1948年7月、アイオワ州ウォータールーに中西部のプロモーター達が集まり『ナショナル・レスリング・アライアンス』(NWA)を結成。自身の周りの地区で共通の世界王者を認定する程度を構想に描いていた創始者ピンキー・ジョージの思いとは裏腹に、全米から加盟申請が殺到。当初6人だった会員が翌年11月には一挙に20人以上に膨れ上がっていた。
だが、1950年1月の時点でも地区によってはNWAに加盟しているにも関わらず独自の世界王座を認定し続けた。
- NWA: ルー・テーズ
- AWA(ニューイングランド)、メリーランド: フランク・セクストン
- カリフォルニア州: エンリケ・トレス
- MWA(オハイオ州コロンバス): 空位
- モントリオール: イボン・ロベア
- ジャック・フェファー派(オハイオ州北部): トム・マーシャル
一部のNWA会員達から『業界の癌』と言われていた非会員ジャック・フェファーが認定していた世界王座は、当時トレドやアクロンといったオハイオ州北部で防衛されていたが、1950年だけで9回も移動している。1951年11月の段階ではエレファント・ボーイ (トニー・オリバス)が王者で、少なくとも1952年6月までは保持し、その後は自然消滅になったと思われるが、実はその間1952年1月にオクラホマ州タルサで、自分の王座はかけずにNWA世界王者ルー・テーズに挑戦し、2本ストレート負けを喫している。
AWA世界王者フランク・セクストンは1950年1月フランスに遠征し、9日パリでイバー・マーティンソンを破る。マーティンソンは1940年代、カール・ゴッチに『最強』とまで言わせたバート・アシラティと抗争し破ったこともある強豪だ。同年5月、オハイオ州クリーブランドでドン・イーグルがセクストンからAWA王座を奪取するが、その後もフェデラション・フランセ・ドゥ・キャッチ・プロフェショネル(FFCP=フランス・プロレス連盟)から世界王者に認定され、フランスやスイスで防衛を続ける。1951年1月30日にチューリッヒでフェリックス・ミケに敗れるが、2月19日にはパリでマーティンソンがミケから王座を奪取。セクストンは2月18日、ノッティンガムでアーニー・ボルドウィンを破りイギリスでも世界王者に認定され、更に4月2日にはパリでマーティンソンも破りFFCP世界王座を奪回、1954年3月頃までフランスやスペインで認定される。
メリーランド州では、ドン・イーグルがフランク・セクストンを破ったクリーブランドでの試合をノンタイトル戦とし、引き続きセクストンを認定するが、間もなくセクストンがヨーロッパを主戦場としたということもあり、1952年からは他地区同様NWA世界王者ルー・テーズを認定。
MWA世界王座は1948年12月16日のジョン・ペゼックによる防衛を最後に1949年には空位となっていたが、フランク・セクストンからAWA世界王座を奪取したドン・イーグルが1951年11月頃までMWA王者としても認定される。オハイオ州のMWAやAWA王座については『オハイオ州の世界王座(6)』に詳しく書いたが、1952年にはNWAが独自でヘビー級やジュニアヘビー級の世界選手権を認定していた加盟プロモーター達にNWAの選手権のみを認定するよう最終通告を出したため、コロンバスでも両王座が1952年に封印。替わりにNWA東部王座が新設されバディ・ロジャースが認定された。クリーブランドでは引き続きAWA王座が認定されていたが、これも1953年5月に空位となっていた王座決定トーナメントが中止になってからは自然消滅。

1940年代後半から1950年代前半にかけてニューイングランド地方を中心にオハイオ州やメリーランド州、更にはキューバやヨーロッパでも世界王者に認定。
ニューイングランド地方ではAWA世界王者ドン・イーグルが1952年11月に負傷のため返上し、NWAからの通告もあってか、そのまま王座は封印。ここでも12月、東海岸王座決定戦でキラー・コワルスキーを破ったバディ・ロジャースが初代王者に認定。
ロサンゼルス版世界王座は、1950年11月22日にバロン・ミシェル・レオーニがエンリケ・トレスの4年に及ぶ長期政権に終止符を打つ。オハイオやニューイングランドでは現地認定世界王座が封印されただけだが、ロサンゼルスでは実際にNWA世界王者ルー・テーズとレオーニの間で統一戦が行われた。1952年5月22日、ハリウッドのマイナーリーグ球場ギルモア・フィールドに25,256人の大観衆が集まり、テーズがレオーニを破り王座統一。セミファイナルにはNWA世界ジュニアヘビー級王者ダニー・マクシェーンと現地版世界王者リト・ロメロの間で統一戦が行われたが時間切れ引き分けに終わった。ベンとマイクのシャープ兄弟はサンダー・ザボー & ビック・クリスティーを破りNWA世界タッグ王座を防衛。$103,277.75(2021年の価値にすると$1,015,138.44)というプロレス史で初めて10万ドルを超す収益だった。
米国内の各地の世界王座が封印また統一されていく中で、モントリオールのエディ・クインは独自の世界王座を認定し続けた。1940年代後半からイボン・ロベアとボビー・マナゴフの同王座を巡る抗争で1950年代に突入したが、1952年4月にキラー・コワルスキーが奪取すると、1963年1月まで13度奪取し、同地において一時代を築く。『耳削ぎ事件』で知られるユーコン・エリックとの試合も、1952年10月15日にモントリオール・フォーラムで行われた同王座の防衛戦だった。1954年7月にパット・オコーナーがコワルスキーから王座を奪取すると、8月にはNWA世界王者ルー・テーズと対戦し引き分け。他にも1950年代にはバーン・ガニア、ドン・レオ・ジョナサン、バディ・ロジャース、アントニーノ・ロッカ、ジン・キニスキーといったプロレス史に名を遺す選手達がモントリオール地区版世界王座を保持した。
1955年3月22日、カリフォルニア州サンフランシスコでNWA世界王者ルー・テーズにレオ・ノメリーニが挑戦。現地のプロモーターでノメリーニのマネージャーとしてセコンドにもついていたジョー・マルセヴィッチの介入もあり、テーズが2本目をリングアウト、3本目を反則でそれぞれ負けてしまう。NWAは反則での王座移動を認めることを拒否したが、カリフォルニア州体育協会はノメリーニを王者に認定。ノメリーニはカリフォルニア以外でも、テキサスやイリノイ、インディアナなどで王座を防衛するが、7月15日、ミズーリ州セントルイスでノメリーニがテーズに再挑戦。1本目を得意のフライング・タックルで取るが、2本目でテーズのバックドロップを喰らい左肩と首を負傷し、3本目を棄権。決着戦はテーズに軍配が上がった。

1950年8月から1951年6月の間、ロサンゼルス地区認定世界ヘビー級(下)およびジュニアヘビー級(上)王座を同時に保持。
ルー・テーズとの統一戦に敗れた翌年の1953年から1955年にかけてはNWA世界ジュニアヘビー級王座に君臨。
同じく1955年、NWAは米国司法省から独占禁止法違反の疑いで捜査され、翌1956年には同意判決の基、かろうじて解散は逃れたもの、違反になる活動を禁止されることとなった。これによりNWAに加盟する利点が半減し、1955年には40人近くいた会員が10人以上減る。米国内でさえプロレス界全体を管理することが不可能になったNWAに、いくら加盟していたとはいえ、カナダのモントリオールのように国外で認定されていた世界王座まで封印する力はなかったのかもしれない。
そんな中、1956年8月15日にはエドワード・カーペンティア(実際には英語でもフランス語の『カルペンティエル』に近い発音)がキラー・コワルスキーを破り、モントリオール地区版世界王座初栄冠。9月26日にコワルスキーに敗れるが、約7ヶ月後の1957年5月8日に奪回。6月12日ジン・キニスキーに敗れ再び王座から転落。
その2日後の6月14日、カーペンティアはイリノイ州シカゴでNWA世界王者ルー・テーズに挑戦。テーズは腰の負傷を理由に3本目で試合を放棄し王座転落。詳しくは『魔術師の残骸』に書いたが、この試合以降、しばらくの間NWAには2人の世界ヘビー級王者が存在した。最終的には8月にセントルイスで行われたNWA総会にサム・マソニック会長がジャック・フェファーを招いたため、カーペンティアのマネージャーでもあったエディ・クインが激怒、総会の最終日だった8月25日付でNWAを脱退した。同じ頃、ボストンのポール・バウザーもNWAを離脱。NWA世界王座を防衛し続けていたカーペンティアだったが、クインのNWA離脱により、王座奪取自体が無効となった。
テーズは1957年11月14日、カナダのトロントでディック・ハットンに敗れNWA世界王座を失う。その後インターナショナル王者を名乗りヨーロッパに向かうが、イギリスでは世界王者として紹介されていた。ハットンは1959年1月にパット・オコーナーに敗れるまで1年2ヶ月NWA世界王座を保持するが、ハットンがNWAのベルトだと思われるものを巻いている写真は残ってなく、ベルトが無いまま防衛を続けていたという説が強い。
一方カーペンティアは、エディ・クインのNWA脱退後もモントリールで1958年3月頃までNWA(アソシエーション)世界王者として認定される。クインはカーペンティアと同地区版王者との統一戦を、引き分けや反則またはリングアウトなど明確な結末を出さないまま数回開催していた。モントリオール版王座は1957年7月、コワルスキーがジン・キニスキーを破り(現在判明してる限りでは)10度目の栄冠。1958年5月にボストンでコワルスキーがカーペンティアを破り現地版王座を奪取すると、モントリオールでもカーペンティアの王座は自然消滅となる。コワルスキーはボストン版王座を3年保持し、その間何度もモントリオール版王座を奪取したが、あくまで別王座だった。1959年9月にバディ・ロジャースにモントリオール版王座を奪われるが同年12月に奪回。
ネブラスカ州ではテーズとカーペンティアの試合から間もない1957年7月1日、NWA発足メンバーの1人マックス・クレイトンが心臓発作で他界。11月から同地での興行を受け継いだジョー・デュセックはNWAに加盟せず、ここでもカーペンティアが世界王者に認定され、1958年8月にオマハでバーン・ガニアに敗れるまで同地区認定王座を保持した。当時ガニアはシカゴでNWAユナイテッド・ステーツ王者にも認定されていたが、11月にウィルバー・スナイダーがオマハでガニアを破り世界王座を奪取すると、同時にUS王者にも認定。1959年5月、デトロイトでディック・ザ・ブルーザーがスナイダーからUS王座を奪取した際も、オマハでは世界王座移動として発表された。7月にはオマハでスナイダーがブルーザーから世界王座を奪回するが、10月に覆面選手ドクターX(ビル・ミラー)に敗れる。

人気選手であったがため、王座乱立の原因にもなった。
引退後はプロレスのコーチを務めながらもモントリオール地区の中継で解説を担当。1985年に同地区がWWFに買収されてからもフランス語中継での解説を1992年まで続けた。
カリフォルニア州ロサンゼルスでは1956年11月、NWA会員だったカル・イートンが会費未支払いを理由にNWAから除名。「ヒューストンでレイ・ガンケルから奪取した」という触れ込みでビリー・ヴァーガを米国王者に認定するが、1958年3月にルー・テーズがヨーロッパから帰国するとインターナショナル王座防衛戦も開催。場合によっては新聞広告に世界選手権試合と掲載されていたことから、意図的に混乱を招いていた可能性がある。イートンは1959年10月、ノースアメリカン・レスリング・アライアンス(NAWA)の団体名で正式にカーペンティアを世界王者に認定するが、その後もテーズは同地区においてインターナショナル王座を防衛。NAWAは1961年にワールドワイド・レスリング・アソシエーツ(WWA)に改称し日本のプロレス界とも強い協力関係を結ぶことになる。
1953年から1957年にかけて、少なくとも米国内ではテーズが統一世界王者となったが、カーペンティア戦後再び王座は分裂し、1959年末の時点では北米だけで少なくとも5つの世界選手権が存在した。
- NWA: パット・オコーナー
- NAWA(ロサンゼルス): エドワード・カーペンティア
- 大西洋体育協会(ボストン): キラー・コワルスキー
- ビッグタイム・レスリング(オマハ): ドクター・X
- モントリオール体育協会: キラー・コワルスキー
- イタリア、スペイン: プリモ・カルネラ (1956年9月にセントルイスでルー・テーズを破ったという触れ込みで認定)
- FFCP(フランス): 1959年4月の時点ではジョニー・ルージョー
以後、米国内においてさえも真の統一世界ヘビー級王者は誕生していない。
この時点でのNWA以外の世界王座は各地区限定に等しかったが、1960年代に入ると全米を大きく分割するほどの勢力が続出する。
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