1970年代の世界ヘビー級選手権

日本人世界王者続出。

カテゴリー: 世界ヘビー級選手権 , NWA , WWE・WWF・WWWF , AWA

NWAの『分裂』により、再び世界ヘビー級王座が乱立した北米プロレス界だったが、大半が消滅またはローカル王座に落ち着く中、1960年代が終る頃には、NWA、AWAWWWFの3大世界王座時代に入っていた。

1970年代1月の時点での世界王座は以下のとおり。

オーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリング(WCW)は1969年8月にNWAに加盟したが、その後も独自にインターナショナル・レスリング・アライアンス(IWA)世界王座を認定。1971年、キング・カーティス・イヤウケアが王者の際に同王座は封印され、翌年からはオーストラレーシアン王座が認定された。

1970年3月、インディアナポリスでバロン・フォン・ラシクがディック・ザ・ブルーザーを破りWWA世界王座を奪取。ブルーザー自らプロモーターだったこの団体だが、意外にも1970年代の大半において本人が同王座に君臨していたわけではなく、ラシク以外にもボブ・エリスやオックス・ベイカー、ペッパー・ゴメツらが、それぞれ最低数ヶ月は王座を保持した。ブルーザーはむしろ、クラッシャー・リソワスキーとのAWA世界タッグ王者組として活躍することも多かった。

ニューヨーク州西部のバッファローでは1955年8月、ペドロ・マルティネスが元世界王者エド・ダン・ジョージから興行権を買収し引き続きNWAにも加盟。1968年にはジョニー・パワーズをパートナーとして迎え、主要選手として北米王者に認定した。1970年にはナショナル・レスリング・フェデレーション(NWF)を旗揚げし、1971年6月頃、「前年ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーを破り王座を奪取した」という触れ込みでパワーズをNWF世界王者に認定。ニューヨーク州西部とオハイオ州北部を中心に、更にはペンシルバニア州西部も勢力内に入れる。その後NWF世界王座はワルドー・フォン・エリックやアーニー・ラッド、アブドーラ・ザ・ブッチャーらが奪取するが、1972年10月にブッチャーを破ったジョニー・バレンタインが1973年1月に王座を剥奪されて以降は、殆ど防衛されることはなくなった。

1971年1月、ニューヨークシティでイワン・コロフがWWWF世界王者ブルーノ・サンマルティノを破り、7年8ヶ月に及ぶ長期政権に終止符を打つが、1ヶ月も経たずしてペドロ・モラレスに敗れる。またWWWFは1971年に再度NWAに加盟したため、モラレスが王座を保持している間、世界王座ではなく単にヘビー級王座となった。だがニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンでは「WWFヘビー級王座」と『世界』抜きになっていたり、NWA世界ヘビー級王者がパンフレットで紹介されることもあったものの、テレビ中継の無い他の地域では相変わらず世界王座として紹介されることが多かった。

ヨーロッパ路線を中心としていた日本の国際プロレスは、1970年アメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)と提携。2月には世界王者バーン・ガニアが初来日し、ストロング小林やグレート草津らの挑戦を退けた。また、1971年3月にはビル・ミラーがサンダー杉山からIWA世界王座を奪取。6月19日にはミネソタ州ダールスでストロング小林がミラーから王座を奪取したということになっているが、当日AWAはミネアポリスでの興行で、ミラーはニック・ボックウィンケル、小林はビル・ロビンソンにそれぞれ敗れていることから、架空の王座移動だと思われる。とりあえず団体のトップに君臨した小林だったが、1974年2月、脱退のため王座返上。

バーン・ガニア
経営者自ら世界王座に君臨するという点では、最も有名な例かもしれない。

1972年は日本プロレス界にとって怒涛の年となった。日本プロレスを前年除名となったアントニオ猪木は3月に新日本プロレスを旗揚げ。9月には、カール・ゴッチを『真の世界ヘビー級王者』として選手権試合を開催。当時のパンフレットによると、『真の世界選手権』は1948年7月インディアナポリスでルー・テーズがビル・ロンソンから奪取したことを最後に、『1949年』に発足したNWA(アライアンス)がテーズを『初代』王者に認定したことにより、その姿を消し、更には「テーズからビル・ミラー、フランク・スカルパ、ドン・レオ・ジョナサンを経て1962年にカール・ゴッチが獲得」とある。何故ここにスカルパの名が入っているのかは不明だが、ゴッチが1962年にジョナサンから奪取したのはオハイオ州のAWA(アライアンス)世界王座であることは、『オハイオ州の世界王座(6)』でもふれたとおり。ゴッチの世界王座は、1972年10月に東京で猪木が奪取するが、6日後にはゴッチに奪回されている。

同じく1972年10月にはジャイアント馬場が全日本プロレスの旗揚げシリーズを開催。全日は、力道山亡き後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトが馬場に寄贈されたとし、10月22日に行われた旗揚げ第2戦の馬場とブルーノ・サンマルティノとの一戦を皮切りに、世界選手権争奪戦を開始した。翌1973年2月、争奪十番勝負を8勝2分で制した馬場が、世界ヘビー級王者として認定。翌月からはパシフィック・レスリング・フェデレーション(PWF)世界王座となった。

1973年4月、日本プロレスが20年の歴史に幕を閉じる。残留の大半は全日本プロレスに合流した。だが、1976年になっても、NWA年次総会の会員一覧に日プロの長谷川淳三(芳の里)社長の名が記されている。これについては、ジャイアント馬場がNWA内での発言権を強めるため、票数を増やす目的で日プロの籍を残していたという説があるが、前年新日のNWA加盟が承認されたため、芳の里が会員に名を連ねていたのはこの年が最後だったのではないかと思われる。1977年と1978年の会員一覧を持っていないので定かではないが、さすがに1979年にはもう載っていない。

1973年5月、カンザスシティでハーリー・レイスがドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界王座初栄冠。だが同王座は2ヶ月後テキサス州ヒューストンでレイスを破ったジャック・ブリスコの時代に突入する。サム・マソニックの下でブッカーを務めていたラリー・マティシックによると、ドリー・ジュニアのライバルだったブリスコへ王座が直接移動することをドリー・シニアが認めず、NWA脱退を仄めかしたため、NWAがやむを得ずレイスを『つなぎ』として間に入れ、2ヶ月だけの王者に仕立て上げたという。

https://twitter.com/WrestlingIsKing/status/1224180269709656065
1973年7月20日 テキサス州ヒューストン
サム・マソニックNWA会長と世界選手権ベルトを交換する世界王者ハーリー・レイス。
ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたタイプのベルトを返還し『黄金の10ポンド』を受け取ったが、この日の試合でジャック・ブリスコに奪われる。

バッファローを拠点としたNWFではしばらくの間、北米王座が中心で、世界王座は防衛されていなかったが、1973年12月ジョニー・パワーズが世界王者として来日し、新日に参戦。8日後の12月10日、アントニオ猪木に王座を奪われる。米国のプロレス誌によっては、NWAのジャック・ブリスコ、AWAのバーン・ガニア、WWWFのブルーノ・サンマルティノと共に、NWFの猪木も世界4大王者の1人として紹介されていた時期もある。NWFという団体自体は翌1974年に閉鎖するが、以後同王座は日本に定着し、新日の主要王座となる。

猪木が『念願』のNWF世界王座奪取を果たした1ヶ月半後の1974年1月、PWF世界王者ジャイアント馬場がジャック・ブリスコを破り、東洋人選手としては初のNWA世界ヘビー級王座を奪取。全日がNWAに加盟したため、この試合と同時にPWF王座が世界王座という位置付けから外された。

NWFは1974年に閉鎖するが、ペドロ・マルティネスは翌年、後にメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスのオーナーとなるエディ・アインホーンと共にインターナショナル・レスリング・アソシエーション(IWA)を発足し、ミル・マスカラスをヘビー級王者に認定。本来は既存の団体に対抗する全米規模の勢力になる計画だったが、数ヶ月後にアインホーンが撤退し、マルティネスはNWFを共同運営していたジョニー・パワーズと共にIWAを継続。当初マスカラスの保持する王座はインターナショナル王座とされていたが、1975年末頃には世界王座となっていた。1977年4月になるとIWAは、「マスカラスから奪取した」としてアーニー・ラッドを認定するが、同年IWAは消滅。それ以降もマスカラスはIWA世界選手権ベルトを持ち歩き、メキシコや日本で引き続き防衛。当然のことだが、このIWA王座は、オーストラリアのWCWや国際プロレスのものとは全く関係はない。

マスカラスというと、王座変遷史に深く興味を持つ人達はグアテマラを思い出すのではないだろうか。1962年、フランスでセルソ・ソテロがモーリス・クレマンソーを破りアソシアション・オンテルナショナル・ルット・プロフェッショナル(AILP)世界王者に認定されたとなっており、1965年3月にグアテマラシティでホセ・アザリがカベルナリオ・ガリンドを破って以来、1976年まで最低6度は奪取。アザリは新興アリアンサ・ラティノアメリカナ・デ・ルチャリブレ(ALLL)世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場するが、1976年2月1日グアテマラシティで行われた決勝でマスカラスに敗れる。以後ALLLという団体自体はおそらく消滅したと思われるが、その世界王座はIWA王座同様マスカラスの私物化となり、日本でも防衛された。

1974年11月には国際プロレスの大会で、当時のIWA世界王者マイティ井上がAWA世界王者ガニアとのダブルタイトル戦で引き分け。翌1975年4月にはマッドドッグ・バションが井上からIWA王座を奪取するが、9日後にラッシャー木村に敗れる。以後木村は何度か王座から脱落しながらも奪回を繰り返す。

メキシコでも新団体が誕生した。1933年以来同国においてプロレス界を独占していたエンプレサ・メヒカナ・デ・ラ・ルチャリブレ(EMLL)だったが、1974年に後継者問題や経営方針などをきっかけに、メキシコ州ナウカルパンのプロモーターだったフランシスコ・フローレス、NWA世界ライトヘビー級王者レイ・メンドーサ、そして投資家のベンジャミン・モーラ・ジュニアらがEMLLを離脱。1975年1月29日、連邦地区イスタカルコでプロモショネス・モーラの名で初興行を開催。ルチャリブレ・インテルナショナル(LLI)の事実上の旗揚げとなった。LLIは11月、王座管理団体としてユニバーサル・レスリング・アソシエーション(UWA)の名称で世界ライトヘビー級およびミドル級王座決定戦を開催。1977年8月にはルー・テーズを初代王者に認定し、メキシコの団体による初の世界ヘビー級王座が誕生した。同王座は1978年8月、カネックがテーズを破り初栄冠。

1978年8月27日 メキシコ連邦区イスタカルコ
UWA世界ヘビー級選手権: ルー・テーズ vs カネック
📷 – Baron Sumio @ Pinterest

新日本プロレスは1975年、WWWFと業務提携を開始し、8月にはNWAへの加盟が承認されるが、あくまで世界ヘビー級王者を参戦させないという条件付きだった。更には翌年の総会にて、アントニオ猪木の保持するNWF世界王座から『世界』の2文字を外すように要請される。また、1978年にはマディソン・スクェア・ガーデン大会のパンフレットに新日本プロレスの営業本部長だった新間寿の名がWWWF副会長として載るようになる。同年11月15日、ウィリー・ギルゼンバーグ会長他界により、新間が会長に就任。だが実際には、WWWFという団体は存在せず、あくまでキャピタル・レスリング・コーポレーション(CWC)という会社が選手権管理団体としてWWWFという名称を使っていただけで、ギルゼンバーグも、長年ニュージャージー州ニューアークでCWCの興行を手掛けたプロモーターだった。全日本プロレスにとってのPWF、またはLLIにとってのUWAと同じような関係だと言えよう。

1975年11月、ミネソタ州セントポールでニック・ボックウィンケルがバーン・ガニアを破りAWA世界王座を奪取。1960年代の大半においてガニアとマッドドッグ・バションが保持した同王座にも世代交代の時が訪れた。

その翌月、マイアミでテリー・ファンクがジャック・ブリスコを破り、兄ドリー・ジュニアと併せて兄弟で初のNWA世界ヘビー級王者となった。

1977年、テネシー州で興行戦争が勃発。長年同地区を牛耳ってきたニック・グラスに、メンフィス周辺のブッキングを担当していたジェリー・ジャレットが反旗を翻した。メンフィス地区をNWA系のグラス派から奪い取ったジャレットは1979年、コンチネンタル・レスリング・アソシエーション(CWA)の名で王座を新設し、「1月にオーストラリアのメルボルンでマーク・ルーインから奪取した」としてサンダーボルト・パターソンを世界ヘビー級王者に認定。パターソンは6月の時点でも王座を保持していたが、9月にはパット・マクギニスが認定されていた。10月にはビリー・グラハムがマクギニスから王座を奪取するが、11月にケンタッキー州レキシントンでジェリー・ローラーに敗れる。またCWAは1978年からAWAとも提携し、同じ大会でAWAとCWA両方の選手権試合が行われることもあった。会員制度の無いAWAではあったが、インディアナポリスのWWA、メンフィスのCWA、そして日本の国際プロレスと、3団体と提携したことになる。

1979年3月、WWWFがワールド・レスリング・フェデレーション(WWF)に改称。同月25日、カナダのトロントで、WWF王者ボブ・バックランドとAWA世界王者ニック・ボックウィンケルとの間でダブルタイトル戦が行われたが、両者リングアウト引き分けに終わった。同年11月には、徳島でアントニオ猪木がバックランドを破り東洋人初のWWFヘビー級王座奪取を果たす。1週間後の再戦でバックランドが猪木をフォールするが、タイガー・ジェット・シンの乱入を理由に新間寿WWF会長がノーコンテストと裁定。だが猪木はその結果を拒否し王座を返上。バックランドは帰国後、ボビー・ダンカンとの王座決定戦に勝利。米国では猪木の王座奪取について報道はされなかったが、バックランドはダンカン戦でベルトを巻かずに登場し、リング上では試合前に王者とも紹介されず、試合後に新間からベルトを授与されたため、とりあえず日本向けのテレビ中継では王座決定戦として放送された。

1979年12月17日 – マディソン・スクェア・ガーデン
WWFヘビー級選手権: ボブ・バックランド vs ボビー・ダンカン
試合前のリング上は、なんとなく王座決定戦のような雰囲気だったが、テレビ実況を担当していたビンス・マクマホン・ジュニアは、しっかりバックランドを王者と紹介していた。

1970年代には、ヨーロッパでも幾つか新しく世界ヘビー級王座が誕生した。

1978年7月、オーストリアのグラーツでオットー・ワンツがドン・レオ・ジョナサンを破りカナディアン・レスリング・アソシエーション(CWA)世界王座を奪取。元々は1977年にワンツが南アフリカで開催されたトーナメントの決勝でジャン・ウィルケンズを破って奪取し初代王者に認定され、その後ジョナサンに奪われた王座を奪回したということになっているが、南アフリカでそのような試合があったという証拠は現時点で見つかっておらず、既にEWU世界スーパーヘビー級王座を保持し南アフリカの主要選手として君臨していたウィルケンズが、自らのお膝元で他団体認定の王座決定トーナメントで負けるとは考え難い。このCWAは後に同じ略称だがキャッチ・レスリング・アソシエーションに改称。ワンツもまた、プロモーター自ら世界王者になるという一例だった。

またヨーロッパでは、1960年代に世界王者になったダニー・リンチを、1978年にローランド・ボックが破り、スペインなどで防衛したという説があるが、これも定かではない。日本でもボックがWWU世界ヘビー級王者として紹介されたこともあったが、国際プロレスで阿修羅原が奪取した世界ジュニアヘビー級王座を認定していたWWU自体が架空の団体だと言われている。

ギリシャでは1975年夏頃、アティリオという選手が世界王者に認定されていたようだが、1979年7月にはダニー・リンチがイワン・ボリエンコフの名で認定されていた。ただし、ボリエンコフが実際に世界王者としてギリシャに登場するのは翌年のことだった。

ヨーロッパの他国同様、なかなか世界ヘビー級王座が定着しなかったイギリスだったが、1979年9月、「ギリシャで王座を奪取した」という触れ込みでスパイロス・アリオンが世界王者として登場。同年12月にはロンドンでウェイン・ブリッジがアリオンを破り、ジョイント・プロモーションズから認定される。

1979年代12月末の時点での世界王座は以下のとおり(私物化されたミル・マスカラスの王座を除く)。

  • NWA: ハーリー・レイス
  • AWA: ニック・ボックウィンクル
  • WWF: ボブ・バックランド
  • WWA(インディアナ): キング・コング・ブロディ
  • CWA(テネシー): ジェリー・ローラー
  • UWA(メキシコ): カネック
  • IWA(国際プロレス): ラッシャー木村
  • CWA(オーストリア、西ドイツ): オットー・ワンツ
  • ジョイント・プロモーションズ(イギリス): ウェイン・ブリッジ
  • ギリシャ: イワン・ボリエンコフ

1960年代以上に世界王座が続出したと思われる1970年代だったが、1980年代には本格的に団体間での戦国時代に突入することになる。


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