1970年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ドリー・ファンク・ジュニア
- アメリカン・ヘビー級: フリッツ・フォン・エリック
- アメリカン・タッグ: ボリス・マレンコ & ロード・チャールス・モンタギュー
- 州ヘビー級: ジョニー・バレンタイン
- 州女子: エベリン・スティーブンス
- 州ブラスナックル: ブル・カリー
ヒューストンのモリス・シーゲルやダラスのエド・マクレモアといった長年テキサス州東部を牛耳っていたプロモーター達の撤退および他界により、1960年代が終わる頃にはジャック・アドキッソンが同地区を手中に収めていた。フリッツ・フォン・エリックの名で選手としても同地区の頂点に君臨していたが、NWA会員としての本拠にしていたダラス地区も1970年代に入ると、このブログにどうしても書きたくなるような大きな問題も特になく、しばらくの間安泰が続いた。
1970年に突入すると間もなく、歴史に名を残すことになる選手がダラス地区に初登場。前月ロサンゼルスでグレート小鹿に敗れNWAアメリカス・ヘビー級王座を明け渡し、1月にテキサス州に転戦してきたミル・マスカラスだ。1月19日のフォートワースのノースサイド・コロシアム大会ではメインイベントのチェーン・デスマッチでボリス・マレンコとワフー・マクダニエル、セミファイナルではキラー・カール・コックスとニック・コザックが対戦。そしてセミの前には特別試合としてジョニー・バレンタインとビリー・レッド・ライオンズの対戦が予定されていたが、欠場したライオンズに代わりマスカラスが出場し、なんとあのバレンタインに勝利を収めた。
マスカラスは翌20日のダラスのスポータトリアムでゲリー・ハートを破り同会場初戦を飾った。メインイベントでは前日ボリス・マレンコに敗れたワフー・マクダニエルがアントニオ・プグリシと組み、マレンコ & ロード・チャールス・モンタギューからアメリカン・タッグ王座を奪取し、タッグではあるがとりあえず雪辱を果たす形となった。マクダニエルは更に翌週26日フォートワースでジョニー・バレンタインを破りテキサス州ヘビー級王座を奪回。前年秋から同王座を巡って繰り広げられてきた両者による抗争は翌1971年春まで続くこととなる。

ダラスから63キロほど北にあり、19年後には自分も住むことになるデントンにおいても、抗争中のワフー・マクダニエルとジョニー・バレンタインが対戦。
1970年3月2日、フォートワースでNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアがジョニー・バレンタインを相手に引分け防衛。新聞記事には詳細がないが、両者リングアウトや反則とは書かれていないので60分時間切れだった可能性が高い。翌3日にはスポータトリアムでフリッツ・フォン・エリックが挑戦する予定だったが、「日本からの飛行機が遅れた」という理由で、ワフー・マクダニエルが代わりに挑戦するも、60分時間切れ引き分けで王座奪取には至らなかった。当時の世界ヘビー級王者にとっては通常だったが、ドリーもまた2日連続でフルタイム試合した可能性がある。
実は2月27日から3月7日まで日本プロレスの『アイアン・クロー・シリーズ』に、その名のとおりフリッツが参戦していた。つまり、最初からドリーに挑戦するのはマクダニエルで、切符を売るためにフリッツが自ら挑戦すると宣伝していた可能性がある。フリッツは10ヶ月後の1971年1月4日、フォートワースで改めてドリーに挑戦するが反則負けで王座を逃す。1972年にも少なくとも5度ドリーに挑戦した。

1970年秋から約1年ダラス地区で活躍し、同王座を巡ってフリッツ・フォン・エリックとも抗争。
本名はチャールズ・J・カラニ・ジュニアでハワイ系の姓だが、母親は中国人の血が混じっているという説もある。
1972年1月25日、ダラスでフリッ・フォン・エリック & ディーン・ホーがサンダーボルト・パターソン & ジョニー・バレンタインを破りアメリカン・タッグ王座を奪取するが、その後約2年間、同王座は一時的に封印されたようだ。同王座に代わるような形で、7月14日ヒューストンでテキサス州タッグ王座決定戦が開催。州王座は1966年9月にジャック・アドキッソンが州東部の実権を握ると封印されていた。レッド・バスチェン & ビリー・レッド・ライオンズがジ・アラスカンズ(フランク・モンティ & マイク・ヨーク)を破り復活した王座を奪取。
同じく1972年の6月24日には『パレード・オブ・チャンピオンズ』が開催され、4つの選手権試合が組まれた。同名の大会は1961年から何度か行われていたが、今回はアービングにあるテキサス・スタジアムでの初のプロレス興行で、ダラス地区では動員記録となった2万6千人以上の観衆が集まり、約8万ドル(これを書いている2022年12月時点だと57万ドル = 約7千7百万円と同等)の収益を上げた。メインイベントではNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアが弟テリーのセコンドを禁止されながらもジョニー・バレンタインを相手に60分時間切れ引き分け防衛。スタン・スタージャックはレッド・バスチェンからテキサス州ヘビー級王座、ビリー・レッド・ライオンズはザ・スポイラーからアメリカン・ヘビー級王座をそれぞれ奪取。世界ミゼット王者ロード・リトルブルックはカウボーイ・ランを破り防衛。ミル・マスカラスはジ・アラスカンに勝利。また、通常メキシコ以外ではあまり試合をしていなかったエル・サントも出場し、ホセ・ロザリオと組みテリー・ファンク & ミスター・フジに勝利。

1973年4月、フリッツ・フォン・エリックは再び日本プロレスの『アイアン・クロー・シリーズ』に参戦。たった6大会しかない日プロ最後のシリーズだったが、18日には焼津でキラー・カール・クラップと組み大木金太郎 & 上田馬之助を破りインターナショナル・タッグ王座を奪取。実はフリッツが同王座に関わったのはこれっきりだった。日プロ閉鎖後、アマリロ地区に『管理が移動した』とされる同王座は、その後カール・フォン・スタイガーがフリッツと交代したということになっており、結局5月26日アマリロでドリー・ファンク・ジュニア & テリー・ファンクがクラップ & スタイガーから奪取(当日は土曜で新聞に結果が載らないテレビマッチの日だったため、実際の記録は見つかっていない)。その後1975年2月にサンアントニオでジャイアント馬場 & ジャンボ鶴田が奪取し全日本プロレスの管理になるまで、アマリロ地区が一時的に預かるような結果となった。
1973年5月24日、カンザス州カンザスシティでハーリー・レイスがドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界ヘビー級王座初栄冠。7月20日、ヒューストンでジャック・ブリスコとの試合前にサム・マソニックNWA会長から日本で『レイス・モデル』と言われるドーム型のベルトを授与されるが、皮肉にもその試合でブリスコに敗れ2ヶ月の短命に終わる。この王座移動劇の背景として、ジュニアがブリスコに王座を直接明け渡すということにドリー・ファンク・シニアが難色を示したので、マソニックが『つなぎ』として間にレイスを入れたという説がある。ブリスコの新王者としてのダラス地区初登場は9月で、24日にフォートワースでホセ・ロザリオ、25日ダラスでイワン・プトスキーを相手に防衛。
7月31日、ブラック・ゴードマン & ゴリアスの名コンビがスポータトリアムに初登場。前日フォートワース大会にも出場したがそれぞれシングル戦でゴードマンがタイガー・コンウェイ・ジュニア、ゴリアスがラ・パンテラ・ネグラを破った。タッグとしての地区初戦ではラウル・マタ & ホセ・ロザリオに敗れるが、翌週8月6日にはフォートワースでロザリオ & イワン・プトスキーからテキサス州タッグ王座を奪取。11月30日にヒューストンでロザリオ & ミル・マスカラスに敗れるまで保持した。
10月15日には未来の世界ヘビー級王者がダラス地区に参戦。当日フォートワースでソニー・キング、翌日のスポータトリアムと17日のサンアントニオではデール・ルイス、18日はコーパスクリスティでブラックジャック・マリガン、そして19日のヒューストンではタイガー・コンウェイ・ジュニアと、5連敗のままAWAに戻って行ったという、前年デビューしたばかりのリック・フレアーだった。
10月末、ダラスから約53キロ離れたところにあるコリンスという町で、市会議員の1人が1975年4月までの任期を残したまま個人的な事情を理由に辞任。市長は長年同地の市民として信頼もあるジャック・アドキッソンに、次回の選挙まで議員として加わるよう依頼。受託したジャックは早速11月2日の議会から出席。プロレスラーとして政界に進出したのは1989年に参議院議員となったアントニオ猪木が有名だが、小さな町村だと、もしかしたらそれ以前にも色々いたのかもしれない。
12月11日、ダラスでNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコがジョニー・バレンタインを相手に王座防衛。12月28日には珍しく世界ジュニアヘビー級王座もダラスで防衛。王者ケン・マンテルがドン・セラノと対戦するが、あくまで前座扱いだった。そんなマンテルだが8年後にはダラス地区に大きな影響をもたらすことになる。
1969年から1973年にかけて同王座には5度就いた。長年テキサスで人気選手として活躍していたが、後年WWFでもショーン・マイケルズの師匠として全国的に脚光を浴びる。
年が明けて間もない1974年1月7日、フォートワースでNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコが前王者ハーリー・レイスを破り王座防衛。翌日にはスポータトリアムで元王者ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦し、60分時間切れ引き分けで防衛した。ブリスコはドリーよりもダラス地区に頻繁に参戦し、同年は他にもブラックジャック・ランザおよびマリガン、ジョニー・バレンタイン、レッド・バスチェンらを相手に防衛した。
1月22日には復活アメリカン・タッグ王座決定トーナメント決勝がダラスで行われ、ブラックジャック・ランザ & ブラックジャック・マリガンがサモアンズ (アファ & シカ)を破る。9月23日にはフォートワースでテックス・マッケンジー & ジョニー・バレンタインがブラックジャックスから奪取するが、10月にバレンタインが地区を離脱すると王座が空位となり、その後約4年間、再び休止状態となった。
4月29日、ボブ・ループがフォートワースで若手を相手に2試合を行った。セミファイナルでダグ・サマーズを破ったループは第一試合にも出場し、照明を落として試合をするという『ライツアウト・マッチ』でフランク・グーディッシュにも勝利している。ブルーザー・ブロディのデビューについては1973年という説もあるが、その年のダラスやフォートワースの試合記録はもちろん、アマリロ地区やオクラホマ地区の新聞記事を探しても名前が見つからないことから、おそらくこの日がデビュー戦だった可能性が高い。だが、何故その新人選手が因縁の無い選手を相手にライツアウト・マッチで対戦させられる羽目になったのやら…。
同じく4月には、ウェートリフティングでミュンヘン・オリンピックに出場したケン・パテラがダラス地区に初登場。16日にはフォートワースで、同じく同地区初登場のスタン・ハンセンに勝利。ハンセンは数試合したのみで再びアマリロ地区に戻り、後からダラス入りするフランク・グーディッシュとはすれ違いする形となったが、その後2人はオクラホマ地区に転戦し、同地区認定USタッグ王座を奪取。
一方、ケン・パテラは、1974年の夏頃、ビリー・グラハムとの怪力同士の抗争を展開。6月18日にスポータトリアム、7月1日にフォートワースで行われたウェートリフティング対決ではパテラが勝利するが、7月16日には通常のスポータトリアムではなく1万人以上収容のメモリアル・オーディトリアムにて、特別レフリーにブル・カリーを迎えメインイベントで対決。プロレスの試合としてはダラス初登場のグラハムに軍配が上がった。
1950年代や60年代のような激震も無く、数年間安泰の続いたダラス地区。1970年代後半には次世代のスター達が続々誕生することになる。
1974年12月末時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ジャック・ブリスコ
- アメリカン・ヘビー級: フリッツ・フォン・エリック
- 州ヘビー級: エル・グラン・マルクス
- 州タッグ: 空位
- 州ブラスナックル: ブラックジャック・ランザ
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Dallas Morning News
- Ft. Worth Star-Telegram
- Houston Chronicle
- World Class Memories
- LegacyOfWrestling.com: Dalls Wrestling Results