テネシー州の2大都市であるナッシュビルとメンフィス。ナッシュビルが州都で市内人口も多いが、近郊を含めた郡全体の人口では、ナッシュビルのあるデビッドソン郡よりもメンフィスのあるシェルビー郡の方が圧倒的に多い。両方とも、世界的に音楽で有名な街だが、同じ州内であるにも関わらず、白人中心のカントリー音楽のナッシュビル、黒人音楽家達によって発展していたブルースのメンフィスと、大きな違いも見られる。
日本でも、力道山から始まり、アントニオ猪木やジャイアント馬場など、プロレス団体の経営者自らが主要選手として活躍してきたが、選手達による地域間の移動の激しいアメリカやカナダでも同様、プロモーター自らトップに君臨することも多かった。いくら選手を育てて売り出しても、よその地域に移られたのであれば、それまでの努力や投資が無駄になるからだ。プロモーターが引退となれば、その息子をトップに仕立てることもあった。有名なところでは、ダラスのフリッツ・フォン・エリックの息子達やカルガリーのスチュ・ハートの息子達と娘婿達。1950年代後半のカンザスシティでは、オービル・ブラウンの息子リチャードがトップだった。他にも、インディアナポリスWWAのディック・ザ・ブルーザーが娘婿のスパイク・ヒューバーを売り出しておきながら、離婚したため地域から追い出すということがあった。テネシーも例外ではなかった。
1980年代以降プロレスファンになった人達には意外に思えるかもしれないが、1940年代から1970年代後半まで、テネシーのプロレスの中心地はナッシュビルだった。
当時のプロモーターはロイ・ウェルチとニック・グラス。この2人が築き上げた南部における一大勢力については『もう一つの「ミッドサウス」』をご覧いただきたい。
1976年になると、ウェルチの健康状態が悪化、メンフィス地区のブッキングを傘下選手だったジェリー・ジャレットに任せることになる。
当時ニック・グラスは息子のジョージを売り出していた。ジョージは、お世辞でも巧い選手だとは言えなかったらしく、今でも当時同地区のプロレスを観ていたファンの間では、名前を出すだけで『ネタ』扱いされるほどの存在だ。「我々はジョージ・グラスがテレビに出る度に、拷問を受けているような気がした。」や、「そのなんとかって選手、いくら下手とはいえ、ジョージ・グラスよりはマシだろうな。」といった具合だ。
ジョージの売り出しに強く反発していたジャレットは、水面下でグラス派からの離脱を計画。1977年2月、ジャレットはついに独自の興行会社を設立、当時既にトップ選手だったジェリー・ローラーを含むグラス派の選手の大半がジャレット派に加わることに同意した。
また、ジャレットはグラスから、「5万ドル払ったら、団体のマイノリティオーナー(所有権の半分以上を所持しているマジョリティーオーナーに対する、半分以下を所持)にさせてやる。」と言われ、資金を用意したが、渡された書類は既に無効になっていたもので、結果大金をだまし取られ、これが2人の関係に止めを刺したという説もある。グラスは選手達への支払いが悪いことで有名で、選手の大半がジャレット派に流れたということからも、この説の方がジョージに関することよりも、ジャレットが離脱を決意した理由である可能性が強いと思われる。
3月12日には、WHBQが17年間毎週土曜日に放送していたプロレス中継をキャンセル。19日には、別局WMCでジャレット派のスタジオマッチが初放送される。毎週月曜にメンフィスのミッドサウス・コロシアムで興行していたグラスに対抗し、ジャレットは20日から毎週日曜クック・コンベンションセンターでの試合を開始。14日にグラス派の大会に出場した選手達の多くが5日後にはジャレット派のテレビマッチ、そしてその翌日にはクックでのジャレット派旗揚げ戦に出場し、同地区認定南部ヘビー級およびタッグ王座もまるごとジャレット派に移動するという事態が発生した。
21日のグラス派による試合には、NWA加盟団体であることを利用し、デトロイトから黄金カードとして、ザ・シークとボボ・ブラジルが急遽参戦。ジョージ・グラスは勿論、トージョー・ヤマモトやバウンティ・ハンタースといった一部の選手達はグラス派に残留したが、スター選手に欠けるラインナップではジャレット派に太刀打できず、前日のジャレット派興行が8,256人を動員したのに対し、2,002人という散々な結果だった。また、4月24日には、NWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスがジャレット派に出場。グラスも引き続きシークを起用したり、ジェリー・ローラー以前の同地区のトップだったジャッキー・ファーゴを出場させたりしたが、5月9日の動員数は484人だった。当然のことながら、グラスはメンフィスから撤退した。皮肉にも同年9月、ロイ・ウェルチが他界。
1978年にはチャタヌーガやケンタッキー州ルイビルでも両派は衝突し、ルイビルでもグラス派が撤退したが、チャタヌーガではジャレット派の進出が短命に終わった。
グラスは1978年7月、南部ヘビー級王座を復活させ、ルー・テーズを認定したが、翌8月、テーズは王者のままジャレット派に移籍。
同じく8月、メンフィス初のAWA世界ヘビー級選手権試合が行われ、ニック・ボックウィンケルがジェリー・ローラーに反則負け防衛。以後しばらくの間、メンフィスの宣伝用ポスターにはAWAのロゴが記載される。
不思議なことに、ジャレットがナッシュビルに進出することはなく、1979年になると、グラスとの関係も雪解けの状態となり、グラスの興行にジャレット傘下の選手達が出場することも増えた。同年ジャレットはAWAと提携を続けながらも、独自にコンチネンタル・レスリング・アソシエーション(CWA)世界ヘビー級王座を新設したが、その際も表面上のCWA会長はグラスだった。
だがそのグラスも、1980年9月ついに引退、50年近く続いたプロレス人生に幕を閉じる。以後、ジャレットは必然的にナッシュビルにも進出。興味深いことに、メンフィスとは違い、ナッシュビルやルイビルの広告には、1987年頃までNWAのロゴが記載されていた。
1986年4月には、ジャレットの息子ジェフが選手としてデビュー。後にWWFやWCWでも活躍し、今尚現役だ。
尚、引退したニック・グラスが、メンフィスCWAのテレビ番組に出たことがある。1989年4月当時、ジェフ・ジャレットと抗争していたロバート・フラーは、本来テネシーのプロレスは祖父ロイ・ウェルチとグラスが牛耳っていたが、ジェリー・ジャレットが「盗んだ」と主張。実際にグラスにインタビューし、「そうだ、ジャレットはメンフィスだけじゃなくチャタヌーガもバーミンガムも全部俺から盗んでいった。だが、本当に興行権があるのは、俺のパートナーだったロイ・ウェルチの孫であるお前だ。お前こそがCWAのプロモーターであるべきだ。」と言わせた。
1980年代中頃には、WWFやNWA系クロケット派が全米進出を開始、生き残っていた多くの地方団体が閉鎖したが、そういった状態の中でもジェリー・ジャレットは、1996年12月に共同経営者だったジェリー・ローラーに団体を売却するまで、メンフィスのプロレスを守り続けた。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Commercial Appeal
- Legacy of Wrestling
