1990年代前半、自分がダラス・スポータトリアムに毎週試合を観に行き始めた頃は、グローバル・レスリング・フェデレーション(GWF)という団体が興行していた。
それまでも何度か観戦しに行ったことはあったが、毎週行くようになったのは、インターネットのニュースグループで知り合ったPとJから誘われてからだった。最初にみんなで集まった日には、同じくニュースグループで知り合ったCも、わざわざオースティンから車で何時間も運転して駆けつけてきてた。ちなみに、PとCとはその後も交流を保ち、1999年には自分の結婚式のためにわざわざニューヨークまで来てくれたし、2016年には、自分がCの結婚式に出席するため、21年ぶりにテキサスに行った。
ある時、2、3回だったか、連続して行けなかったことがあった。久々に顔出した時、Pが言った。「お前みたいな、日本のプロレス観て育った奴が好きそうなのがいるんだよ。」
『ヌビアン・テラー』の異名を持つモアディブという悪役選手だった。Pが言うとおり、190cm、140kg近くある大きな体だが、無駄な脂肪がなく殆どが筋肉で、スティーブ・ウィリアムスがやりそうなパワースラムなどといった怪力殺法は勿論のこと、ジュニアヘビー級のような空中殺法も軽くこなすという凄さだった。トップロープからのムーンサルトも簡単そうにやるし、リング内からロープを飛び越えエプロンに着地というのも楽にやってのけた。マイクパフォーマンスも、決して下手ではなかった。
その容姿も、見るからに殺気があり、色んな面で可能性を秘めている選手だった。
ある日、花道の脇に、日本の暴力団でやってそうな桜吹雪の刺青を背中から肩にかけてしていた、どちらかいうと痩せた感じの白人客がいた。モアディブは、いつものようにマネージャーのスカンドル・アクバと共に入場。リングに向かっている途中、その刺青男が立ち上がって、何か野次を飛ばした。モアディブは即振り向いて、その男の顔面にフックを一発、瞬間KOしてしまった。そして何事もなかったかのようにリング入りするモアディブとアクバ。会場全体が驚きと恐れに包まれた瞬間だった。自分にとっても、人が殴られてあんなに簡単に崩れ落ちるのを間近で見るのは初めてだった。
悪役ではあったが、その迫力と技量で、徐々に人気を伸ばしていった。
GWFが閉鎖し、ジム・クロケット・ジュニアが同会場にてNWAの名で再旗揚げしてからは、本名のトニー・ノリスで善玉として活躍。
関係者達の話によると、控室でも、マイケル・ヘイズやタリー・ブランチャードといった先輩レスラー達からの助言をしっかり聞き、プロレスについて学ぼうとする強い姿勢があったとのこと。また、誰とでも不平不満を言わず試合ができたとか。
うちら常連仲間は、何度か試合後にトニーと一緒に食事に行ったが、すごく気さくで感じのいい人だった。
ある日、PかJのどちらか忘れたが、新日本プロレスのジュニアヘビー級の試合のビデオをトニーに貸したらしく、その翌週の試合後、みんなで食事に行った際、「あのビデオ、どうだった?」とトニーに訊くと、「面白かったよ。でも、あれくらいの技だったら自分にもできるだろうな。」と、軽く言ってのけた。当然、その一言を疑う奴はその場には1人もいなかった。
また、うちらが、例のKOパンチを食らった刺青男について質問すると、人種差別用語で野次っていたので腹が立ったんだとか。トニーの分厚さと比べると半分くらいしかないくせに喧嘩を売るという本物のアホが存在してたらしい。ちなみにその男、懲りずに数週間後、再び会場に現れた。警備員達に囲まれて、厳重注意を受けながら、渋々席に座っていたが、相当プロレスが好きだったんだろう。
1995年になると、トニーは、ジョン・ホーク(ジョン・ブラッドショー・レイフィールド = JBL)と抗争。これがなかなか観客にはウケていたが、自分は春頃から諸事情により観戦しに行く頻度が減り、夏には6年間住んだテキサスを去った。
間もなく、予想通りというか期待通りというか、トニーにWWFから声がかかる。だが、契約を済ませたころから、NWAの選手達に対して態度が一変し、試合中も時々技を受けなくなったらしい。
確かWWFにアーメッド・ジョンソンとして出場し始めたのは秋頃だったと思う。テキサスを離れる直前の彼の態度について全く知らなかった自分は、当時は素直に『知り合い』が活躍するのを応援していた。
だが、何かが違った。マイクを持って喋る時も、以前と違って、ぼそぼそ言ってるだけで、なんか聞き取りにくい。
また、WWFでは、他の選手達に対する態度も決して良くはなかったらしいし、試合中に相手を怪我させることも増えていったとか。
せっかく夢がかなって檜舞台に立つようになったのに、もはやトニーは別人のようだった。翌1996年、インターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取し、WWFにおいては黒人初のシングル王者となったが、その頃の自分は、それほど嬉しいとは思わなくなっていた。
ちなみに、後年の本人のインタビューによると、ショーン・マイケルズに呼び出されて、「お前のような巨体が空中殺法を軽くこなしていると、俺達のような小柄な選手がやっても説得力がなくなるから、やめろ。」と忠告されたらしい。当時のマイケルズは相当態度がでかかったらしいので、本当のことだとしても不思議ではない。
WWFではそこそこ活躍していたが、結局3年もいなかった。1999年にWCWにビッグ・Tとして参戦した時には、かつての筋肉美は過去のもので、脂肪ばかりが増えた姿になっていた。WCWでは1年も続かなかったと思う。
来日してSWSにも出場したこともある名レフリーのジェームス・ビアード氏や、ジョー・ブランチャード主宰のサウスウェスト・チャンピオンシップ・レスリング(テキサス州サンアントニオ)やダラスNWAでリングアナウンサーや実況で活躍した故マーク・ナルティ氏らが口を揃えて言ってたのは、ダラス時代の謙虚な態度と、吸収できることは必ず学んでやるという姿勢さえ保っていれば、もっと素晴らしい選手として活躍していたはずだということ。自分も実際そう思う。
色々振り返ると、開花できたと言えるのかは疑問だ。
今でもトニーのことを思い出す度に、本当に勿体なかったという気にならざるを得ない。
