三つのMWA

ヘビー級王座ベルトの謎

カテゴリー: 各地区版世界選手権 , 世界ヘビー級選手権

これまでNWAAWAという略称を使ったプロレス団体が幾つあったのか書かせていただいた。戦後になってプロレスが定着した日本では馴染みが薄いかもしれないが、MWAという略称の団体も幾つか存在した。ここでは『Wrestling-Titles.com』に載せている3つのMWAについて説明。

マサチューセッツ・レスリング・アソシエーション
マサチューセッツ州ボストン (1931年)

マサチューセッツ・レスリング・アソシエーションは1931年6月、チャーリー・ゴードンというプロモーターが結成した団体で、旗揚げ戦は6月9日ボストンの郊外のリビアにある競輪場で開催。6月から7月にかけては、フレッド・モランという選手が世界ライトヘビー級王者に認定されていたが、11月以降は、既に前年1月頃から同じくマサチューセッツ州のスプリングフィールドで認定されていたスティーブ・パッサスがMWAでも認定されるようになる。このライトヘビー級王座は少なくとも1939年まで認定されていたが、MWAという団体自体はおそらく1942年まで存在していたようだ。1931年から1934年末頃までは世界ミドル級王座も認定されていた。

ヘビー級王座についてはこちらを参照。

スティーブ・パッサス

ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション
オハイオ州コロンバス他 (1930年)

1929年から少しずつプロレスにも関わり始めていたナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)は1930年1月、正式にプロレスにおいてもルールや選手権を制定して管理していくことを発表。

1918年12月以来コロンバスのプロモーターだったアル・ハフトもこれに参加し、NBAが認定するライトヘビー級ミドル級ウェルター級の3つの階級でのプロレス世界王座決定戦がオハイオ州内で開催された。

アル・ハフト

ミドル級の王座決定戦は4月9日コロンバスで開催されたが、当初この日はジム・ロンドスとジョン・ペゼックとの間でヘビー級の王座決定戦も予定されていた。だが3月21日、ペゼックがネブラスカの自宅で練習していた際、鎖骨を負傷し、ロンドスとの試合が無期延期となってしまう。

実際にペゼックが負傷していたのかもしれないが、ロンドスはミズーリ州セントルイスかペンシルバニア州フィラデルフィア以外でのペゼックとの対戦を拒否したという説がある。ロンドスをヘビー級王者として売り出そうとしていたのがトム・パックス(セントルイス)とレイ・ファビアニ(フィラデルフィア)だということを考えると、ペゼックのマネージャーでもあったハフト主催の興行にロンドスを出場させたくないというのも判るような気がする。結局ペゼックとロンドスの試合は改めて行われたわけでもなく、ロンドスは6月6日フィラデルフィアで行われた王座決定戦でディック・シカットを破り、ニューヨークとペンシルベニア両州のアスレティック・コミッションから認定される。

当初NBAもロンドスを認定するのだが、9月13日に開催された年次総会で、NBAのプロレス部門がナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)として独立することが決定し、その際ヘビー級王座を空位とした。本来なら、改めてロンドスとペゼックとの試合を協議するべきだったのだろうが、結局それもなく、当然のことながら難色を示したハフトは独自の選手権管理団体の設立を計画することになる。

ミッドウェスト・レスリング・アソシエーションという名称は10月の時点で既に決定していたようだが、正式に決定したのは11月だった可能性が高い。というのは、12月3日コロンバスに周辺の数名のプロモーター達が集まり最初の会議が行われたからだ。年が明けて1931年の元旦には早速世界ライトヘビー級王座決定戦が開催され、ジョー・バナスキーがニック・ボジニスを破り初代王者に認定される。

3月26日に行われた世界ヘビー級王座決定戦では当然のようにマリン・プレスティナを破ったジョン・ペゼックが初代王者に認定。

ジョン・ペゼック

間もなくMWAはウェストバージニアやケンタッキーミシガンなど、オハイオに隣接している各州にその勢力を広げていくことになる。

NWAと袂を分かつことにより発足したMWAだが、ミドル級、ジュニアミドル級、そしてウェルター級については、基本的にNWAと同じ世界王者を認定していたようだ。またMWAは1939年世界ジュニアヘビー級王座も新設。

ここで世界ヘビー級王座に話を戻そう。

アル・ハフトがマネージャーを務めていたジョン・ペゼックだが、1933年の5月か6月頃にはナショナル・レスリング・アソシエーションのトム・パックス派に移籍したためMWAヘビー級王座は空位となる。

1935年6月25日、コロンバスから2千キロ以上離れたコロラド州デンバーで、エベレット・マーシャルがヤング・ゴッチという選手を破って、同州アスレティック・コミッションから世界ヘビー級王者に認定。ヤング・ゴッチというのは1910年代、まだ選手だった頃のアル・ハフトが使ってたリングネームだが、この頃はジョン・パーキンズという選手が使っていた。マーシャルは数日後の7月3日、オハイオでMWAからも王者に認定され、更に1936年6月29日コロンバスで、色々な州で世界王者を名乗っていたアリ・ババも破り、一挙に認定される州が増えると同時にコロラド州からのものに加え改めてMWAからもベルトを授与。翌年にはナショナル・レスリング・アソシエーションの重鎮だったトム・パックスも、セントルイスでマーシャルによる王座防衛戦を開催することになる。

コロラド州アスレティック・コミッションからベルトを授与されるエベレット・マーシャル

そして1937年12月29日、パックス主催のセントルイス大会でルー・テーズがマーシャルを破り、21歳の若さで世界ヘビー級王座初栄冠を果たす。この時、AP通信が間違ってAWAによる認定だと報じたため全米各地の新聞に間違った情報が広まったのだが、ボストンのAWAが実際にイヴォン・ロベアから世界王座を剥奪しテーズに授与したのは、それから約一ヶ月後の1月25日のことだった。試合が開催された現地の新聞『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』、そしてMWAの本拠であるコロンバスの『コロンバス・ディスパッチ』ではテーズが奪取したのはMWA認定だとされていた。例の昔出回っていたかなりいい加減な『公式』NWA世界ヘビー級王座変遷史の中でテーズが6回奪取しているうちの最初はオハイオのMWA王座だったということだ。

ルー・テーズ世界王座初栄冠

1938年2月ボストンでスティーブ・ケイシーがテーズを破りAWAとMWAの両方から認定される。だが秋にはケーシーがアイルランドに滞在し米国内で王座を防衛していなかったことから、MWAはケーシーの王座を剥奪し再びジョン・ペゼックを認定する。AWAは引き続きケーシーを認定。

ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション
カンザスシティ (1940年)

突然だが、ここで話題をカンザスシティのMWAに移す。これもまたミッドウェスト・レスリング・アソシエーションと同じ名称なので、ここからはオハイオ版とカンザス版という表記にさせていただく。

1939年11月10日、コネチカット州ブリッジポートで現地認定世界ライトヘビー級王者モーリス・ボイヤーがボビー・ブランズと対戦する。ブランズはヘビー級のはずだったのに何故かライトヘビー級王座に挑戦し、ボイヤーを破り、この試合以降ヘビー級王者を名乗る。これが戦後だったら『プロレスあるある』で済ませてしまえそうな話なのかもしれないが、1930年代でもこんなことが起きたというのは、現地でジョー・スミスと共に興行を手掛けていたのがジャック・フェファーだったというのが理由かもしれない。

ブランズは11月21日、ブリッジポートから2千キロ以上離れたネブラスカ州リンカーンの新聞で、ニューヨーク州から認定されている新世界王者として紹介される。24日には王座はかけられなかったが早速オービル・ブラウンと対戦し引き分け。ブランズが王座を奪取したブリッジポートはニューヨーク市から75キロくらい離れているが、連邦政府の定めるニューヨーク広域都市圏の範囲内でもあり、現在もニューヨークへの通勤用の電車も走ってるので、ブランズがニューヨークで認定されているというのも話を盛り過ぎていたわけではない。実際ニューヨークやニュージャージー、ペンシルバニアでも王座を防衛していたようだ。そしてブランズは1940年1月11日カンザスシティでもアンディ・ミークサイナーを相手に王座を防衛する。ここからカンザス版が始まったと考えてもいいのではないかと思われる。

ボビー・ブランズ

一方オハイオ州ではオハイオ版MWA世界ヘビー級王者ジョン・ペゼックが1939年後半あたりからあまり試合をしなくなっていた。それもあってか、1940年2月と4月にはコロンバスでもボビー・ブランズが世界王座を防衛する。

そして6月13日、カンザスシティでオービル・ブラウンがブランズを破り王座をカンザス版を奪取する。オハイオ版は、6月21日付で防衛戦を行わないことを理由にペゼックが王座を剥奪され、6日後の6月27日、コロンバスで王座決定戦が開催され、これもまたディック・シカットを破ったブラウンが奪取する。

オービル・ブラウン

その後カンザス版は何度が王座が移動し、1942年6月25日、ブラウンがトム・ザハリアスを破り3度目の栄冠を果たすが、その間ブラウンはオハイオ版を保持し続ける。

11月26日、エド・ストラングラー・ルイスがカンザスシティでブラウンを破りカンザス版を奪取し、一週間後の12月3日にはコロンバスで再度ブラウンを破りオハイオ版も奪取。

だがルイスは年が明けた1943年1月14日、カンザスシティでリー・ウィッコフに敗れカンザス版、二週間後の1月28日にはコロンバスでジョン・ペゼックに敗れオハイオ版王座からも転落。

以降カンザス版は何度も王座が移動し、1948年5月4日カンザスシティでブラウンがボビー・ブランズを破り預かりとなっていた王座を奪回し、9度目の栄冠を果たす。

同じく1948年の7月にはナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が発足し、コロンバスのアル・ハフトとカンザスシティのオービル・ブラウンもこれに参加、ブラウンは初代NWA世界ヘビー級王者に認定される。オハイオ版を保持していたペゼックは1949年に返上し一旦オハイオでのMWA世界ヘビー級王座は封印される。

世界ヘビー級選手権ベルト

自分は物理的なベルトについて決して詳しくはないが、オハイオ版とカンザス版のMWAについて語る際、どうしてもヘビー級王座のベルトを無視するわけにはいかない。

まずオハイオのMWAでは、1936年に世界女子王者ミルドレッド・バークに授与されたものも含め、殆どの世界王座において一度は同じデザインのベルトが使われている。

ミルドレッド・バーク

ではなぜカンザス版のヘビー級王座も同じベルトが使われていたのか。

オハイオ版ヘビー級のベルトは少なくとも2つ存在していた。一つは1931年と刻まれているジョン・ペゼックが持っていたもの。もう一つは1936年と刻まれているもので、これはその年の6月にエベレット・マーシャルがアリ・ババを破った際に授与されたベルトだと思われる。

1931年版
1936年版

1940年6月に空位となっていたオハイオ版を奪取したオービル・ブラウンが授与されたのは1936年版で、それをそのままカンザス版のベルトとして流用し、1942年にエド・ストラングラー・ルイスがブラウンからオハイオ版とカンザス版の両方を奪取した際も、同じ1936年版のベルトを使っていたのではないかと思われる。

その後ルイスは両方の王座をそれぞれ別の選手に奪われるわけだが、カンザス版を奪取したリー・ウィッコフは1936年版、オハイオ版を奪取したジョン・ペゼックは元々自身が持っていた1931年版を使ったということだ。

そして1948年7月、当時カンザス版王者だったブラウンが初代NWA世界王者に認定された際、1936年版ベルトのミッドウェストとアソシエーションと刻まれた部分にそれぞれナショナルとアライアンスと書かれたプレートが貼りつけられ、NWA王座のベルトとして流用された。

初代NWA世界ヘビー級選手権ベルト

1949年11月25日、セントルイスでナショナル・レスリング・アライアンス世界王者オービル・ブラウンとナショナル・レスリング・アソシエーション世界王者ルー・テーズとの間で王座統一戦が予定されるが、ブラウンが交通事故により重傷したためテーズが統一王者に認定される。その後アライアンスの世界ヘビー級王座のベルトは、テーズがアソシエーション王座のベルトとして持っていたものを流用。元々テーズが1937年12月にセントルイスでエベレット・マーシャルを破ってオハイオ版MWA王座を奪取した際、現地のプロモーターだったトム・パックスから授与されたベルトだ。

ではブラウンのベルトはその後どうなったのか。

元々ブラウンの保持していたカンザス版MWA世界王座は、同じカンザスシティ地区の中でも、ミズーリ州セントジョセフでは中西部ヘビー級王座として認定されていた。元々セントジョセフのグスト・カラスは基本的にカンザスシティ地区に属していながらも独自で勝手に色んなことをやってたようだ。

ブラウンがアライアンス初代世界王者に認定された後もセントジョセフでは引き続き中西部王者に認定されていて、同王座が正式に空位となったのは1950年3月のことだった。

一方、セントジョセフ以外ではカンザスシティ地区の主要王座としてハート・オブ・アメリカ・ヘビー級王座が認定されていた。『ハート・オブ・アメリカ』、つまり『アメリカの心臓』というのは当時の米国48州の中で地理的に中心にあったカンザス州の通称だ。

当初ハート・オブ・アメリカ王座にはトロフィーが使われていたのだが、1952年4月11日セントジョセフでオービル・ブラウン負傷以来2年以上空位となっていた中西部王座決定トーナメントが開催され、決勝でサニー・マイヤースがモーリス・ロベアを破り優勝し、ブラウンが保持していた旧MWA及びアライアンスのベルトを授与される。以降マイヤースはセントジョセフでは中西部王者、それ以外ではハート・オブ・アメリカ王者としてこの同じベルトを防衛することになる。

ハート・オブ・アメリカ王座は1953年10月頃セントラルステーツ王座に名称を変え、1955年11月にはカンザスシティでオービル・ブラウンの息子リチャード・ブラウンが奪取。1958年にリチャードが引退すると、ベルトも別の物に取替えられるのだが、かつてベルトに入っていたオービルの写真が途中から別の選手の写真に替わってたのはこういった背景があるからだ。

前述のとおり、自分は物理的なベルトについて詳しくはないが、たまにはベルト自体の歴史を追っていくことで王座変遷がより明確になることもあるのだと改めて感じる。


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