全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。
1948年7月、ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が結成され、8月25日には初代NWA世界王者オービル・ブラウンがコロンバスでラフィー・シルバ―スタインを破り防衛。アル・ハフトも発足2ヶ月後の9月25日に正式加盟。本来NWAでは、同団体の認定する選手権のみを世界王座として認定することを会員に求められていたが、副会長であるにも関わらず、ハフトは自らが運営するミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)の世界王座に加えマサチューセッツ州ボストンを拠点とするアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)の世界王座も認定し続けた。1949年にジョン・ペゼックがMWA王座を返上し、1950年5月にドン・イーグルがフランク・セクストンからAWA王座を奪取すると、MWAもイーグルを認定した。
1952年5月、ペンシルバニア州ピッツバーグでビル・ミラーがイーグルを破る。この頃NWAは、独自でヘビー級やジュニアヘビー級の世界選手権を認定していた加盟プロモーター達にNWAの選手権のみを認定するよう最終通告を出し、コロンバスではMWA世界王座が封印された。10月にバディ・ロジャースがAWA(アソシエーション)世界王者になると、一度はコロンバスでも王者として紹介されたが、間もなくロジャースは東部王者に認定され、以後同選手権が現地の主要ヘビー級王座となる。ロジャースはクリーブランドで引き続きAWA世界王座を防衛、1953年3月5日にアントニーノ・ロッカに王座を奪われるが4月9日に奪回。5月18日にはラフィー・シルバ―スタインの挑戦を拒否したため剥奪される。21日に王座決定トーナメントが予定されたが、同地の体育協会が無料券を配り過ぎて十分な収益が見込めないことを理由に秋までの大会が全て中止になり、同王座も自然消滅。
AWA王座は剥奪されたが、東部王者にも認定されたロジャースは、オハイオ州のみならず、近隣のペンシルバニア州西部やウェストバージニア州、そしてハフトが選手を派遣していたメリーランド州ボルティモア、更にはフロリダ州などの広域で防衛しながら人気を得た。
だが1960年4月、ロジャースはコネチカット州ブリッジポートに、突如USヘビー級王者として登場。ワシントンDCから北東部の大部分を牛耳るキャピタル・レスリング(CWC)がロジャースをハフトから引き抜いたのだ。結果、自らが人気の火付け役だったはずのロジャースに去られたハフトは、ロジャースに恨みを抱くことになる。以後キャピタルのビンス・マクマホンや協力関係にあるイリノイ州シカゴのフレッド・コーラーらはロジャースの更なる売り出しに大成功を収め、1961年6月、ロジャースはシカゴでパット・オコーナーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取。『飼い慣らされた野生児』にも書いたが、同王座はマクマホンやコーラーがほぼ独占することになり、NWA会員でありながらも世界ヘビー級選手権試合を組めなかったプロモーター達は、独自に世界王座を認定するか、カリフォルニア州ロサンゼルスのワールドワイド・レスリング・アソシエーツ(WWA)やミネソタ州ミネアポリスのアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)の世界王者を招かざるを得なかった。

人気は群を抜いていたが、実力はルー・テーズやパット・オコーナーといったそれまでのNWA世界王者達には全くおよばず、ビンス・マクマホンも『ポリスマン』としてフレッド・アトキンスを同行させていた。
オハイオ州のMWAは、ロジャースの離脱、更にはMWAの人気を脅かすNWA外の対抗勢力が出現したことにより、1962年に入ったころにはその勢いも失いつつあった。ハフトはマクマホンと提携しCWCから選手を派遣。ロジャースや、相変わらず全米規模での人気を誇っていたアントニーノ・ロッカもオハイオ州に登場し、ハフトはロジャースに恨みを抱き続けながらもNWA世界王座防衛戦を開催する。
だがマクマホンとの関係も長続きはせず、それに追い打ちをかけるように、かつてハフトの秘蔵っ子だったカール・ゴッチとビル・ミラーが敵対勢力の拡大に参加し、ハフトはシンシナティやデイトンから撤退。更には1962年夏、ついに敵団体はコロンバスにも進出してきた。ハフトは再びマクマホンに協力を依頼し、NWA世界王者ロジャースの人気に頼る結果となる。
そしてその夏、ハフトとロジャースの関係にとどめを刺す事件が起きてしまう。
8月31日コロンバスの試合会場の控室でロジャースがハフトと打ち合わせをしていたところ、敵団体に参戦中だったはずのカール・ゴッチとビル・ミラーが入ってきて、ロジャースに暴行を加えたという、プロレスファンの間では有名な話だ。ロジャースは左腕骨折を主張し、当日予定されていたジョニー・バレンドとの防衛戦を含め3週間以上欠場。その結果ハフトは当日の収益金の8千ドルのうち2千5百ドルを払い戻したという。ちなみに当日ロジャースの代打でバレンドと対戦したのは米国修行中の馬場正平だった。以降ロジャースはオハイオ州の中でもトレドやアクロンなど北部の地域では王座を防衛し続けたが、古巣のコロンバスで試合をすることはなかった。
その敵団体とは、かつてロサンゼルス地区のプロモーターだったジョニー・ドイルと、シカゴでフレッド・コーラーの片腕的存在だったジム・バーネットによるものだ。詳しくは『NWA・USヘビー級選手権 (中)』に書いているが、ドイルとバーネットは1959年に結託し、シンシナティやミシガン州デトロイトを中心に、クリーブランドやインディアナ州インディアナポリス、コロラド州デンバー、更にはカリフォルニア州サンフランシスコにまでNWA外の勢力を広げていった。2人は傘下に収めていた全地区ではないにしろ、オハイオ州やインディアナ州など一部地域ではアメリカン・レスリング・アライアンス(AWA)という名称を使っていた。同じイニシャルだがミネソタ州ミネアポリスを本拠としたバーン・ガニアのアメリカン・レスリング・アソシエーションとは別団体。
1962年になるとAWA(アライアンス)は、「3月4日にデンバーで行われた王座決定トーナメントの決勝でキラー・コワルスキーを破った。」としてドン・レオ・ジョナサンを世界王者に認定した(当日デンバーでドイルとバーネットによる大会があったのは事実だが、実際にはトーナメントが開催されていないどころか、ジョナサンは出場さえしていない)。ジョナサンは3月15日、世界王者としてクリーブランドに初登場。AWAは7月7日にコロンバスにも進出し、NWA系であるハフトのMWAとの興行戦争が始まるが、ミラーやゴッチなどMWAの人気だった選手達がAWAに参戦していたことから、新聞上の宣伝や記事ではAWAが圧倒的に上回っており、ハフトが毎週土曜の定期興行を水曜に移さなければならないこともあった。8月11日にはコロンバスでジョナサンがカール・ゴッチを相手に引き分け防衛。
9月11日、AWAはコロンバスでチャリティー興行を開催。メインイベントではAWA世界王者ジョナサンとゴッチの再戦が組まれ、ゴッチが勝利し王座を奪取した。同月8日に興行を予定していたハフトは、「チャリティに敬意を示したい」という名目でMWAの大会を中止したが、ロジャースの『負傷欠場』やマクマホンとの破局などにより収益につながるほどの集客を見込めなかったことが原因かと思われる。
だが9月後半になると、興行戦争において圧勝していたはずのバーネットとドイルはコロンバスから撤退する。28日のハフトによる興行にはAWAとMWAの両方の選手達が出場、メインイベントではゴッチがジョナサンを破りAWA世界王座を防衛した。NWA世界王者バディ・ロジャースがコロンバスでの試合を拒否していたこともあって、以後同地ではAWA世界王座が主要王座として認定される。
1963年1月、カナダのオンタリオ州トロントでロジャースがルー・テーズに敗れ王座転落。NWAに加盟していながらもロジャースを招けず独自で世界王者を認定していた各地区では、現地の世界王者とテーズとの王座統一戦が開催される。コロンバスでも1964年9月7日、テーズがゴッチに勝利。翌年1度だけゴッチが再度AWA世界王者として紹介されたことがあったが、実質的にはテーズとの試合後AWA王座は消滅している。

AWA世界王座のベルトは、1960年頃からオハイオ州王座として登場、その後AWA王座に流用された。1972年に旗揚げ間もない新日本プロレスで『真の世界ヘビー級選手権』として使われ(実際にはレプリカだったそうだが…)、同年10月には短期間ながらアントニオ猪木も保持。1987年3月、実況引退セレモニーで古舘伊知郎に贈呈されている。
一方クリーブランドでは、1962年からニューヨークのビンス・マクマホンの協力により興行していたラリー・アトキンスが、翌1963年1月にロジャースがNWA王座から転落するとワールドワイド・レスリング・アソシエーション(WWWA)の名で引き続きロジャースを世界王者に認定。ニューヨークでブルーノ・サンマルティノがロジャースを破りワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)世界王座を奪取したのは5月17日だったが、それより約1ヶ月半前にクリーブランドではドリー・ディクソンがロジャースからWWWA世界王座を奪取していた。当時の米国では夏の間に興行を休むという地区も珍しくなく、クリーブランドもその1つだったが、5月2日にカール・フォン・ヘスがディクソンを破ったにも関わらず、11月の新シーズン開始の際には、いつの間にかヘスではなくサンマルティノがWWWA世界王者に認定されていた。サンマルティノはその後クリーブランドでもWWWF世界王者として認定されたが、アトキンスの興行は1964年春までしか続かなかった。
1966年8月、アル・ハフトは、少なくとも表面上では息子のアル・ジュニアにコロンバスでの興行権を譲るが半年しか続かず、1967年2月には、1928年12月から40年近く続いたハフトの興行に終止符が打たれる。以後ミシガン州デトロイトを拠点とするNWA会員のエド・ファーハット(ザ・シーク)が同地に進出。コロンバスでは、1969年にバディ・ロジャースのマネージャーだったボビー・デービスやマーク・ルーインらがレスリング・ショー・クラシックス(WSC)なる団体が突如現れ、シークのNWA系によるテレビ放送枠を乗っ取り、更にはペンシルバニア州フィラデルフィアやニュージャージー州まで進出するほどの勢いがあったが、1年もせず閉鎖(後半はジョニー・バレンドを世界王者に認定)。他にも小規模な独立団体は幾つか存在したが、シークもトレドやシンシナティでは1980年まで興行を続けていた。
クリーブランドでは、1958年から1962年頃まで興行していたペドロ・マルティネスが1968年にジョニー・パワーズと共に復帰。パワーズを北米ヘビー級王者に認定し、同地でのプロレスの復興を目指し、1970年にナショナル・レスリング・フェデレーション(NWF)を発足。初代世界王者には、「ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーを破り王座を奪取した」としてパワーズを認定。その後NWF世界王座はワルドー・フォン・エリックやジョニー・バレンタイン、アーニー・ラッド、そして若き日のアブドーラ・ザ・ブッチャーが奪取。
だが1972年12月7日、クリーブランドで行われたジョニー・バレンタインにジョニー・パワーズが挑戦した試合が、反則負けなしのルールであるにも関わらずバレンタインがリングアウト負けするという不明慮な結果に終わり、王座は預かり。その後ギャラに関して団体側ともめたバレンタインから王座は剥奪され、1973年1月24日、ニューヨーク州バッファローで開催された王座決定トーナメントに優勝したジャック・ルージョーが王者に認定される。だが、それ以降ルージョーが王座を防衛したという記録は今のところ見つかっていない。同年5月から6月にかけて、なぜかバレンタインが再びクリーブランドに王者として登場するが、その年の大半においてNWF世界ヘビー級王座の存在は消えかけており、次に同王座が現れるのはジョニー・パワーズが10月に来日した際だ。
同年12月に東京でアントニオ猪木がパワーズから王座を奪取し、一時は米国のマニア向け雑誌『Wrestling Revue』などで、NWA、AWA、WWWFと並び世界四大王座として取り挙げられることもあったが、1974年にNWFは閉鎖。翌1975年パワーズとマルティネスは、後にシカゴ・ホワイト・ソックスのオーナーになるエディ・アインホーンと共にインターナショナル・レスリング・アソシエーション(IWA)を発足。NWFの後継団体的存在だったIWAの本拠地はクリーブランドとされていたようだが、オハイオ州での試合はほぼ無で、試合の大半はノースキャロライナ州を中心に(プロレス界における)ミッドアトランティック地区やジョージア州で行われた。また1976年8月には新日本プロレスのNWA加盟により、NWF王座から『世界』の二文字が外されることとなる。結局、NWF王座がオハイオ州を拠点とする団体による最後の主要世界選手権となった。
NWF世界ヘビー級選手権: アントニオ猪木 vs アーニー・ラッド
1970年代には、NWA会員だったシークの率いるデトロイト地区が興行していたにも関わらず、なぜかNWA世界王座がオハイオ州で防衛されることは殆どなかった。当時はWWWFもペンシルバニア州との境に近いスチューベンビルでしか興行をしておらず、ヘビー級王座が防衛されることはあまりなかったようだ。
1970年代後半には主要団体による定期興行が一度はなくなったオハイオ州だったが、1980年になるとNWA系のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングが進出。1983年にはWWFも全米進出を開始し、10月にはシンシナティ、翌1984年からはコロンバスやクリーブランドなどの主要都市でも興行を始め、NWAとWWFの両世界王座がオハイオ州でも防衛されることとなる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- “Master of the Ring” (バディ・ロジャース伝記)
- The Columbus Dispatch
- Plain Dealer (クリーブランド)
- Cincinnati Post
- Dayton Daily News
- Ohio Wrestling History
