その興行としての在り方が理由からか、これまでプロレスには『世界ヘビー級王座』と呼ばれる選手権が、無数に存在してきた。大きければ、WWEのように世界中をツアーするものから、小さいのは、数十人しかいない観客の前で試合をする小規模なものまで、その団体が認定さえすれば、誰でも『世界王者』になれるのがプロレスだ。
その分、プロレスにおいて何を以って実質的な『世界王座』とするかは定義付けをするのが難しい。「いくら同じ1つの会社内のこととはいえ、WWEは世界中で選手権試合が行われている」という意見もあれば、「数ヶ国において複数の団体で防衛戦が行われていないと世界王座とは呼べない」という声もある。
そういった色々な意見をまとめて、名称に『世界』という言葉が含まれ、業界の主要王座の1つとして、色々な国々の多くの団体て防衛されてきたという面では、やはり1980年代前半までのNWA世界ヘビー級王座が、現時点ではプロレス界で最後の実質的な世界王座だったのかもしれない。
それでは、同じような意味で、最初の世界ヘビー級王者は誰だったのか。
あくまで個人的な意見だが、やはりゲオルグ・ハッケンシュミットではないだろうか。「なんだ、結局そうか。」と思われるだろうが、ここで改めて検証してみたい。
もちろん、ハッケンシュミット以前にも、カラー・アンド・エルボーやグレコローマンのように、『世界』と呼ばれたプロレスの選手権はいくつもあったが、いずれも現在は採用されていない特定の試合形式のものだ。
現代のプロレスの主な源流だと言われるキャッチ・アズ・キャッチ・キャンにおいても、19世紀後半、既に世界選手権が存在した。だが、以前も書いたとおり、その殆どが、米国か英国、あるいはその2か国間のみで王座が争われていたので、『世界』とは言えないのではないだろうか。
一方、ハッケンシュミットは、ヨーロッパの各国とオーストラリア、米国において世界王者として活躍していた。現在判明しているだけで、以下のように各地のヘビー級グレコローマン式トーナメントを総なめにしているが、この中で、少なくとも1901年5月5日のウィーン、12月19日のパリで行われたのは世界選手権と銘打って開催されたものだ。
- 1900/07/?? サンクトペテルブルク (ロシア)
- 1900/09/16 ドレスデン (ドイツ)
- 1900/09/25 ケムニッツ (ドイツ)
- 1900/10/17 ブダペスト (ハンガリー)
- 1900/10/24 グラーツ (オーストリア)
- 1900/10/31 ニュルンベルク (ドイツ)
- 1901/04/05 サンクトペテルブルク (ロシア)
- 1901/05/05 ウィーン (オーストリア) – 世界選手権
- 1901/05/12 シュチェチン (ポーランド)
- 1901/07/03 ベルリン (ドイツ)
- 1901/10/27 ミュンヘン (ドイツ)
- 1901/11/15 エルバーフェルト (ドイツ)
- 1901/12/19 パリ (フランス) – 世界選手権
- 1902/07/06 ブリュッセル (ベルギー)
- 1902/07/15 アントワープ (ベルギー)
そして1902年9月にはリバプールでトム・キャノンを破りイギリスで認定されていた世界グレコローマン王座を奪取。10月になると米国においても、ヨーロッパ全体で王者となったハッケンシュミットに関する報道も増え、来米の期待が高まるようになる。
1904年2月、米国で世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者として認定され、同形式では第一人者として君臨していたトム・ジェンキンズは、グレコローマン式とはいえ、同じく世界王座を主張するハッケンシュミットにキャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンの混合試合での挑戦を表明。ジェンキンズは1月、ワシントン州ベリンガムでフランク・ゴッチに敗れ米国王座を失っていたが、1本目をゴッチに取られた後、2本目が乱闘のため無効となったことによる敗戦を不服として、引き続き世界王者を主張していた。翌3月ヨーロッパに向けて旅立ったが、「多忙のため、9月まで試合は出来ない」、「あくまでグレコローマン式でないと世界選手権試合はしない」など、色々な理由により待たされ、試合にこじつけることができたのは、渡欧して約3ヶ月後だった。
1904年7月2日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われたハッケンシュミットとジェンキンズの試合は、結局グレコローマン式でしか王座をかけないという要望を押し通したハッケンシュミットが当然のごとく2本ストレート勝ちを収めた。

その後ハッケンシュミットは、1904年12月から1905年2月にかけて、オーストラリアでグレコローマンだけではなくキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合もこなし、米国に向かって旅立った。
その間、ジェンキンズはゴッチと再戦。1905年2月2日、オハイオ州クリーブランドで行われた試合は、1本目をジェンキンズが取ったものの、2、3本目とゴッチが勝利。結果、4月来米予定だったハッケンシュミットとゴッチの間での世界戦の機運が高まってきた。
だが3月15日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ジェンキンズが再びゴッチに挑戦、1本目と3本目を取り、6千人の観衆が見守る中、見事王座を奪回。
ハッケンシュミットは予定よりやや早く、3月27日にサンフランシスコに到着。そして5月4日、ヨーロッパだけではなくオーストラリアでもグレコローマンの世界王者としてその名を不動のものにしていたハッケンシュミットと、ゴッチを破り再び米国にてキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの王座に君臨していたジェンキンズによる決戦の日がやってきた。場所はマディソン・スクエア・ガーデン、それも今回はキャッチ・アズ・キャッチ・キャン式だ。
結果は、1本目を31分15秒、2本目を22分4秒でそれぞれハッケンシュミットがジェンキンズをハーフネルソンでフォールし、ストレート勝ちを収め、統一世界ヘビー級王座に輝いた。

以後ハッケンシュミットは、1908年4月3日、シカゴでゴッチに敗れるまでプロレス界の頂点に君臨する。あのセオドア・ルーズベルトに、「もし米国大統領じゃなかったら、ハッケンシュミットになりたかった。」とまで言わしめるほどの存在になった。
ゴッチは1914年、王者のまま引退したが、その後は案の定、複数の選手達が世界王座を主張し始めた。1920年代には、独自で選手権を認定する団体が設立され始め、世界王座も乱立した。1935年6月、ダノ・オマホニーがNWA(アソシエーション)、ニューヨーク体育協会、そしてAWA(ボストン)の3世界王座を統一したが、それも長続きせず、再び王座乱立時代が続いた。1948年7月にNWA(アライアンス)が発足し、ルー・テーズが1950年代前半に殆どの世界王座を統一するまで、実質的な世界ヘビー級王者は現れなかった。
尚、サム・マソニックが会長だった時代にNWAが発表した、結構出鱈目な『公式』世界ヘビー級選手権変遷史では、ゴッチがハッケンシュミットを破って初代王者になったとある。あくまで自分の推測だが、アメリカ人の気質からして、冷戦真只中、ロシア人のハッケンシュミットがアメリカ人のジェンキンズを破って世界王者になったなどとは認めたくなかったのかもしれない。
[2024年2月6日追記] 更に調べたところ、思っていた以上に複雑だったので、NWAによる旧『公式』記録については改めて書くつもり。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Inter Ocean (シカゴ地方紙)
- The Age (メルボルン地方紙)
- Illustrated Sporting and Dramatic News (ロンドン地方紙)
- The Squared Circle: Life, Death, and Professional Wrestling
