NWA世界ジュニアヘビー級選手権

近代王座起源シリーズ(4)

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プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。

複雑な歴史や疑惑で知られるNWA世界ジュニアヘビー級王座も、かつては米国各地で防衛され、少なくとも1950年から1970年代前半までは、そのNWAという名に恥じることなく『ジュニアヘビー級の最高峰』といっても過言ではない時代があった。

以前NWAが『公式』なものとして発表していた王座変遷史では、初代王者は1936年4月、ハリウッドで行われたトーナメントに優勝したアルビン・ブリットとなっていた。アソシエーションとアライアンスの歴史が繋げられており、初期のアライアンスのものが省かれているからだ。ブリットが奪取したアソシエーション王座は、約3年後の1939年6月、レロイ・マクガークの手に渡ることになる。

1936年4月20日 カリフォルニア州ハリウッド
NWA(アソシエーション)世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメント

アイオワ州デモインのプロモーターだったピンキー・ジョージは、NWA(アライアンス)発足以前から、『ナショナル・レスリング・アライアンス』の名を使い、世界ヘビー級王者にオービル・ブラウン、世界ジュニアヘビー級王者にビリー・ゲルズを認定していた。1948年7月、ジョージが正式に中西部地区の他のプロモーター達と共にNWA(アライアンス)を発足した際も、ブラウンとゲルズがそれぞれ初代王者に認定された。後にNWAが発表したヘビー級王座変遷史にブラウンの名が載っていなかったのと同じく、ゲルズもまたジュニアヘビー級の『公式記録』からは名前が外されているが、NWA本部から同王座の管理を任されていたのが、1939年以降長年アソシエーション王座を保持していたマクガークだったというのが大きな理由の1つかと思われる。

ビリー・ゲルズ

ゲルズが保持していたアイオワ版世界ジュニアヘビー級王座は、その歴史を1942年夏まで遡ることができる。

1920年代末、ウェルター級選手『スウェード・カーリン』ことジョニー・カーリンは、スウェーデン出身ということから同国ライトヘビー級王者を名乗り始めた。米国を中心に活動していた選手なので、当然のことながら国内のどこかの団体が正式に認定していたわけではないが、10年以上経った1940年に入ってもまだ同王座を主張しており、『スウェーデン王者』というのがカーリンの代名詞になっていた。

ジョニー・カーリン

だが、1942年8月、ピンキー・ジョージの本拠地アイオワ州デモインで、カーリンはNWA(アソシエーション)認定世界ライトヘビー級王者として紹介される。実際には、この時点でのアソシエーション王者はレッド・ベリーだったが、『ナショナル・レスリング・アソシエーション』の名は、各地で乱用されており、カーリンの王座も例外ではなかった。他の例の1つとして、テキサス州では1935年、ラルフ・ハモンドがアソシエーション世界ジュニアヘビー級王者として認定されていたが、前述のとおり翌1936年、アルビン・ブリットが正式に認定されてからも、ハモンドは引き続きテキサスで王座を防衛し、1937年春テネシー州ノックスビルに転戦してからも王者として認定されていた。つまりハモンドが、アソシエーションではあるが、最初に『NWA』と名のついた世界ジュニアヘビー級王座を主張した選手だった。

一方カーリンは1942年8月26日、デモインでケン・フェネロンに敗れ『NWA』(アソシエーション)世界ライトヘビー級王座から転落。翌1943年5月、ピンキー・ジョージは、カンザス州ウィチタにおいてナショナル・レスリング・アライアンス世界ヘビー級王者として認定されていたエデ・ヴィラグをアイオワに招き、この頃から自身の地区においてもNWA(アライアンス)の名称を使い始める。フェネロンの王座も、5月17日の時点ではNWA(アソシエーション)世界ライトヘビー級王座だったが、翌週24日になると、NWA(アライアンス)世界ジュニアヘビー級王座になっていた。

ケン・フェネロン

そのアイオワ版王座は、フェネロンとマーシャル・エステップ、ラリー・ティルマン(数年後アルバータ州カルガリーのプロモーターになるが、1952年に興行権を同州エドモントンのスチュ・ハートに売却)、レイ・スティールの間で何度か移動するが、1947年10月、ビリー・ゲルズがエステップから奪取。翌1948年7月、NWA(アライアンス)が正式に発足した際、ゲルズも初代王者として認定される。

だが、翌1949年の総会においてNWAは、ゲルズではなく、1939年以来アソシエーション王座を保持し続けていたレロイ・マクガークを認定することに決定。ゲルズは引き続きアイオワだけではなく周辺のウィスコンシンやイリノイといった中西部地区で王座を防衛し続けるが、最終的には1949年12月、ピンキー・ジョージ初代NWA会長が主催したデモインでの統一戦でマクガークに敗れる。

1949年12月28日 アイオワ州デモイン大会
アソシエーション王者レロイ・マクガークとアライアンス王者ビリー・ゲルズの間で行われた王座統一戦

以降、NWA(アライアンス)世界ジュニアヘビー級王座のベルトには、1936年ハリウッドでのトーナメントに優勝したアルビン・ブリットに授与されたアソシエーション王座のものが流用され、バーン・ガニアやダニー・ホッジも同ベルトを巻いて各地で防衛した。

尚、NWA世界ヘビー級王座同様、ジュニアヘビー級王座についても、『第○○代』という数え方は、少なくとも自分は意味がないと思っている。ゲルズを初代王者として数えていけばいいという意見もあるかもしれないが、まだ発見されていない王座移動が多く残っている可能性があるからだ。例えば、昨年(2018年)自分は、1966年11月にアサシン1号(トム・レネスト)がオクラホマシティでホッジを破り王座を奪取、翌月タルサでホッジに敗れ奪回されるまで保持したということを初めて知った。他の誰かが既に見つけていた情報だという可能性も十分あるが、幾つかの有名サイトを調べたところ、それに関する記述は見当たらない。こういった場合、過去の日本のメディアなどでは、「NWAの公式記録に載っていない」という表現ができただろうが、実際に王座を管理していたマクガークによる興行での王座移動なので、それ以上の『公式』はありえないのではないだろうか。もし他にもマクガーク主催の王座移動があるとすると、尚更数字を付けていくのは無理があるような気がする。

NWA世界ジュニアヘビー級王座は、1988年にジム・クロケット・プロモーションがテッド・ターナーに買収されWCWになった頃に一度消滅した後、1995年に日本のレッスル夢ファクトリーで復活、途中新日本プロレスで開催されたJ-CROWNトーナメントで統一されたこともあったが、2017年にブルース・サープからビリー・コーガンがNWAを買収するまで続いた。現在は封印状態だが、世界女子王座ナショナル王座同様、今後のNWAの流れによっては復活することもあるかもしれない。

 

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