・ドルセッティという選手で、日本で活躍したヒルベルト・メレンデスとは別人。

またアライアンスは、当時アソシエーション世界ライトヘビー級王者だったアンディ・トレメインにアライアンス王者との統一戦を打診するが、トレメインはこれを拒否し、そのまま引退したため、1953年1月11日付でジプシー・ジョーが統一王者に認定される。ちなみにライトヘビー級王座の管理がメキシコのEMLLに任されるようになるのは、その6年後の1959年のことだ。

アソシエーションは他にもジュニアライトヘビー級とジュニアミドル級でも世界王座を認定していたが、いずれもアライアンス発足数年前の1940年代前半には自然消滅したと思われる。

その後のアソシエーション

その後のアソシエーションがどうなったかというと、基本的にアライアンスと同じ世界王座を認定していた。ただ、1960年代中期の、正確にはいつだったかは忘れたが、アソシエーションのランキングでジュニアヘビー級にはアライアンス王者ダニー・ホッジが載っていたのに、ヘビー級にはWWWF王者のブルーノ・サンマルティノが載っていたということもあった。なので、もしかしたらアソシエーションにおいては、1963年1月にルー・テーズがバディ・ロジャースから王座を奪回したのは認めず、ロジャースからサンマルティノに王座が移動したという見解だった可能性もある。

その後1978年の時点でもWBA年次総会と同時にアソシエーションも総会を開催していたそうだ。つまり、アソシエーションは、アライアンス発足後も30年以上存在していたということだ。あくまで書類上でアソシエーションが正式に閉鎖したのは1985年11月18日のことだった。


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