1920年1月時点での選手権保持者:
世界ミドル級王者ペット・ブラウンを中心とした軽量級選手達の活躍により盛況を見せ始めたテキサスのプロレス界。1919年から1920年にかけてダラスで興行していたのは、選手としても活動していたサイ・ミッチェルだが、翌1921年になると、カンザスを拠点とした選手ドク・オーンスタッドがプロモーターになり、3月には世界ヘビー級王者エド・ストラングラー・ルイスを招き、ダラスやフォートワースで防衛戦を開催。
同じく1921年3月には、1910年代以来のプロモーターで消防士のチャーリー・ジョーンズにより世界ウェルター級王者マティ・マツダが招かれ、チャーリー・レントロップを破り王座を防衛。
だがジョーンズは1923年6月30日、ダラスの自動車部品工場に火災が発生した際、消火作業に加わり負傷し、しばらく入院後、8月18日に47歳で息を引き取った。
その約2ヶ月前の5月5日、1914年に世界ミドル王座に君臨して以来、同州マット界の第一人者として活躍してきたペット・ブラウンが30代半ばという若さで射殺される。
1910年代以来、ダラスのプロレス界に大きく貢献した2人の人物が他界した1923年だったが、翌1924年には、新たな時代の兆しが見えてくることになる。
元テキサス州ウェルター級王者ジャック・フォックスが、同じくウェルター級の選手でUSコーヒー&ティー社に勤務していたバート・ウィロビーと共にダラス地区での興行を手掛けるようになるが、2人は初の専用会場『フォックス・ウィロビー・アスレチック・アリーナ』を共同経営し、同地のプロレスの拠点とした。オープンエアで、『レスリング・パビリオン』とも呼ばれた同会場は、後にスポータトリアムが建てられた場所からトリニティ川を越えた辺りに所在していたと思われる。


1924年当時、フォックスとウィロビーの下で主力の1人として活躍していたのは南部ライトヘビー級王者アーネスト・グローバーだ。10月には世界王者クラレンス・エクランドにも挑戦した。
翌1925年5月には、スタンリー・ロジャースがグローバーを破り南部王座を奪取するが、何故か12月の時点では南西部王者として紹介されるようになり、同じ頃南部王者に認定されていたのは、後の世界王者ヒュー・ニコルスだった。

同じく1925年には、『ライオット・スクワッド』と呼ばれたデュセック4兄弟の1人で、翌年から数年間南部王座に君臨するルディ・デュセック、後の世界王者ジム・ブラウニング、ミロ・スタインボーンら、未来のヘビー級の大物達がダラス地区に参戦。デュセックは2月11日、ジョージ・アクターを破り89戦目の勝利、そして4月10日にはジョージ・ヒルズを破り100連勝を達成したと主張。
同年9月にはマティ・マツダ、 11月にはエド・ストラングラー・ルイスが再び参戦、世界ウェルター級王座と世界ヘビー級王座をそれぞれ防衛。ルイスは通常のパビリオンではなく、特別会場のダラス市役所講堂でジャック・ローランドを破った。
フォックスとウィロビーの活躍により、多くの強豪達が続々とダラス地区に集結し、これを機に1990年代までの殆どの期間、プロレスが本格的に定着することになる。
1924年12月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: エド・ストラングラー・ルイス
- 世界ライトヘビー級: クラレンス・エクランド
- 世界ウェルター級: マティ・マツダ
- 南部ライトヘビー級: アーネスト・グローバー
- 州ライトヘビー級: ビル・デメトラル?
- 州ミドル級: カリル・パシャ
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Dallas Morning News
- Dallas Gateway
- Dallas Fire-Rescue Department
- Texas Co-Op Power