インターナショナル・ヘビー級選手権

近代王座起源シリーズ(1)

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プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。

戦後、力道山が日本にプロレスを定着させて以来、日本のプロレス団体が管理していた選手権の中で、最も価値のあるものの一つに、インターナショナル・ヘビー級王座がある。現在、全日本プロレス三冠王座に統一されている。

1957年11月14日、カナダのオンタリオ州トロントでディック・ハットンがルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。その後ヨーロッパ遠征に向かったテーズは、長年世界王者だったという功績を認められて招かれているという理由で、何等かの選手権の必要性を感じ、自ら『インターナショナル』王者を名乗る。実際にはNWAが正式に認定しているわけではないが、後年テーズは米国のあるプロレス情報紙に「NWAから許可を得ていた」といった投稿をしている。遠征中イギリスでは世界王者として試合をすることが多かったが、フランスではインターナショナル王者として紹介されていたようだ。

またテキサス州ヒューストンでは、「1949年にアントニーノ・ロッカから奪取」とされていたようだが、その試合どころか、テキサスでもニューヨークでもロッカがインターナショナル王座を保持していたという記録さえ残っていない。

ヨーロッパには1958年2月までと長期滞在。3月に帰国してからもカリフォルニア州やユタ州、アイダホ州、またはテキサス州などでインターナショナル王座を防衛し続ける。

そして1958年8月27日にロサンゼルスで力道山に敗れる。

当時から、「力道山が世界王座を奪取」、「実はテーズは既に世界王座から転落しており、力道山が奪取したのはインターナショナル選手権だった」、「奪取はしたがベルトが無かった」など色々な説があり疑惑つきだったようだが、実はその試合は選手権がかけられていないノンタイトル戦だった。

以下、米軍極東新聞『Pacific Stars And Stripes』から、左が8月29日AP、右が9月3日UPIのもの。APのリポートには、明確に王座がかけられてなかったと書かれているし、更にUPIの文章には、力道山が日本のファンを混乱させているとも書いてある。

尚、同地区主要新聞である『Los Angeles Times』には、試合当日の記事でテーズがインターナショナル王者だと紹介されてはいるが、翌日の試合結果も含め、特に選手権試合だったかどうかは書いてない。

テーズはこの試合後も各地でインターナショナル王者を名乗っており、63年1月の時点でもミズーリ州での記事から確認でき、それから約2週間後にはバディー・ロジャースを破り世界王座を奪回している。つまりテーズは世界王者でなかった期間の殆どをインターナショナル王者として活躍していた。その期間のテーズによるインターナショナル王座防衛戦の一覧を英語だが載せてみた。当然これら以外にもあると思われる。

昔からアメリカのプロレス界では、他地区から遠征または転戦してきた選手をチャンピオンにしたて、それを地元の選手が倒し、いかにもよその地区のタイトルを奪取したかのように思わせたり、州外や海外の地名を使って、フィクションの王座奪取を報道するというのが繰り返されてきたが、日本のインターナショナル王座も多少それと似たような状況で造られたということになる。

とはいえ、インター王座が日本プロレス界の『至宝』とまで言われるものになったのは事実で、他の多くの選手権同様、どう始まったかというよりも、どう歴史を築き上げたかという方が大事だということには変わりはない。

ただ、選手権史オタクとしては、書かずにいられないのである。


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