1960年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: パット・オコーナー
- 世界ジュニアヘビー級: アンジェロ・サボルディ
- 世界女子: ファビュラス・ムーラ
- 世界タッグ: ペッパー・ゴメス & サイクロン・アナヤ
- 州ヘビー級: ニック・コザック
- 州ジュニアヘビー級: 空位
- 州女子: ロレイン・ジョンソン
- 州黒人ヘビー級: タイガー・コンウェイ
- 州黒人女子: エセル・ジョンソン
- 州タッグ: ニック・コザック & レオ・ガリバルディ
- 州ブラスナックル: ブル・カリー
1960年が明けて間もない1月12日、ダラスのスポータトリアムにNWA世界ヘビー級王者パット・オコーナーが登場し、ニック・コザックを相手に防衛。同大会では、ロイ・コリンズとバーバラ・ベイカーの選手同士による結婚式がリング上で行われた。ベイカーは1950年代後半イリノイ州やインディアナ州といった中西部一帯および西部のユタ州でUS王者として活躍。ロイ・コリンズは本名をロイ・リー・アルバーンと言い、1965年1月に初来日し日本プロレスに参戦した後、ハワイ州に定着し同地の主要選手として長年君臨することになるリッパー・コリンズだ。
当時、スポータトリアムのプロモーターは相変わらずエド・マクレモアだったが、約56km西にあるフォートワースのノースサイド・コロシアムでは1944年10月からケン・ムーアが興行を手掛けていた。1956年後半には義父R・G・マケリーアとの共同運営になるが、おそらくこの頃、ムーアがエルビス・プレスリーの警備主任に就任したことが理由ではないかと思われる。1958年にはプレスリーが米陸軍に徴兵され、ムーアはプロレスの興行に専念するが、1960年3月に満期除隊すると、ムーアも再びプレスリーの警備を担当し、プロレスの興行を少しずつマケリーアに任せていく。同年9月22日、ムーアが病死すると必然的にマケリーアが実権を握ることとなる。

1957年4月2日、コンサート2回公演が開催されたオンタリオ州トロントのメープルリーフ・ガーデン舞台裏にて。
ちなみにフランク・タニーが興行を手掛けていた同会場の2日後のメインイベントはパット・オコーナー & ビリー・ワトソンがディック・ハットン & ジン・キニスキーを破るという豪華な組み合わせだった。
1960年11月8日、スポータトリアムでテキサス州ジュニアヘビー級王者シレント・ロドリゲスにハワイ出身日系人のハル佐々木が挑戦し王座を奪取するが、約1ヶ月後に州南部のコーパスクリスティでロドリゲスに奪回される。
エド・マクレモアは1961年1月31日、スポータトリアムにて、妊娠中の母子の健康問題に取り組む非営利団体『マーチ・オブ・ダイムズ』のための慈善興行『パレード・オブ・チャンピオンズ』を開催。テキサス州ヘビー級王者ドン・マノキャンはアレックス・ペレツ、州ブラスナックル王者ブル・カリーはトシ東郷(ハロルド坂田)、州タッグ王者組ペッパー・ゴメス & ホーガン・ウォートンはスプートニク・モンロー & ジェット・モンローをそれぞれ破り王座防衛。セミファイナルではダニー・ホッジがジェリー・コザックに勝利しNWA世界ジュニアヘビー級王座を防衛した。メインイベントでは世界ヘビー級王者パット・オコーナーがドリー・ディクソンを相手に引き分け防衛。
ダラス地区で頻繁に王座を防衛していたオコーナーだったが、1961年6月末にはイリノイ州シカゴでバディ・ロジャースに敗れ王座転落。防衛戦が北東部やシカゴに集中し批判の多かったロジャースだが、現在判明している限りでは、1960年1月から翌1961年6月までの18ヶ月間にオコーナーがダラス地区で防衛したのが17回というのに比べ、1961年7月から王座転落の1963年1月までの19ヶ月間にロジャースが同地区で防衛したのは12回と、それほど少なくはない。その間ロジャースがフロリダ州で防衛したのは僅か数回で、アマリロを含むテキサス州西部においては、同地区プロモーターのカール・サーポリスが1962年8月から1年間NWA会長であったにも関わらず、防衛戦は全く行われなかった。州東部が優遇されていたのは、同地を牛耳っていたヒューストンのモリス・シーゲルが、ロジャースのスケジュールを仕切っていたニューヨークのビンス・マクマホンやシカゴのフレッド・コーラーらと友好関係にあったからだと思われるが、同地区にはヒューストンやダラスといった当時から既に全米15位内に入っていた大都市が2つ、更にはオースティンやサンアントニオなどの中都市もあり、それなりの収益が見込まれていたことも理由かもしれない。
また1960年代のテキサスでは相変わらず黒人選手権も認定されていた。1961年2月27日フォートワースでは世界黒人ヘビー級王者ドリー・ディクソンが州黒人ヘビー級王者タイガー・コンウェイを破り王座を防衛。ディクソンは1962年7月25日、サンアントニオでアート・トーマスに敗れるまで王座を保持した。

1953年1月にダラスでデビューしたジャック・アドキッソンは、同年夏頃から北東部でフリッツ・フォン・エリックを名乗り始め、1958年4月には新リングネームでダラス地区再デビューを果たしていた。翌1959年、オハイオ州およびニューヨーク州西部を拠点にしていた際、ニューヨーク州ナイアガラフォールズの自宅で長男ジャッキーが僅か7歳で感電死。フリッツは幼い次男ケビンと生まれて間もない三男デビッドの面倒を妻ドリスに任せ巡業を続け、1961年12月ミシガン州デトロイトでUSヘビー級王者ディック・ザ・ブルーザーを破りシングル初栄冠を果たす。

1962年になると、州ブラスナックル王座がダラス地区でも頻繁に移動する。同王座は1953年に初めて認定されて以来、主にブル・カリーとダニー・マクシェーンの間で移動することが多かったが、1961年に入るとマクシェーンが他の王座に焦点を絞るようになり、1962年2月の時点ではカリーが再び保持していた。以後カリーはダラスやフォートワースを中心にジャック・ダルトンやトニー・ボーン、ルイ・ティレ、キラー・カール・コックスらと抗争し、幾度となく王座からの転落と奪回を繰り返した。
州ジュニアヘビー級王座は同年6月5日、ダラスでジェリー・コザックが王者シレント・ロドリゲスを破り奪取。コザックは10月にオースティンでティト・コパに敗れるまで保持するが、その後同王座は主にオースティンで防衛されるようになり、ダラス周辺だけではなく、ヒューストンでの防衛記録も見つかっていない。1964年末、ブル・カリーの息子で当時の王者だったフレッド・カリーがテキサスから他地区に移転すると、同王座も自然消滅となった。
1962年7月21日、ネブラスカ州オマハでフリッツ・フォン・エリックがバーン・ガニアを破り同地区認定世界ヘビー級王座を奪取。ガニアは1ヶ月後の8月21日、ミネソタ州ミネアポリスでミスター・M(ビル・ミラー)を破りAWA世界ヘビー級王座を奪取するが25日にはフリッツを破りオマハ版王座も奪取。約1年後の1963年7月27日にはフリッツがガニアを破り、両王座を奪取するが、8月8日にテキサス州アマリロでAWA王座を奪われる。ガニアは9月7日にオマハでフリッツを破り同地区版王座も奪回し、両王座を正式に統一した。
1963年1月22日、ダラスでNWA世界ヘビー級王座挑戦者決定戦が開催。レイ・ガンケルがターザン・タイラーを破り、王者バディ・ロジャースへの挑戦権を獲得するが、24日カナダのトロントでルー・テーズがロジャースを破り世界王座奪回。5日後の29日にスポータトリアムで開催されたエド・マクレモアのプロモーターとしての24周年記念興行で、新王者テーズがガンケルと対戦、両者リングアウトによりテーズの引き分け防衛に終わった。セミファイナルではブル・カリー & エル・クバノがトニー・ボーン & イワン・ザ・テリブルから世界タッグ王座を奪取。ビル・ドロモは州ヘビー級王者リップ・ホークに挑戦するが、反則勝ちにより王座奪取とはならなかった。
同年9月24日、ダラスでチーフ・ホワイト・ウルフがマーク・ルーインを破り州ヘビー級王座を奪取。ウルフはその名からして先住民のギミックだが、正体は後にAWAで悪役マネージャーとして活躍するイラク人のアドナン・アル=ケイシー。12月3日にはジョー・ブランチャードがウルフから王座を奪取し、翌1964年1月23日にはヒューストンでトーキョー・トムがブランチャードを破る。このトーキョー・トムはフィリピン系のレイ・ウルバノだが、約2ヶ月後にはセントラルステーツ地区で猪木寛至もトーキョー・トムを名乗り始めたこと、そして翌1965年6月からは猪木もテキサス州東部に転戦したことから、猪木の初栄冠がブランチャードを破ってのテキサス州王座だとする資料も幾つか存在する。
1963年11月、日米初の衛星放送の実験が行われた。だが日本時間23日早朝に画面に映し出されたのは、現地時間22日ダラスでジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される瞬間だった。葬式は25日にワシントンDCで行われたが、当日開催予定だったフォートワースでのプロレスの試合の結果が新聞に掲載されていないことから、大会自体が中止になった可能性が高い。翌日のダラス大会は予定通り開催され、ダニー・ホッジがデューク・ケオムカを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を防衛した。
1964年5月22日、ケン・ムーアからフォートワースの興行権を受け継いでいたR・G・マケリーアが他界。以後、マケリーアの娘でムーアの未亡人であるエリザベス・ムーアが23年間同地での興行を手掛けた。
同じく1964年には、2月1日放送のテレビマッチで約5年半ぶりにダラス地区に復帰したフリッツ・フォン・エリックが7月頃から本格的に同地区を中心に活動し始める。
そしてフリッツは間もなく主要選手として君臨するだけではなく、同地区のプロレス界に革命を起こすこととなる。
1964年12月末時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ルー・テーズ
- 世界ジュニアヘビー級: ダニー・ホッジ
- 世界女子: ファビュラス・ムーラ
- 世界タッグ: 空位
- 州ヘビー級: ペッパー・ゴメス
- 州女子: 空位?
- 州黒人ヘビー級: タイガー・コンウェイ
- 州タッグ: 空位?
- 州ブラスナックル: ブル・カリー
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Dallas Morning News
- Ft. Worth Star-Telegram
- World Class Memories
- D Magazine