プロレスの選手権は、その起源が不明なものが多い。だからこそ、「どう始まったか」よりも「どう続いたか」の方が重要だ。登場の仕方よりも、その王座を保持した選手や防衛戦の質によって、その価値が高められる。
1948年7月に結成したナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)は、初代世界ヘビー級王者にオービル・ブラウンを認定した。NWA結成以前からカンザスシティとアイオワ州デモインの2地区において世界王者に認定されていたことがその理由の1つ。カンザスシティはミズーリ州とカンザス州にまたがり、ミズーリ側の方が地域の中心だが、プロレスの試合は両方で開催されていた。
デモインのプロモーターはNWA創始者ピンキー・ジョージで、NWA結成以前から既にNWA(アライアンス)の名でブラウンを認定していた。一方、カンザスシティではミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)がブラウンを認定。表面上、MWA会長はケンタッキー州ルイビルのヘイウッド・アレンで、カンザスシティのプロモーターはジョージ・シンプソンだったが、実権を握っていたのはブラウンだったという。ピンキー・ジョージとの信頼関係もブラウンが初代NWA王者に認定された理由の1つだ。
カンザスシティにおけるMWA世界ヘビー級王座の歴史は1939年11月に遡ることができる。カンザス州の北に隣接するネブラスカ州のリンカーンに、「ニューヨーク州で世界王者に認定」としてボビー・ブランズが登場。11月24日、ブランズはノンタイトル戦ではあったがブラウンと対戦。結果は90分時間切れ引き分けに終わった。
年が明けた1940年1月18日、今度はカンザス州カンザスシティでブラウンがブランズの世界王座に挑戦するが、両者1本ずつ取った後3本目でフォール負け。5日後の23日には再びネブラスカ州リンカーンで挑戦するが、ロープブレイクをせずブランズを攻撃し続けたブラウンに反則負け裁定が下る。

1948年に初代NWA世界ヘビー級王者として認定される前から世界王者として活躍し、カンザスシティのプロモーターでもあったことから、中西部プロレス界の重鎮だった。
その後ブラウンは再度挑戦権を得るため、オレゴン・マクドナルドやナンジョー・シン、キャロル・クラウザーらと対戦し勝ち続けていく。1940年3月28日、カンザス州カンザスシティでブラウンは再度ブランズの持つ世界王座に挑戦するが、3本目で両者が衝突しそのまま2人とも倒れたまま、結果両者ノックアウトで王座奪取ならず。
5月に入るとブラウンはガス・ソネンバーグやルー・テーズといった元世界王者達と対戦し勝利。そして6月13日、カンザスシティでついにブランズを破りMWA世界王者に認定。以後、ブラウンはカンザスシティだけではなくミズーリ州セントルイスやアイオワ州デモインでも王座を防衛。デモインでは1944年夏以降NWA世界王者に認定されるが、カンザスシティを含むその他の地域では引き続きMWA世界王者として活躍していた。
1946年秋には、ビンセント・ロペスとダノ・オマホニーを相手に防衛。両方とも1930年代に世界王座を保持した強豪だ。
そして1948年7月、ブラウンをNWA王者に認定していたピンキー・ジョージが中西部の5人のプロモーター達と共に正式にNWAを結成した際、改めて初代NWA世界王者に認定される。あくまで結果的だが、カンザスシティとデモインでそれぞれ認定されていた2つの世界王座が統一されて誕生したのがNWA世界王座ということになる。
尚、ブラウンがMWA王座として保持していたのは、オハイオ州版MWA世界選手権ベルトの流用だと言われている。ブラウンは、ブランズからカンザスシティ版を奪取した2週間後、コロンバスでディック・シカットを破り空位となっていたオハイオ版も奪取。カンザスシティに持ち帰られたベルトは、その後初期のNWA世界王座にも使われる。MWA世界ジュニアヘビー級およびライトヘビー級王座、そしてミルドレッド・バークが保持していた世界女子王座など、オハイオ版のベルトは同じ形のものが幾つも存在しており、ヘビー級もブラウンが保持していた「1936」、ジョン・ペゼックの「1931」と刻まれたものがそれぞれ存在していた。

1936年6月にオハイオ州コロンバスで、コロラド州体育協会認定世界王者エベレット・マーシャルが世界王座主張者アリ・ババを破った際にMWAから授与。
なんとなく「NATIONAL」と「ALLIANCE」のプレートが貼り換えられていることがわかる。
1939年11月にネブラスカ州リンカーンでボビー・ブランズが世界王者として登場した際、「ニューヨーク州で認定」となっていたが、現時点でブランズが世界王座をニューヨークで防衛したという記録は、12月にクイーンズで行われた2試合しか見つかっていない。
だが実はこの王座、カンザスシティでは「ニューイングランド地方で認定」となっていた。詳しくは「ニューイングランドの世界王座(3)」に書いたが、実際にブランズはニューイングランド地方にあるコネチカット州ブリッジポートで世界王者に認定されていた。
1936年夏、ロードアイランド州プロビデンスで24人参加の世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントが開催された。8月4日に行われた決勝ではジョン・マーフィーがレス・ライアンを破って優勝、初代王者に認定された。同王座はロードアイランド州だけではなくマサチューセッツ州ボストンでも防衛されることになる。
だが約2年後の1938年9月、当時ジュニアヘビー級王座を保持していたスティーブ・パッサスが、突如としてコネチカット州ブリッジポートに世界ライトヘビー級王者として登場。

1951年9月に来日、力道山をコーチし10月28日にはデビュー戦の相手も務め日本プロレス史に功績を残す。
当時のブリッジポートは、後にビンス・マクマホン・シニアのキャピタル・レスリングおよびワールドワイド・レスリング・フェデレーション(WWWF)のテレビマッチを担当することになるジョー・スミスと、悪名高きプロモーターとして知られるジャック・フェファーとの共同運営だった。プロレスを競技としてではなく、あくまで芸能として捉えていたフェファーは、過去にも新聞上で業界の裏を暴露するなどし、他のプロモーター達からは『業界の癌』と呼ばれ、NWA内部でもその対応について意見の不一致をもたらしていた程の存在だった。
1939年1月、ジョージ・ベッカーがパッサスからライトヘビー級王座を奪取。その年だけで6度と、著しく王座が移動し、11月にはボビー・ブランズが当時の王者モーリス・ボイヤーを破る。
現在と違い、第二次世界大戦前の米プロレス界はボクシング同様多くの体重階級が存在していたが、ここでもフェファーは、その競技性を無視したのか、この試合の後、突如ブランズを世界ヘビー級王者に認定。ブランズはブリッジポートだけではなく、ニューヨークやフィラデルフィアといった北東部の主要都市、オハイオ州北部やケンタッキー州、更にはネブラスカ州やミズーリ州といった中西部の州でも世界王者を名乗り、最終的にカンザスシティでオービル・ブラウンに王座を明け渡し、同地におけるMWA世界王座の歴史が始まる。
今尚存在するNWA世界ヘビー級王座の歴史が、カンザスシティのMWA世界王座に遡ることができ、更にはそのMWA王座の起源を、会員でもないにも関わらずNWA内部で混乱の原因となっていたジャック・フェファーが認定していた世界王座に見出すことができるというのは、歴史の面白さと皮肉さを感じさせてくれる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Legacy of Wrestling
- The Kansas City Times
- The Kansas City Star