ダラス角力史 – 第拾参章

1960年代後半

カテゴリー: ダラス角力史

1965年1月時点での選手権保持者:

1953年1月にダラスでデビューしたジャック・アドキッソンは、同年夏頃から北東部でナチス風の格好でフリッツ・フォン・エリックを名乗り始め、1958年4月には新リングネームでダラス地区再デビューを果たしていた。その後も引き続き各地を転戦し、デトロイト版USヘビー級王座AWAおよびオマハ地区版世界ヘビー級王座を奪取。1964年、本格的にダラス地区に復帰した際には、リングネームこそ使い続けたが、ナチス風を止めベビーフェースとして人気を得ることとなった。

アドキッソン家がダラスに自宅を移す前、短期間ではあるがジャックと妻ドリスは州南部のコーパスクリスティで釣具屋を経営しようとしていた。1959年、長男ジャッキーを僅か7歳で亡くし、幼いケビンとデビッドに対してそれまで以上に愛情が深まり、家族を大事にするためテキサスに戻り落ち着きたかったという。だがある日、ダラスのプロモーターであるエド・マクレモアが遥々自宅に訪れ、同地区での参戦を直談判してきた。その際フリッツは、仮に何等かの理由でマクレモアがダラス地区の興行から撤退する際には、興行権を買い取る権利をフリッツに与えることを同地区参戦の条件として提示、マクレモアはそれに同意した。

テキサス州東部の中心地は相変わらずヒューストンで、同地にブッキング・オフィスを構えていたモリス・シーゲルがダラスやサンアントニオ、オースティン、コーパスクリスティなど各地に選手を派遣しており、同地区のNWA会員もあくまでシーゲルだった。フリッツは1965年1月8日、ヒューストンでペッパー・ゴメスを破りテキサス州ヘビー級王座を奪取。1955年8月以来同王座に12度就いたゴメスだが、これ以降奪取していないことから、事実上この試合によって新しい時代の到来が告げられたことになる。

更にフリッツは同年2月23日スポータトリアムで行われた世界ヘビー級王座挑戦者決定戦にも勝利。3月2日ルー・テーズの保持するNWA世界王座への挑戦が決定するが、3日後の地元紙では、テーズがフリッツの挑戦を拒否し、替わりにキラー・カール・コックスを指名したと発表された。試合当日、フリッツが特別レフリーを務めることとなるが、案の定それが問題となった。1本目をテーズ、2本目をコックスがそれぞれ取った後、テーズが裁定を不服としフリッツと口論。テーズの反則負けを宣言したフリッツはコックスが新王者だと宣言。だがコミッショナーのサミー・ジョージの要請で試合は続行され、テーズが3本目で勝利したため王座防衛となった。3週間後の23日、フリッツは改めてテーズに挑戦するが試合はノーコンテストに終わる。4月13日の再戦は特別レフリーのボブ・エリスが疑惑付きの裁定でフリッツを反則負けにしたため、テーズが防衛。これがテーズのダラス地区での最後の世界王者としての試合となった。

また、この頃からダラス地区はヘビー級重視の傾向が更に進み、1965年から1973年まで、世界ジュニアヘビー級王座を管理するレロイ・マクガークの本拠がすぐ隣のオクラホマ州であるにも関わらず、防衛戦が全く行われていない。

1965年6月には、猪木寛至がオレゴン地区からロサンゼルス地区を経てテキサス東部地区に転戦。同地区初戦だと思われる21日のフォートワース大会ではクリス・トロスに勝利し、翌日スポータトリアムではボブ・エリスと引き分け。そして7月20日にはメインイベントでキラー・カール・コックスと対戦し敗れるなど、地区参戦時から扱いは良かったようだ。

同じく6月にはエディ・グラハム & サム・スティムボートが世界タッグ王者組としてダラス地区に参戦。だが29日にはスポータトリアムでフリッツ・フォン・エリック & キラー・カール・コックスに王座を明け渡す。8月17日にはスポータトリアムでデューク・ケオムカ & 猪木寛至が王座に挑戦するが、1本目を取られた後、2本目で両チーム反則となり王座奪取には至らなかった。9月14日に再度挑戦するも、3本目で反則負け。

1965年8月17日 スポータトリアム
デューク・ケオムカ & 猪木寛至がフリッツ・フォン・エリック & キラー・カール・コックスの持つ世界タッグ王座に挑戦した際の記事。
ザ・デストロイヤーがこの日ダラス初登場とも書いてある。

尚、東京スポーツ1965年10月20日号に、13日にヒューストンでケオムカ & 猪木がエリック & コックスを破り世界タッグ王座を奪取したと報道されたとのことだが、猪木は当日サンアントニオでの試合に出場し、ヒューストンに出場したのは15日で、ゴリラ・マルコニと対戦。ケオムカはこの頃フロリダ地区を転戦中だった。その後、猪木は11月5日のヒューストン大会を最後にテネシー地区に転戦。実際に猪木がケオムカと共にテキサス東部地区に世界王者組として登場するのは翌年2月のことで、それも2月8日スポータトリアムでザ・デストロイヤー & ゴールデン・テラーに王座を明け渡すために1試合のみわざわざテネシー地区から参戦していたようだ。

ダラスでは1958年以来、テレビ局KRLDから『スタジオ・レスリング』が中継されていたが、ファンには何の報告もなく1965年9月に終了し、突如としてスポータトリアムからの中継が開始。引き続きビル・マーサーが実況を担当した。

翌1966年はテキサスのプロレス界にとって正に激動の年となった。

スポータトリアムでは1947年以来、ラジオ音楽番組『ビッグD・ジャンボリー』が放送されており、同会場にとっても収入源になっていたようだが、1950年代になると、テレビの普及、ロックンロールという比較的新しい音楽のジャンルも台頭など、ラジオの人気が低下。かつてはエルビス・プレスリーやジョニー・キャッシュ、パッツィー・クライン、ウィリー・ネルソンらも出演した人気番組も、1966年にはその歴史に幕を閉じた。

テキサス州ヘビー級王座を巡って抗争したフリッツ・フォン・エリックとジョー・ブランチャード。1966年、スポータトリアムからの映像だと思われる。
2人ともテキサスでプロモーターとしても活躍し、息子と孫もプロレスラーになった。

1966年1月7日、ミズーリ州セントルイスでジン・キニスキーがルー・テーズからNWA世界ヘビー級王座を奪取。3月8日、ダラスでフリッツ・フォン・エリックを相手に60分時間切れ引き分け防衛。

8月8日にはフォートワースのノースサイド・コロシアム大会で、フリッツ・フォン・エリックの『弟』という触れ込みのワルドー・フォン・エリックが同地区初登場にしてトニー・ボーンを破りテキサス州ブラスナックル王座を奪取。だがこの頃は、経理関係の問題を巡り、ダラスのエド・マクレモアとヒューストンのモリス・シーゲルの関係が悪化していた。フォートワースのテレビ局KTVTによる中継ではシーゲルの右腕的存在だったポール・ボッシュが実況を担当していたが、この日を最後に降板。翌週からは同会場のリングアナウンサーを務めていたダン・コーツが後を受け継いだ。

当時ダラスではシーゲルとマクレモアがダラス・レスリング・クラブ(DWC)という興行会社を共同運営していたが、両者の間で法廷闘争になり、シーゲルがマクレモアのスポータトリアム使用停止を訴えたため、DWCの経営者の1人でありながらも訴えられた立場でもあるマクレモアが原告と被告の両側になるという状態だった。9月8日の判決ではDWCが勝訴し、マクレモアはやむを得ず13日に予定されていた大会をスポータトリアムから収容人数約2分の3のブロンコ・ボウルに移し決行。翌週20日には、マクレモアに対抗しシーゲルもレス・ウルフをマッチメーカーにスポータトリアム大会を予定しカードも発表されたが、「法的な縺れ」を理由に中止。

DWCから離脱したマクレモアは9月23日、ジャック・アドキッソンと共に新会社『サウスウェスト・スポーツ』を設立。マクレモアは地区内の多くの選手達だけではなくNWAとも友好関係を保っていたことから、1950年代前半のシーゲルとの興行戦争の時とは違い、選手の派遣に苦労することもなく、少なくともダラス周辺での興行戦争はマクレモアの圧勝となった。尚、フリッツは同地区の主要選手でもあったため、あくまで表面上のプロモーターはマクレモアのみにするべきだと、NWA会長サム・マソニックが提案したという説もある。

その後もマクレモアはブロンコ・ボウルでの興行を続けたが、11月8日には収容人数1万以上のメモリアル・オーディトリアムでの大会を開催。メインイベントではNWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキーにフリッツ・フォン・エリックが挑戦。3本目両者リングアウトにより、キニスキーの引き分け防衛に終わった。NWA傘下のDWCを離脱したはずのマクレモアが、NWA世界王者を招聘し、更には翌週15日からスポータトリアムに復帰にできたのだが、その背後には、この頃シーゲルは体調の悪化が進んでおり、ダラス地区まで管理仕切れないと判断、マクレモアと和解し同地区から撤退したという事実があるという。12月1日付でNWA会長サム・マソニックから会員達に向けて出された手紙には、今後マクレモアがテキサス州東部全域のブッキング・オフィスを仕切ることになり、シーゲルはヒューストンのみでの興行を継続すると書かれている。だがそれから1ヶ月も経たない12月26日、シーゲルは他界し、ヒューストンはポール・ボッシュが受け継ぐこととなった。

モリス・シーゲル
ヒューストンを本拠に、1927年から1966年までの40年間に亘りテキサスのプロレス界を牛耳った

実権がモリス・シーゲルからエド・マクレモアに移ると同時に、テキサス州タッグ王座は消滅。それと置換わるかのように、1966年11月ダラス地区にアル・コステロ & カール・フォン・ブラウナーが参戦し世界タッグ王座を主張するが、12月の時点ではUS王座として認定されていた。翌1967年2月21日にはスポータトリアムでフリッツとワルドーのフォン・エリック『兄弟』がコステロ & ブラウナーを破り王座を奪取するが、意外にも2人で奪取したのは現時点で判明している限りでは1958年の南部王座(キャロライナ地区版)とこのUS王座のみである。

同じく11月、フリッツ・フォン・エリックは初来日し日本プロレスの『ウィンター・シリーズ』に参戦。フリッツの伝記『Master of the Iron Claw』には、本人の手記も引用されており、12月3日に日本武道館で行われたジャイアント馬場とのインターナショナル・ヘビー級選手権試合についても書かれている。日本のリングは8角形でロープがなく各選手のコーナーには白い粉の入った小さな箱が置いてあり、馬場は何度もその粉を手に塗してフリッツを焦らしていたとある。更には、英語の喋れないレフリーが自分に日本語だけで話しかけるという不利な立場であるにも関わらず、馬場を破って『NWA世界インターナショナル・ヘビー級王座』を奪取したとも書かれており、かなりデタラメな内容となっている。実際には、通常のリング上で試合は行われ、馬場が3本目反則勝ちにより防衛。レフリーは長年のハワイ生活のため母国語である日本語より英語の方が上手だった沖識名で、日本語だけでフリッツに話しかけるわけがなかった。

1967年3月にはブルート・バーナードが「ウィルバー・スナイダーから奪取した」という触れ込みでUSヘビー級王者としてダラス地区に登場。27日にスポータトリアムでフリッツ・フォン・エリックがバーナード破り王座を奪取。US王座は1968年5月頃からアメリカン王座として認定されるようになるが、フリッツはヘビー級王座を1977年末まで計15度奪取した。US王者フリッツは、1967年7月3日、ダラスとフォートワースの間にあるアーリントンのターンパイク・スタジアムに12,000人の観衆を集めて開催されたNWA世界ヘビー級選手権試合で、世界王者ジン・キニスキーに挑戦。それぞれ1本ずつ取った後、両者とも続行不能とリングドクターが判断し、キニスキーの引き分け防衛となった。

1968年2月、エド・マクレモアが心臓発作を起こす。以降、プロレス興行における日常業務からは手を引き、ジャック・アドキッソンに一任していく。

4月4日、テネシー州メンフィスでマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺される。喪中の意味も込めてか、4月9日のスポータトリアム大会は中止となった。

12月17日のスポータトリアム大会では、フリッツ・フォン・エリック & ダン・ミラーがドン・ジャーディン & ゲリー・ハートを破りアメリカン・タッグ王座を奪取。だが、この日がエド・マクレモアの名がプロモーターとして記載される最後の大会となり、約3週間後の1969年1月9日に他界。ジャック・アドキッソンがテキサス州東部の実権を握ることとなる。

エド・マクレモア
1939年から1969年までの30年間ダラスでプロレスの興行を続け、スポータトリアムのオーナーとして『ビッグ・D・ジャンボリー』など音楽イベントも開催。

また、1969年に入るとジョニー・バレンタインが約11年ぶりにダラス地区に参戦。2月28日にはヒューストンでダン・ミラーを破りテキサス州ヘビー級王座、5月2日には同じくヒューストンでフリッ・フォン・エリックを破りアメリカン・ヘビー級王座を奪取した。以降フリッツとアメリカン王座を、ワフー・マクダニエルと州王座を巡って抗争を展開。

2月11日、フロリダ州タンパでドリー・ファンク・ジュニアがジン・キニスキーを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。地元テキサス州西部はもちろん、米国南東部一帯およびカナダ西部で防衛を続けた後、ダラス地区に来たのは半年以上経った9月に入ってからだった。8日にフォートワースでジョニー・バレンタイン、9日ダラスでワフー・マクダニエルを相手にそれぞれ引き分け防衛。

モリス・シーゲルの撤退、そしてエド・マクレモアの他界により、テキサス州東部を手中に収めたジャック・アドキッソン。翌1970年の全米人口調査によると、市別人口順位としてヒューストンが6位、ダラスが8位に入っており、これらの大都市を含む同地においてプロレス大国を築き上げていくことになる。

1969年12月末時点での選手権保持者:


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