1975年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ジャック・ブリスコ
- アメリカン・ヘビー級: フリッツ・フォン・エリック
- 州ヘビー級: エル・グラン・マルクス
- 州タッグ: 空位
- 州ブラスナックル: ブラックジャック・ランザ
1974年4月末にフォートワースでデビューしたと思われるフランク・グーディッシュは、その後オクラホマ地区に転戦し、年末に近くなる頃にはスタン・ハンセンと組んで同地区認定USタッグ王座を奪取。以後、同王座を合計3度保持し翌年夏まで防衛を続けた。1975年秋になるとアマリロ地区に移りウェスタン・ステーツ・ヘビー級王座、更には12月にフロリダに転戦し同州ヘビー級王座を奪取。1976年5月にはペンシルバニア州フィラデルフィアで行われたWWWFのテレビマッチ収録に出場し『ブルーザー・ブロディ』としてデビュー。その後、再び本名でアマリロ地区に戻るが、7月には本格的にWWWFに参戦、翌1977年2月5日フィラデルフィアでWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルティノに挑戦し敗れるまで同地区で活躍した。
1975年2月、キム・ドク(タイガー戸口)がインディアナ州のWWA地区からダラス地区に転戦。3日にはフォートワースでドン・セラノ、4日スポータトリアムではダグ・ギルバートに勝利した。6月下旬にまで同地区に滞在し、その後AWA地区に転戦。
8月1日にはヒューストンでジノ・ヘルナンデスがデビューし、エル・タルタロに勝利。18日にはフォートワースでエル・グラン・マルクス、翌日にはスポータトリアムでジェフ・ポーツと対戦し、ダラス地区初登場は二連敗に終わった。
同じく8月1日から3日にかけて、ルイジアナ州ニューオリンズでNWA年次総会が開催。1950年から1960年、そして1963年以来通算22年会長を務めたサム・マソニックが辞任。マソニックは1972年8月にネバダ州ラスベガスで開催された総会でも辞任の意思を示したが、会員達の説得によりやむを得ず3年間続投していた。新会長にはジャック・アドキッソン(フリッツ・フォン・エリック)が就任したが、それまでマソニックが管理していた世界ヘビー級王者のブッキング権はジョージア州のジム・バーネットが受け継ぐことになった。
11月7日ヒューストンで、10年後にAWA世界ヘビー級王座を巡って抗争を繰り広げることになるリック・マーテルとスタン・ハンセンが対戦、マーテルに軍配が上がった。ハンセンにとっては、全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ』で初来日を果たした後、米国に戻って最初の試合だった。両者は10日、フォートワースで再び対戦するが引き分けに終わる。年が明けた1976年1月13日に行われたスポータトリアムでの再戦ではハンセンが雪辱を果たした。
12月10日、フロリダ州マイアミでテリー・ファンクがジャック・ブリスコを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。
アンドレ・ザ・ジャイアント vs モンゴリアン・ストンパー
ダラス地区テレビ局WFAAによる映像
1976年6月5日、アービングのテキサス・スタジアムに17,000人の観衆を集め、『スーパーボウル・オブ・レスリング』が開催された。メインイベントではNWA世界ヘビー級王者テリー・ファンクにフリッツ・フォン・エリックが挑戦するが両者リングアウトに終わった。セミファイナルではエル・サント & ホセ・ロザリオがキラー・ティム・ブルックス & ポール・パーシュマン (ロード・アル・ヘイズの代打)を破った。アンドレ・ザ・ジャイアントも出場し、ハンディキャップ戦でザ・ストンパー & J・J・ディロン(日本ではジム・デュラン)に勝利。
8月2日、フォートワースのノース・サイド・コロシアムでフリッツ・フォン・エリックの次男ケビンがポール・パーシュマン(バディ・ローズ)を破りデビュー戦を飾った。また当日はジノ・ヘルナンデスが、後にサンアントニオ地区で『ダイナミック・デュオ』のタッグパートナーとして共に大活躍することになるタリー・ブランチャードに敗れた。ケビンは10日、スポータトリアムに初登場し再度パーシュマンを破るが、パーシュマンは欠場したリック・マーテルの代打だったことから、2日のフォートワースでのデビュー戦も、もしかしたら予定されていた対戦相手はマーテルだった可能性がある。
8月7日にはネバダ州レイクタホでNWA年次総会が開催。フロリダ州のエディ・グラハムが会長に選出され、ジャック・アドキッソンは、自身の伝記には長年会長を務めたようなことを書いていたが、実際の任期は僅か1年だった。それ以後はセントラルステーツ地区のボブ・ガイゲルとミッドアトランティック地区のジム・クロケット・ジュニアが1~3年ずつの任期を交互に繰り返し会長を務めた。長年全体をまとめてきたサム・マソニックの辞任後は、会員達が協力し合う目的で結成された組織としてのNWAは下降線を辿る一方だった。
1977年2月6日、カナダのトロントでハーリー・レイスがテリー・ファンクを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。
同じく2月、WWWFを離脱したばかりのブルーザー・ブロディが、「1月3日にジョージア州アトランタでフリッツ・フォン・エリックから奪取」という触れ込みで、アメリカン・ヘビー級王者としてダラス地区に登場。新リングネームでの再デビューであるにも関わらず破格の扱いだったようだ。2月8日のスポータトリアム初戦では12人参加バトルロイヤルにも優勝。22日にはスポータトリアムでフリッツを破りアメリカン王座を防衛。両者はその後も同王座を巡って抗争を続けた。
当時、テキサス州最大都市ヒューストンのプロモーターはポール・ボッシュで、NWA会員としてブックイングオフィスを運営していたジャック・アドキッソンの傘下だった。ボッシュは関係者達からの信頼が厚かったようで、時にはダラス顔負けの大会を開催することもあった。1977年5月29日、ヒューストンのザ・サミットにてNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイス、AWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンケル、そしてWWWFヘビー級王座を失って間もないブルーノ・サンマルティノを同時に招くことを計画、3団体の代表格が勢ぞろいすることになった。レイスには前王者テリー・ファンク、ボックウィンケルにはホセ・ロザリオがそれぞれ挑戦することが決定。サンマルティノはマイク・ヨークと対戦、更には世界女子王者ファビュラス・ムーラにスーザン・グリーン、アメリカン・ヘビー級王者ブルーザー・ブロディにフリッツ・フォン・エリック、アマリロ地区認定インターナショナル・ヘビー級王者サイクロン・ネグロにチャボ・ゲレロが挑戦という、当時の米国ではこれ以上にないと言っても過言ではない程の豪華さだった。
だが、メインイベントの時間になってもレイスは現れなかった。目玉カードが中止の危機を迎えようとしていた時、急遽代打で出場したのは、既にロザリオを相手に時間切れ引き分けでAWA世界王座を防衛していたボックウィンケルだった。ノンタイトルとはいえ、ボックウィンケルはテリーも相手に時間切れで引き分け、レイスの穴埋めを見事に務めた。観客が会場を後にしようとしてる中、タクシーでレイスが到着。試合開始が3時だったにも関わらず、夜の興行だと勘違いしていたのだという。この頃からボッシュはレイスやNWAに対して不信感を覚え始めたのか、数年後レイスが再度欠場した際には、NWAに見切りをつけることになる。
翌日、世界女子王者ファビュラス・ムーラは珍しくダラス地区にも登場。フォートワースでの混合タッグ戦でマイク・ヨークと組み、スコット・ケーシー & スーザン・グリーンを破ると、31日のスポータトリアムではグリーンを破り世界王座を防衛した。
同年6月11日、ダラスから南東へ約140km離れたところにあるフェアフィールドで、フリッツ・フォン・エリックの三男デビッドがデビューし、ジョージ・マクリアリーに勝利。20日にはフォートワースで後にグレート・カブキやグレート・ムタのマネージャーとして活躍するゲリー・ハート、28日にはスポータトリアムでの初戦で兄ケビンのデビュー戦の相手ポール・パーシュマンを破った。デビッドは早くも9月6日にはスポータトリアムでNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスに挑戦。おそらくこれが鉄の爪兄弟の一員による同王座初挑戦だと思われる。
NWA世界ヘビー級選手権: ハーリー・レイス [王者] 対 テリー・ファンク
誤解による欠場から約1ヶ月後、レイスは改めてテリーと対戦。
1978年4月17日フォートワースでケビン・フォン・エリック & デビッド・フォン・エリックがキラー・ティム・ブルックス & レロイ・ブラウンを破りテキサス州タッグ王座を奪取。フリッツの息子達にとって初のタイトル獲得となった。
6月25日にはヒューストンでアル・マドリルがネルソン・ロイヤルを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取。だが、その後もロイヤルはカナダ西部のアルバータ州およびサスカチュワン州で防衛を続けた。マドリル唯一のダラス地区での防衛戦は7月18日にスポータトリアムでコロソ・コロセッティを破った試合だが、その直後に病気になり、少なくとも3度予定されていた防衛戦は全て中止。更には、マドリルとロイヤルの再戦が不可能であることを理由にNWAは再びロイヤルを王者に認定した。ロイヤルが王座転落後もカナダ西部で防衛してから、再度認定されテネシー地区で防衛を開始するまでの期間がわずか1週間だったことを考えると、元々マドリルは短期政権に終わる予定だったのかもしれない。
同じく1978年にはフリッツ・フォン・エリックの四男ケリーがデビュー。高校や大学で円盤投げの選手として活躍したケリーの初戦は、一部のウェブサイトなどで5月7日にダラスでポール・パーシュマンが相手だったとされているが、現時点では同地区の新聞でそのような記事は見つかっていない。当時のスポータトリアムの定期戦は毎週火曜で、一時的に日曜に移ったのは同年8月から12月にかけてだったので、日曜だった7日には興行がなかった可能性が高い。8日のフォートワース、9日のスポータトリアムにも出場していないが、実は高校卒業間近だったケリーは12日、オースティンで開催された陸上競技の大会に出場しており、円盤投げの重要な試合を控えた一週間以内にプロレスの試合に出場していたとは考え難い。現在判明している最初の試合は、7月31日フォートワースで行われたゲリー・ハートとの試合なのだが、結果は反則負けだったので、これまたデビュー戦ではない可能性がある。ケリーのスポータトリアム初登場はおそらく8月13日で、ゲリー・ハートを破った後、メインイベントでケビン & デビッドと組み、ハート & キラー・カール・クラップ & キラー・ティム・ブルックスに勝利。
9月10日にはスポータトリアムでデビッド・フォン・エリックがブルーザー・ブロディを破りテキサス州ヘビー級王座を奪取。12月に同じくブロディからアメリカン・ヘビー級王座を奪取した兄ケビンより一足早くシングル初栄冠を果たした。また、テキサス州タッグ王座を保持していたケビン & デビッドは10月15日にスポータトリアムで行われた復活アメリカン・タッグ王座決定戦にも出場、ドリー・ファンク・ジュニア & テリー・ファンクを破り王座を奪取し、州王座を返上した。アメリカン王座は1979年2月19日フォートワースでザ・スポイラー & マーク・ルーインに敗れるまで4ヶ月保持。

テキサスではブルーザー・ブロディとブラスナックル王座を巡って抗争。
10月には再び世界女子王者ファビュラス・ムーラがダラス地区に参戦。だが、8日スポータトリアムでエヴリン・スティーブンスに敗れなんと王座から転落してしまう。翌日フォートワースで奪回するが、ムーラが王座を失ったのは、1968年3月に大阪で巴ゆき子に敗れ約3週間後に浜松で奪回して以来、おそらく10年ぶりだったのではないかと思われる。
12月25日、ブルーザー・ブロディはフォートワースでケビン・フォン・エリックに敗れアメリカン・ヘビー級王座を明け渡すと、翌1979年1月には全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』参戦のため初来日を果たした。
1979年1月8日フォートワースでケビン・フォン・エリックがNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスに挑戦、両者リングアウトでレイスが防衛した。現在判明している限りでは、これがケビンの同王座初挑戦で、ここでもまた弟デビッドが一足早かった可能性がある。
7月23日フォートワースで空位となっていたテキサス州タッグ王座の決定戦が開催され、ブルーザー・ブロディ & ケリー・フォン・エリックがマーク・ルーイン & キラー・ティム・ブルックスを破り、ケリーの初栄冠となった。
11月23日にはミズーリ州セントルイスでケビン・フォン・エリックがディック・マードックを破り、日本では『世界王座への登竜門』として知られる同州ヘビー級王座を奪取。ケン・パテラに敗れるまで約5ヶ月保持した。
ブルーザー・ブロディの台頭、そしてフリッツ・フォン・エリックの息子達やジノ・ヘルナンデスらのデビューにより次世代のスター達が続出し、未来への期待が膨らんだかと思われた1970年代のダラス地区だったが、それも束の間、激動の1980年代を迎えることになる。
1979年12月末時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ハーリー・レイス
- アメリカン・ヘビー級: ブルーザー・ブロディ
- アメリカン・タッグ: ホセ・ロザリオ & エル・アルコン
- 州ヘビー級: マーク・ルーイン
- 州タッグ: ケリー・フォン・エリック & ブルーザー・ブロディ
- 州ブラスナックル: ダスティ・ローデス
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Dallas Morning News
- Ft. Worth Star-Telegram
- Houston Chronicle
- World Class Memories