WWA世界ヘビー級選手権 (ロサンゼルス版)

近代王座起源シリーズ(8)

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プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。

1950年代初期、全米第二の都市ロサンゼルスにおいてNWAの会員として同地区を仕切っていたのは、オリンピック・オーディトリアムで興行していたジョニー・ドイルと、ハリウッドのヒュー・ニコルズだった。元々はライバル関係にあった2人だが、NWA加盟後間もなく共同体制へと移行。1950年代中期になると、ドイルは興行権をニコルスとカル・イートンに売却。だが1956年11月、年会費の未支払い、それに関する本部からの連絡に返事がないことを理由に、イートンはNWAから除名され、更には12月ニコルスが自殺。同地区において、しばらく世界ヘビー級王者不在の時間が続いた。

魔術師の残骸』でも書いたが、ロサンゼルス地区では、1957年にシカゴでルー・テーズを破り、一時的だったがNWA世界ヘビー級王者に認定されていたエドワード・カーペンティア(実際には英語でもフランス語の『カルペンティエル』に近い発音)を、1959年10月から正式に世界王者に認定。ノース・アメリカン・レスリング・アライアンス(NAWA)認定世界王者として、カーペンティアはロサンゼルス地区だけではなく、1960年になると州北部サンフランシスコ地区でもNAWA王座を防衛した。

ちなみに、1956年11月のNWA除名以降から1959年10月まで、ロサンゼルス地区で主要王座だったのは、同地区認定テレビ選手権、そして大半の時期においてビリー・バルガが保持していたアメリカン・ヘビー級選手権だったが、ルー・テーズもインターナショナル・ヘビー級王座を、1958年から1960年にかけて少なくとも10回は防衛している。

WWAのロゴは、NWAのロゴの文字だけ変えたという、現在では考えられない様なものだった。

1961年になると、NAWAはWWAに改称。長年『ワールド・レスリング・アソシエーション』だと言われてきたが、実際にはロゴにも書いてあるとおり、『ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ』の略だ。ロサンゼルスではWWAの名称が定着したが、郊外では場所によって名称が違い、サンバーナディノでは1964年までNAWAのままだった。

カーペンティアは1961年6月、フレッド・ブラッシーに敗れ、王座から転落。以後ブラッシーは、合計4度WWA世界ヘビー級王座を保持することになる。

1961年6月12日 オリンピック・オーディトリアム
WWA世界ヘビー級選手権: エドワード・カーペンティア (初代王者) vs フレッド・ブラッシー (挑戦者)

1962年3月、オリンピック・オーディトリアムに集まった9,200人の観客の前で、力道山がブラッシーに挑戦。1本目をリングアウト勝ちした後、夜間外出禁止令(curfew)による時間切れ。レフリーを務めたレッドシューズ・ドゥーガンは王座移動を宣言し力道山にベルトを渡すが、これにブラッシーが激怒し、ドゥーガンのシャツを破るという行為に出た。ブラッシーは、力道山によってベルトを日本に持ち去られただけではなく、レフリーに対する暴行を理由に、カリフォルニア州体育協会から60日間の出場停止と$500の罰金を命じられる羽目になった。

プロレス界でいう『出場停止処分』というのは、実際にはその選手が期間中他地区で試合する場合が多く、これもまた例外ではなく、ブラッシーは日本プロレスの『第4回ワールドリーグ戦』に参加、4月23日には東京でのWWA選手権試合で力道山に2本取られている。

1962年3月28日 オリンピック・オーディトリアム
WWA世界ヘビー級選手権: フレッド・ブラッシー (王者) vs 力道山 (挑戦者)
※ 現地での放送。力道山は『オール・アジアン王者』として紹介されている。

だがブラッシーは、ロサンゼルス地区復帰後間もなく、3本勝負であるにも関わらず1本のみの勝利で王座が移動したことを抗議。それを受けた『NAWA』は、6月4日でブラッシーを王者に認定してしまう。

翌7月には日本で力道山が同地区に世界王座主張者として参戦。25日、オリンピック・オーディトリアムで行われた再戦では、力道山が目から流血し、レフリーが試合続行不可能と判断するという不明慮な結果により、ブラッシーが王座を『統一』。その後、同王座はNWA、AWAWWWFと併せて全米4大王座の1つとして、ザ・デストロイヤー、ペドロ・モラレス、バディ・オースティンらが保持。

1968年1月、ボボ・ブラジルがオースティンを破り2度目の栄冠。だが、10月1日、WWAはNWAに加盟。3日後の10月4日、ブラジルはアメリカス・ヘビー級王座を奪取するが、NWA世界王座挑戦のため、12月11日付でWWA王座を封印、その10年の歴史に幕を閉じた。尚、WWA世界タッグ王座アメリカス王座に改称したのは事実だが、アメリカス・ヘビー級王座が同地区に登場したのは1967年5月のこと。つまり、WWA世界ヘビー級王座がアメリカス王座になったと言われることが多いが、実際には両王座は1年以上同時に存在していた。

1968年12月18日、一部の新聞で『NWAとWWAの王座統一戦』と報道されたブラジルとNWA王者ジン・キニスキーの一戦には、10,127人がオリンピック・オーディトリアムに集まったが、両者が1本ずつ取った後、時間切れ引き分けに終わった。以後、ロサンゼルス地区では1982年末の閉鎖までアメリカス・ヘビー級選手権が主要王座となり、短期間ながら日本のグレート小鹿やグラン浜田、キッド・コビー(小林邦昭)らも保持した。

 

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