米国南東部地区

1970~80年代のテネシー州東部およびアラバマ州

カテゴリー: NWA , テネシー

米プロレス史において、南東部地区(Southeastern)というと、ノックスビルを中心としたテネシー州東部およびアラバマ州全域のことを指す。

ノックスビルは、1942年4月からジョージ・カザナが、後に弟のジョン・カザナと共に主宰していたが、テネシー州内の他地区同様、ニック・グラスとロイ・ウェルチのナッシュビル地区の傘下だった。だが、テネシー州タッグ、そして1980年代まで同地区の主要王座だった南東部ヘビー級など、ノックスビル独自の王座も認定していた。

当時のトップレスラーは、悪役のロン・ライト。南東部ヘビー級王座を何度も保持しただけではなく、ドンとの兄弟チームでは州タッグ王座を巡りホワイティ・コールドウェル & レス・サッチャーと抗争した。だが、南東部ヘビー級王座は1973年以降一時的に姿を消し、選手権という面においては、タッグが同地区の中心となっていたようだ。

1974年11月には、ロイ・ウェルチの孫で、前年ロン・フラーのリングネームで選手としてデビューをしていたロナルド・ウェルチが、ノックスビルを中心としたテネシー州東部地区の興行権を、ロイとジョン・カザナから譲り受け、サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング(SECW)を旗揚げ。

1976年1月、復活NWA南東部ヘビー級王座決定トーナメントが開催され、決勝では長年同地区で主要選手の1人だったロン・ライトがプロフェッサー・タナカを破り王座に返り咲き。同じ頃、1974年の買収から引き続き認定されていた州タッグ王座も、南東部王座に改称された。ライトはこれが最後の栄冠となり、世代交代により、以降ロンとロバートのフラー兄弟や従兄弟のジミー・ゴールデンらが選手としても台頭。そして、翌1977年には、後に同地区で重鎮となるモンゴリアン・ストンパー (アーチ―・ゴールディー)やボブ・アームストロングが参戦。ライトは、少しずつマネージャーに転身していった。

1978年1月、ロン・フラーは、父バディ・フラーの従兄弟リー・フィールズから、アラバマ州南部を中心としたメキシコ湾岸地区の興行権を買収。モービルやドーサンでのテレビ収録も開始し、ヘビー級やタッグの南東部王座もそれぞれノックスビルとは別に認定した。混乱を防ぐためか、モービルを中心としたこれらの地区南部版の南東部王座は、1979年には湾岸王座として認定された。

1977年にフロリダで覆面を被りスーパー・デストロイヤーの名でデビューした若手レスラー、テリー・ボールダーが1979年に地区南部に参戦。『ザ・ハルク』の異名で活躍し、6月にはモービルで湾岸ヘビー級王者オックス・ベイカーを破り、デビュー以来の初の王座を奪取。

同じく1979年の6月1日、当時ロン・フラーやモンゴリアン・ストンパーと共に同地区のトップの1人だったロニー・ガービンがアレックス・スミルノフを破り、NWA南東部ヘビー級王座(地区北部版)を奪取。だが、この時点でガービンは既に水面下で一部のレスラー達と反抗勢力を結成しつつあった。ロン・フラーの経営方針に不満を募らせていたボブ・ループは、ガービン、ボブ・オートン・ジュニア、ボリス・マレンコと共にNWA系SECWを離脱、オールスター・レスリング(ASW)を旗揚げした。ガービンはそのままベルトを持ち出し、フラーはやむを得ず、再度スミルノフを認定した。

ループらは、当初ディック・スレーターも加わるはずだったが土壇場でSECWへの残留を決めたと主張。後にスレーターは、「最初にその話が挙がった春の時点では、自分は日本遠征中で詳細を把握しておらず、同意はしていなかった。」と答えた (事実、3月から4月にかけて全日本プロレスのチャンピオン・カーニバルに出場)。

そのスレーターは、同じく1979年6月、スミルノフからNWA南東部王座を奪取するが、12月1日、地区南部からメンフィスジョージア地区へ転戦し、再び戻ってきたテリー・ボールダー改めスターリング・ゴールデンに王座を奪われる。同月25日、ゴールデンはボブ・アームストロングに敗れ王座から転落すると、北東部WWFに転戦、ハルク・ホーガンの名でで活躍する。

一方、反抗勢力のASWでは、1980年1月、トニー・ピーターズがロニー・ガービンから南東部王座を奪取。そしてASWはノックスビルの地方紙上で、「『本物のベルト』を持ったピーターズと『レプリカベルト保持者』のボブ・アームストロングが『もし会場に現れたら』王座統一戦開催」と宣伝するという、強引な行動に出た。ASWは間もなく、ケンタッキー州レキシントンを拠点としたアンジェロ・ポッフォ率いるインターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング(ICW)と提携、ポッフォの息子達のラニーやランディ・サベージらがノックスビルでも活躍することになるが、この興行戦争がファン達の間にも分裂や不信をもたらし、同地区のプロレスを低迷させる原因となった。

ノックスビルに見切りをつけたロン・フラーは1980年、ジョージア地区のジム・バーネットにテネシー州東部の興行を任せ、アラバマ州の最大都市バーミンガムに拠点を移した。バーミンガムは長年ニック・グラスのナッシュビル地区の一部だったが、1977年のジェリー・ジャレットとの興行戦争による弱小化のため1979年に撤退していた。これにより、アラバマ州全域がSECW傘下になった。南東部選手権も、北部と南部に分かれていたものがそれぞれ一本に統一される。

一方、バーネットは1980年、ミッドアトランティック地区ジム・クロケット・ジュニアにノックスビルの興行権を売却し、翌1981年にはクロケットの協力により、ブラックジャック・マリガンとリック・フレアーがサザン・チャンピオンシップ・レスリングを旗揚げするが、1年程度で閉鎖。

尚、SECWは、ジュニアヘビー級にも力をいれており、1970年代後半には世界王者ネルソン・ロイヤルが何度か招かれ王座を防衛した。1979年5月にはUS王座も新設され、以後、トニー・チャールスやジェリー・スタッブス、ボブ・アームストロングの息子ブラッド、ケン・ルーカスらが同王座を保持し、世界王者レス・ソントンに挑戦。1981年1月にはスタッブスがソントンを破り、10日という短期間ながらも世界王者に君臨した。

タッグ戦線では1980年11月、既に同地区で活躍していたデニス・コンドレーが新パートナー、ランディ・ローズと南東部王座を奪取。その後2人はミッドナイト・エキスプレスのチーム名で、アームストロング親子らと抗争を展開する。

1983年にはWWFの全米侵攻が始まり、翌1984年にはついにバーミンガムにも進出。SECWはそれに対抗するという意味もあってか、地域色の強い南東部王座に加え、コンチネンタル・ヘビー級王座を同地区の新しい主要王座として新設。決定戦ではロン・フラーがマイケル・ヘイズを破り、プロモーター自ら初代王者となった。1985年5月には団体名もSECWからコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリング(CCW)に変わり、1986年には南東部タッグ王座もコンチネンタル王座に改称された。同時に、古巣のノックスビルでも興行を再開。

だが、1985年には、ジム・クロケット・ジュニアがNWA世界ヘビー級王座を独占し始め、南東部地区で世界王者リック・フレアーが王座を防衛する回数も減っていく。CCWは1987年5月、ついにNWAを脱退し、以後AWA王座を同団体の世界ヘビー級王座として認定することを発表した。

1988年には、ノックスビルのテレビ局WCOVのオーナー、デビッド・ウッズが、CCWをロン・フラーから買収、1940年代からテネシー州およびアラバマ州で続いてきたウェルチ一族のプロレス興業に終止符を打つ。団体名もコンチネンタル・レスリング・フェデレーション(CWF)に変えるが、米プロレス界の地域制度がほぼ崩壊していた中、翌1989年末には閉鎖した。

1992年にはジム・コーネットがノックスビルでスモーキーマウンテン・レスリングを旗揚げ。3年ほどしか続かなかったが、1970年代に同地区で悪役の筆頭だったロン・ライトをマネージャーに起用したり、ヘビー級タッグの他にもUSジュニアヘビー級王座を認定したり、かつての地域制時代の雰囲気を出しながらも、WCWやWWFと提携することによって、PPVなどで全米にもその名を知られる団体となった。

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