1952年5月21日、ナショナル・レスリング・アソシエーションとナショナル・レスリング・アライアンスの両NWAから世界ヘビー級王者に認定されていたルー・テーズは、ロサンゼルスで行われた統一戦で同地区認定世界王者バロン・ミシェル・レオーネも倒し、少なくとも米国においては統一世界ヘビー級王者に君臨し、ついにNWA(アライアンス)は事実上、米プロレス界を牛耳る組織となった。
だが1955年、NWAは米国司法省から独占禁止法違反の疑いで捜査され、翌1956年には同意判決の基、かろうじて解散は逃れたもの、違反になる活動を禁止されることとなった。これにより、NWAに加盟する利点が半減、1955年には40人近くいた会員が10人以上減り、1959年には25人程度になっていた。
その真っ只中の1957年6月14日、テーズはシカゴでの対エドワード・カーペンティア(実際には英語でもフランス語の『カルペンティエル』に近い発音)戦で、腰の負傷を理由に3本目で試合を放棄し、『失格』により王座転落。

実は、これはNWAによる実験だったと言われている。テーズにはその年の夏から秋にかけて、オーストラリアや日本へ世界王者として遠征する話があり、その間、米国で世界王者が不在になるのを避けて、意図的に2人の世界王者を認定したという説がある。負傷していたはずのテーズは、5日後の6月19日、インディアナ州エバンスビルでボビー・マナゴフを相手に王座を防衛(17日にもメンフィスで防衛戦が予定されていたが結果不明)、同日モントリオールではカーペンティアもトシ東郷(ハロルド坂田)を相手に防衛している。
7月24日、モントリオールでテーズがカーペンティアに反則勝ちを収めたが、それ以後も2人は約1ヶ月それぞれ世界王者として活動。だが、8月にセントルイスで行われたNWA総会に、サム・マソニック会長が、一部の会員達から『業界の癌』と言われていた悪名高い非会員プロモーター、ジャック・フェファーを招いたため、モントリオール地区プロモーターでカーペンティアのマネージャーでもあったエディ・クインが激怒、総会の最終日だった8月25日付でNWAを脱退。クインは、「カーペンティアはシカゴでテーズの失格(disqualification)により奪取したのだから、モントリオールでの反則負け(disqualification)でテーズに奪回されたことにすればいい。」として、カーペンティアの世界王座も放棄、結果NWAは、6月14日から8月24日までカーペンティアが王座を防衛し続けたにも関わらず、全て「無かった事」にしてしまった。テーズは予定通り、夏から秋にかけてオーストラリアや日本に遠征、結局アメリカにはその間NWA世界王者不在となった。
独禁法に関する同意判決やカーペンティアに関する疑惑を理由に、多くの会員がNWAを去り、その中の一部のプロモーターは引き続きカーペンティアを認定。再び世界王座乱立時代に入る。
モントリール地区では、NWAに加盟していたにも関わらず、独自の世界王座を認定し続けていたが、脱退後も、少なくとも1958年3月頃まではカーペンティアをNWA(アソシエーション)世界王者として認定し、同地区版王者との統一戦を、引き分けや反則またはリングアウトなど明確な結末を出さないまま数回開催していた。
ボストンでは、NWA発足の翌1949年から会員だったポール・バウザーが、既にNWAを1954年1月に脱退していた元ロサンゼルス地区のプロモーター、ジョニー・ドイルと結託し、1957年にNWAを脱退。1958年5月にはキラー・コワルスキーがカーペンティアを破り、同地区にて約3年間世界王者に君臨した。同王座は1969年1月、王者フランク・スカルパの病死により封印されるまでビッグタイム・レスリングが認定した。
ネブラスカ州オマハでは、1957年総会の前月、NWA発足時からの会員だったマックス・クレイトンが他界、11月から同地区のプロモーターとなったジョー・デュセックはNWAに加盟せず、カーペンティアを王者に認定。翌1958年8月9日、同地にてバーン・ガニアがカーペンティアを破り王座奪取。尚、このオマハ版王座はよくガニアのAWAと混同されるが、まだこの頃ミネアポリス地区はNWAに加盟しており、1960年までAWAを発足しなかったので、全くの別王座である。オマハ版が正式にAWA世界王座に統一されたのは、AWA発足から3年後の1963年9月のこと。
ロサンゼルスで正式にカーペンティアがNAWA(ノース・アメリカン・レスリング・アライアンス)に世界王者として認定されたのは1959年10月だが、1957年のシカゴ戦以降、既にテーズは同地区で防衛していなかった。1961年6月、フレッド・ブラッシーがカーペンティアから王座奪取、同年NAWAがWWA(ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ)に改称。WWAは1968年10月、NWAに加盟し、同年12月統一戦もないまま同世界王座は封印された。
ジョージア地区も、1957年の世界王座疑惑の後NWAを脱退しカーペンティアを認定、1962年に再度加盟し、翌1963年まで独自の世界王座を認定していた。
カーペンティアが世界王座を『奪取』したことにより、NWAから分派した選手権が幾つも誕生したわけだが、1960年代に入ると、NWAに更に大きな、それも意図的な分裂が訪れることになる。
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