1940年代、アメリカでは各地で定期的なプロレス中継が開始され、やがてカリフォルニア州ロサンゼルスおよびイリノイ州シカゴからの中継が全米に放送されるようになった。
NWA1948年7月、アイオワ州ウォータールーにおいて中西部のプロモーター数名が集まり、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が結成された。翌1949年11月には会員数が20名に達し、1952年の総会時点では約40名にまで拡大していた。
そこには、会員同士の協力により世界王座の価値が高められ、選手の確保もぼぼ保障されるという利点があったが、プロモーター達が加盟を希望した大きな理由がもう一つあった。テレビ中継の存在だ。
テレビ中継の開始により、観客が会場に足を運ぶ必要性を感じなくなり、観客動員数の減少が問題となった。場合によっては選手が試合をボイコットし、出場者が集まらない事態も発生したとされる。そういった状況の中、NWAに加盟していれば近隣の地区の会員から選手を派遣してもらえるという利点があった。
ジョニー・ドイル(ロサンゼルス)およびフレッド・コーラー(シカゴ)が正式にNWAに加盟したのは、1949年秋のことだ。


ニュースやドキュメンタリー形式以外で、アメリカにおいて初めてプロレスがテレビ中継されたのは、1942年12月にニューヨーク州スケネクタディで行われたスタジオマッチであるとされている。定期的な放送として成功を収めたのは、1947年にロサンゼルスのKTLAが開始したオリンピック・オーディトリアムからの中継である。KTLAによる中継は番組販売を通じて全米各地に広まった。
一方、フレッド・コーラーも1947年よりテレビ中継を開始していた。1949年9月17日にはシカゴのマリゴールド・ガーデンからデュモン・ネットワークによる中継が開始。デュモン・ネットワークは当時NBCおよびCBSと並ぶ米国三大ネットワークの一つであり、同中継に出場する選手は全米での知名度を高めることが可能となった。
NWA会員の多くは、シカゴ中継の影響力に脅威を感じながらも、NWAのネットワークを活用してコーラーに選手派遣を依頼し、自身の地区の興行にテレビで活躍する選手を出場させていた。このような状況の中で、コーラーの業界内における影響力は増していった。
各地でテレビ中継が普及していく中で最も露出度が高かったのは、やはり世界ヘビー級王者ルー・テーズだと言われている。1949年11月にナショナル・レスリング・アソシエーションとナショナル・レスリング・アライアンスの両方から統一王者として認定されて以来、ロサンゼルスとシカゴからの全米中継はもちろん、王者として各地区を巡業していたことから、それぞれの地区のテレビ中継でテーズの試合が見れたからだ。

同年、シカゴでは興行戦争が勃発しようとしていた。フレッド・コーラーはレインボ・アリーナでの興行をABC系列で中継していたが、同年レインボを買収したレオナルド・シュワルツが会場使用料を引き上げたことで、両者の関係は悪化。
一度は和解したものの、1949年9月17日、コーラーはマリゴールド・アリーナからの中継をデュモン・ネットワークで開始した。これにより、毎週土曜午後8時から全米に放送される体制が整い、プロレス史における一時代を築くこととなった。コーラーはABCでのレインボからの中継も継続したが、シュワルツは自らプロモーターとしてのライセンス取得を目指し、NWA加盟を視野に入れた。
11月のNWA総会でコーラーは正式に加盟することになるが、後日シュワルツは、自分がプロモーターになろうとしてなければコーラーもNWAに加盟していなかっただろうと発言している。1950年1月からシュワルツは興行を開始、以後しばらくの間シカゴではコーラーがデュモン・ネットワークでマリゴールド・アリーナから、そしてシュワルツがABC系列でレインボ・アリーナからの中継を続けていくことになる。
6月21日、リグレー・フィールドにおいてNWA世界王者ルー・テーズとバディ・ロジャースの試合が開催されたが、観客数は7,638人にとどまり、翌日の新聞では「残念なくらい少ない観客」と報じられた。7月27日のテーズ対ゴージャス・ジョージ戦も7,675人と、期待を下回る動員であった。
更には、一部のNWA会員達がABCでの中継を目当てにシュワルツに協力することになり、コーラーのNWAに対する不満は大きくなる一方だった。11月、コーラーはNWA離脱を表明したが、1951年2月にミズーリ州セントルイスで開催された緊急会議において復帰が決定された。同時にシュワルツのNWA加盟も承認され、シカゴ地区において2名のNWA会員が併存するという異例の状況が生じた。後の日本における全日本プロレスと新日本プロレスの関係と似ている。
1949年、一人のアマチュアレスリングの選手が全米大学選手権優勝の肩書を引っ提げてプロに転向する。1948年NCAA選手権191パウンド級で優勝したバーン・ガニアは、1949年にはヘビー級で前年度優勝者ディック・ハットンを破り2連覇を達成。それから1ヶ月も経たない4月18日、ガニアは地元ミネソタ州ミネアポリスのプロモーター、トニー・ステッカーと契約しプロ転向に合意、5月3日デビューを果たした。

10月後半にはテキサス州に転戦し、12月16日にはヒューストンで開催された挑戦者決定トーナメント決勝においてサニー・マイヤースを破った。その後、休むことなくテキサス州ヘビー級王者レオ・ニューマンに挑戦し、王座を奪取。
1950年1月13日には同じくヒューストンでダニー・マクシェーンに敗れ王座から転落し、プロ転向後の初栄冠は1ヶ月弱に終わる。3月以降は地元ミネソタ州、そしてアイオワ州やネブラスカ州といった中西部を転戦。5月にはシカゴに初登場するが、8月からはテキサスに復帰。
9月8日、ヒューストンでミゲル・グスマンを破り二度目のテキサス州ヘビー級王座栄冠を果たし、10月20日には同じくヒューストンで世界ヘビー級王座に初挑戦、ルー・テーズを相手に90分時間切れで引き分ける。
ちなみにテーズの自伝『Hooker』によると、実はこの頃ガニアは、試合を続けていても大して稼ぎにならないという理由で、早くもプロレスからの引退を考えていたが、テーズとの試合で900どる (2024年換算で約11,700ドル)もらえたためプロレスを続けていくことを決心したという。
ガニアは10月27日リト・ロメロに敗れ王座から転落するが、テキサス州ヘビー級王者として活躍すると同時に、オクラホマ州タルサで開催されていた世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントにも出場していた。12人が参加したトーナメントの初日である10月2日からガニアは出場し、11月13日に行われた決勝でサニー・マイヤースを破り、レロイ・マクガークの交通事故による引退で空位となっていた王座を奪取。米国内の多くの地区で防衛し1951年11月19日テネシー州メンフィスでダニー・マクシェーンに敗れるまで約一年間世界王座を保持した。
その後はニューヨーク州西部のバッファローを中心に活動しつつ、少しずつ中西部での試合も増え、その間世界ヘビー級王者ルー・テーズとは何度も対戦した。ミズーリ州セントルイスでは二度ガニアが負けているが、いずれも40分や50分といった長時間に亘る試合で、その2試合以外の大半は60分時間切れ引き分けだった。テレビ中継による露出もあり、ガニアの人気は上昇し、シカゴではバディ・ロジャースやゴージャス・ジョージを凌ぐほどだったという。
そのシカゴ地区では、1949年11月、フレッド・コーラーがNWAに加盟したことにより独自に認定していた世界ヘビー級王座は封印された。その後、イリノイ州やウィスコンシン州のヘビー級王座、中西部ヘビー級王座などが存在したが、いずれも単発的で、実質的に主要な地区王座は存在しなかった。テーズが頻繁に世界王座を防衛していたため、地区王座の必要性が薄れていた可能性がある。
1953年夏、コーラーは全米中継で人気を博していたガニアに更に箔をつける目的で、新たな地区王座の創設を計画した。ホイッパー・ビリー・ワトソンの提案により、その王座は『ユナイテッド・ステーツ・ヘビー級王座』と命名された。
同年9月4日から3日間、シカゴでNWA年次総会が開催されたが、その1週間前、コーラーはNWA会長サム・マソニックに対し地区王座認定の許可を申請した。マソニックは当該王座がNWAの正式な世界王座と競合しない限り問題ないと判断し、これを許可した。
9月5日、総会期間中に開催されたマリゴールド・アリーナ大会のリング上において、NWA会員プロモーター達の前で、ガニアがUSヘビー級王者に認定されたことが発表された。翌9月7日、シカゴの新聞においてマソニックは、NWAが正式に認定する世界王者は、ヘビー級のルー・テーズ、ジュニアヘビー級のバロン・ミシェル・レオーニ、ライトヘビー級のフランク・ストジャックの3名であり、ガニアのUS王座はNWA本部が認定するものではないと明言した。
コーラーも地元ラジオ番組において、US王座は中西部の一部プロモーターによって認定されたものであり、NWA世界王座の方が格上であると発言。
しかし、全米中継においてガニアがヘビー級王者として紹介される状況が続いたため、他のNWA会員からはファンの混乱を招くとの指摘が相次いだ。『米国と世界』でも多少触れた通り、プロレスにおいて世界王座と米国王座が混同される傾向は、19世紀末から既に存在していたと思われる。加えて、当時のアメリカ社会においては、第二次世界大戦の勝利を背景に「アメリカこそが世界一」とする気運が高まっており、USと世界の混同が自然に受け入れられていた可能性もある。
地区制度時代に関する本を幾つも書いているティム・ホーンベイカーによれば、US王座の新設を許可したマソニックに対しても、NWA内部では不満の声が高まっていた。特に世界王者テーズがガニアの保持する王座に難色を示していたという。何度も対戦した二人ではあったが、または何度も対戦した二人だからこそなのかもしれないが、お互いどこかで意地を張ってるような面もあったとテーズ自身が『Hooker』の中で述べている。
更に、ホーンベイカーの著作によれば、マソニックはNWA内部の混乱を回避するため、コーラーに対してUS王座の封印を命じたが、コーラーは「NWAの仲間より観客の方が重要」だとして、デュモン・ネットワークの中継において引き続きガニアをUS王者として登場させる方針で反論。この対応に対し、マソニックは処罰の意味も込めて、シカゴ地区においてはレオナルド・シュワルツのみに世界ヘビー級選手権試合の開催を許可したという。また、単にテーズがUS王座に不満を感じていたためコーラー主催の大会に出場したがらなかったという説もある。
1954年9月にはシュワルツによるレインボー・アリーナからのテレビ中継が打ち切りになり、テーズも1955年1月からは再びコーラー主催のマリゴールド・アリーナでの試合に出場するようになる。
一方ガニアは1956年4月、シカゴでウィルバー・スナイダーに敗れ2年半以上保持したUS王座から転落。当時コーラーはコロラド州デンバーのプロモーター、マイク・ロンドンにも協力し選手を派遣していた。US王座はその後、ガニア、スナイダー、ハンス・シュミットの間で、シカゴおよびデンバーにおいてそれぞれ異なる系譜で移動を繰り返していく。
ニューヨークにおいてもガニアの人気はテーズを上回っていたとされる。1955年10月18日、マディソン・スクェア・ガーデンでテーズとパット・オコーナーの世界選手権試合をメインイベントにした大会は、他にもアントニーノ・ロッカやバディ・ロジャース、ドン・レオ・ジョナサン、ドン・イーグルといった人気選手が揃っていたにも関わらず、6,800人以下という不入りで、翌月の11月14日の大会はテーズ対ハンス・シュミットの世界戦の他、10月同様ロッカ、オコーナー、ジョナサン、ロジャースらが出場予定だったが、前売りが伸びず開催自体が中止された。ガーデンのプロモーターだったトゥーツ・モントとウォルター・スモールショーは、12月の大会を最後に約一年間同会場での興行を停止した。もちろんテーズだけの責任ではなく、元々テーズがモントに不信感を抱いていたというのもあるかもしれないが、いずれにせよガーデンで引き続き時々試合をしていたガニアと違い、テーズが同会場に出場することは二度となかった。
1957年6月、シカゴにおいてエドワード・カーペンティアがテーズを『失格』によって破り世界王座を奪取。NWA内部では認定を巡る混乱が生じ、大半の地区では引き続きテーズを認定していたが、シカゴやニューヨークなど一部の地区ではカーペンティアを認定していた。カーペンティアの世界王座については『魔術師の残骸』を参照していただきたい。
1957年8月から10月にかけて、テーズはオーストラリア、シンガポール、日本を巡業し、NWA王者として初めて北米以外での世界王座防衛戦を行った。既にヨーロッパのプロモーター達からも遠征の依頼をされていたテーズは、NWA会員達を満足させるためだけに米国内で時として少ない報酬で試合を続けていくことと、好待遇の中で日本を含む海外で活躍していくことを比べ、割に合わないと感じ始め、もはや自分にとってNWA王座は不要だということをマソニックに対して伝えたという。これに関する詳細は『インターナショナル・ヘビー級選手権』をご覧いただければと思う。
NWA側は後継者として人気上昇中のバディ・ロジャースを提案したのだが、ロジャースが嫌いだったテーズは、例によって「ロジャースと対戦するとしても試合には勝つ。」といった内容のことをNWAに伝えたという。
また、NWA内部ではガニアの名も挙がっていたというが、ここで述べているような経緯で、テーズがガニアに王座を譲る可能性は低かった。世界ヘビー級王座の実権を握っていたマソニックと、US王座を管理しガニアのマネージャーでもあったコーラーとの関係が既に悪化していたという面でもガニアの世界王座奪取は現実的ではなかったのではないかと思われる。
また、あくまでこれは自分が以前どこかで読んだ話に過ぎないが、テーズがガニアの世界王座奪取に反対した表面上の理由は、ガニアが元々世界ジュニアヘビー級王者として各地区で活躍していたため、その印象が強く、ヘビー級王者には相応しくないというものだった。

確かにテーズと比べるとガニアは小柄だった。
NWAとテーズの間での行儀の結果、次期世界王者として、テーズ自身もそのレスリング技術を認めていたディック・ハットンに決定したが、プロ転向前のガニアがそのハットンを破ってNCAA選手権で優勝していたというのも皮肉のようなものを感じる。
1958年4月シカゴでガニアはディック・ザ・ブルーザーからUS王座を奪回。更にガニアは8月ネブラスカ州オマハでエドワード・カーペンティアを破り同地区認定世界ヘビー級王座も奪取するが、なんとこの時特別レフリーを務めたのはコーラーだった。11月にはオマハでウィルバー・スナイダーがガニアを破り王座を奪取したが、シカゴでは12月21日時点でもガニアが世界王者として認定されていた。
だが約半月後の1959年1月9日、パット・オコーナーがディック・ハットンからNWA世界王座を奪取すると、シカゴでも再びNWA王座が防衛されるようになる。ハットンの集客力不足が指摘される一方で、テーズがガニアを差し置いて選んだ後継者だというのもコーラーがハットンを起用したがらなかった理由とも考えられる。
ガニアはオマハおよび地元ミネアポリスでの試合に継続的に出場していたが、1959年4月にコーラーの片腕的存在だったジム・バーネットがジョニー・ドイルと共に新勢力を旗揚げすると、シカゴでの試合は減り、ミシガン州デトロイトやインディアナ州、コロラド州といったバーネットとドイルの傘下の地区に出場することが増えていく。
一方、ガニアの地元ミネアポリスでは、長年プロモーターを務めたNWA発足時の会員トニー・ステッカーが1954年10月に他界し、以降リオナ夫人と息子のデニスがウォーリー・カルボと共に同地区を運営していた。デニスはNWAに忠誠をつくし理事を務めることもあったが、5年後の1959年12月28日、カルボがステッカー親子から興行権を買収し、単独経営者になったと報じられる。実際にはバーン・ガニアとの共同出資による買収だったが、ガニアが現役選手であったため、表向きはカルボが単独の責任者として発表された。
そして翌1960年、ミネアポリス地区では、NWA世界王者パット・オコーナーが8月1日までにガニアの挑戦を受けなければ、ガニアを世界王者として認定するとの声明が発表された。ミネアポリス地区では前年ハットンやオコーナーが少なくとも10回は王座を防衛していたが、ガニアによる地区買収以降、NWA王座の防衛戦は一切行われなくなっていた。このことから、ガニアは買収時点でNWAとは別の団体、すなわちAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)の設立を計画していたと推測される。そして1960年8月3日、ミネアポリスの地元紙でガニアが世界王者に認定されたと報じられる。
ミネソタ州内の新聞を調べていると、同年7月から『AWA』の名称が登場しているが、9月までは『アメリカン・レスリング・アライアンス』と表記されていた。新聞上で『アメリカン・レスリング・アソシエーション』という名称が定着したのは10月以降である。これに関しては当時のテレビ中継でどのような発表がされていたのか不明。当初はNWAに対抗する意図で『アライアンス』として始めたが、同年1月よりインディアナ州で同名を使用していたバーネットとドイルからの抗議により、『アソシエーション』へ変更された可能性がある。
ガニアはプロモーターとして30年半という長い間AWAを運営し、その内4割の期間を世界ヘビー級王者として全米各地およびカナダ西部、そして日本で王座を防衛。選手としてのみならずプロモーターとしても高い能力を示したということを考えると、仮にガニアがNWA世界ヘビー級王座を奪取していても、いずれにせよNWAから離脱していたのではないかと考えられる。
また、AWA、WWWF(後のWWE)、ロサンゼルスのWWAなど、裏ではNWAとつながってはいたものの表向きは競合関係にある団体が存在したことにより、NWAは連邦政府からの独占禁止法違反調査を回避することが可能となった。
このように、ガニアが世界王者として活動しながら団体を運営することで収益を得ていた一方で、テーズもそれまで築き上げた名声を活かして多くの場で活躍を続け、更にはNWAも表面上の競争相手が必要だったということを考えると、みんなにとって結果的に良かったのではないだろうか。
尚、ガニアは1976年以降サム・マソニックが社長を務める『セントルイス・レスリング・クラブ』の副社長も務めていたという。かつては世界王者テーズと共にNWAを引っ張っていたマソニックが、ガニアと共にNWAの総本山と呼ばれていたセントルイス地区を運営することになるというのが、歴史の面白さというのを感じさせてくれる。
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