1935年1月時点での選手権保持者:
- 世界ヘビー級: ジム・ロンドス
- 世界ライトヘビー級: レロイ・マクガーク
- 世界ミドル級: ガス・カリオ
- 世界ジュニアミドル級: ジャック・ゴーマン
- 世界ウェルター級: ジャック・レイノルズ
- 南部ヘビー級: ビリー・エドワーズ
1935年1月31日、デラウェア州の国会議員ジョン・ジョージ・スチュアートが、「今やプロレスは喜劇に代わる大衆娯楽であり、その人気にはボクシングも押され気味だ。ボードビルに飽きたファンは、技術的なレスリングには興味を示さず派手なアクションを求めたが、それにプロモーター達が反応したんだ。ボクサー達も、試合に勝つだけではなく、各地でいい試合を見せ続けないと、ファンを取り戻せないかもしれない。」と発言。1930年前半の米国で、いかにプロレスが地位を確立できていたかが判る一言だ。
ダラスでも、前年テキサス州労働局が南部ヘビー級選手権を設立、同地区認定初の本格的なヘビー級王座を中心に隆盛を見せていたが、更に同地においてプロレスが長年定着するのを予想させる出来事が起こる。
1935年11月25日、ダラスのプロモーター、バート・ウィロビーは、毎週火曜に試合が行われていたフェアパーク・アリーナでの最後の大会を開催。そして12月1日、新会場の開館が発表された。当初は、新聞記事などでも、単に『レスリング・アリーナ』としか紹介されていなかったが、年が明けると間もなく『スポータトリアム』という名称が定着するようになった。10,000人収容だと言われていたが、12月9日の初興行では観衆8,500人と発表。実際の収容人数は6,400人だが、いずれにせよ新会場での初興行は満員で成功に終わったと思われる。

メインイベントではビリー・エドワーズがピート・シューを破った。
1936年2月7日、州南部のヒューストンで、世界ヘビー級王者ダノ・オマホニーにテキサス州王者レオ・サベージが挑戦したが、トップロープ越しにリング下に転落したサベージが負傷。結果、州コミッショナーのフレッド・ニコルズは両社による後日の再戦を命じた。翌8日、ヒューストンから80キロほど離れたメキシコ湾沿いのガルベストンで、オマホニーは南部王者ホアン・ウンベルトと対戦予定だったが、来場はしたものの、試合をせずにマネージャーのジャック・マグラスと共に会場を去った。ニコルズは、オマホニーとマグラスに3日以内に事情を説明することを要請したが返事はなく、少なくともテキサス州内ではオマホニーの世界王座を剥奪することを発表。同時にNWA(アソシエーション)会長ハリー・ランドリー大佐にもオマホニーの謹慎を依頼。NWA傘下の全州でオマホニーに謹慎処分が下ったが王座は剥奪されなかった。
だが、翌3月2月、ニューヨークで、ジャック・カーリーら有力プロモーター達に不満を抱いていた挑戦者ディック・シカットが単独行動に走り、オマホニーに対して「仕掛ける」ことにより世界王座を強奪。NWA(アソシエーション)やAWA(ボストン)は引き続きオマホニーを認定したが、王座が空位となっていたテキサス州では5月10日、オマホニーが再戦を避けた州王者レオ・サベージを世界王者として認定することが発表された。一方NWAは9月の年次総会で正式にオマホニーから王座を剥奪。その後もサベージはテキサス州で世界王者として活動し続けたが、頻繁に王座を防衛していたヒューストンとは違い、ダラスでは新聞記事上でも『州内のみで認定された世界王者』として紹介され、防衛戦も殆どなく、メインイベントで起用されることはあったが基本的にヘビー級の主要選手の1人としての程度でしか扱われてなかったようだ。サベージは1937年春、州を離脱したため、王座は空位となった。

1937年4月30日、ヒューストンで行われた世界王座決定戦で、チーフ・ジョー・リトル・ビーバー(後年活躍したミゼット選手リトル・ビーバーとは別人)がカール・デービスを破り王座奪取。5月4日にはダラスでもソル・スレーゲルを相手に45分時間切れ引き分けで防衛。だがビーバーは5月14日、ヒューストンでエベレット・マーシャルに敗れ、2週間の短命王者に終わる。マーシャルは5月18日、早速ダラスにも登場し、前週世界王座挑戦権をかけてビリー・エドワーズを破ったソル・スレーゲルを相手に2本ストレート勝ちで王座防衛。更には翌1938年の総会でNWA(アソシエーション)からも認定された。
独自の世界ヘビー級王座を認定していたテキサス州だったが、世界ジュニアヘビー級王座も、1935年2月頃から2年連続AAU優勝、第1回NCAAレスリング選手権準優勝のラルフ・ハモンズがNWA(アソシエーション)王者を名乗っていた。実際には、NWAは1936年4月ハリウッドでトーナメントを開催、優勝したアルビン・ブリットが正式に認定されるのだが、テキサスではダラスだけではなくヒューストンでもハモンズが1937年春頃まで引き続きNWA王者として防衛していた。
ダラスから約50キロ西にある双子都市関係のフォートワースでは、世界ジュニアミドル級選手権が認定され、1933年11月頃レス・トリブルから王座を奪取したジャック・ゴーマンが保持していた。ゴーマンは、場所によっては米国王者として認定され、1933年12月にはテキサス州ロングビューでタフィー・マクマレン、1934年5月にはオレゴン州ベンドでジョージ・ベネットにそれぞれ敗れたが、その後もアビリーンやアマリロ、ラボックなど、テキサス州西部では王座を主張し続けていた。1937年11月頃からは再びダラス近郊に戻り、ダラスから約90キロ南西にあるコーシカーナを拠点に活動し始めるが、12月にはレッド・ロジャースに王座を奪われる。ロジャースはクリート・デュヴァルらと抗争し、何度か転落と奪回を繰り返し、1938年の殆どを王者として活躍。だが1939年1月、リー・メトカルフがロジャースから奪取すると間もなく地区を去り、同王座は自然消滅した。
また、1937年には世界女子王者ミルドレッド・バークがダラス地区に初登場。5月24日にはフォートワースでジューン・マルシェと対戦し、8月22日にはダラスでグラディス・ギルマンに勝利。
1938年2月3日、バート・ウィロビーは、毎週火曜のスポータトリアムでの定期戦を、ジュニアヘビー級やライトヘビー級を中心としたものにすることを発表。それまで以上にヘビー級の選手を招くことが困難になったのか、または中量級に重点を置いていたオクラホマ州のサム・アベイの傘下となったのかは明らかにされなかった。しばらくダラスからヘビー級の選手達が消えることが予想されたが、その3日後、ウィロビーの下で数年間監査を担当していたビル・ハドソンが、毎週月曜フェアパーク・ライブストック・アリーナにてヘビー級中心の興行を開始すること発表。ダラスにおける興行戦争の火蓋が切られた。

1953年に改築され、後に世界的に有名になる会場とは、所在地は同じだが収容人数も含め別の建物だった。
写真: World Class Memories
ハドソンは、南部ヘビー級王者ホアン・ウンベルトを主要選手とする予定だったにも関わらず、そのウンベルトはなんと約1ヶ月後の3月3日、フォートワースでカール・サーポリスに敗れてしまう。ハドソンはその後もウンベルトを主力として起用し続けるが、この頃から南部王座の存在が曖昧になり始めたのも事実だ。その後、ヒューストンでは5月20日、ルー・プラマーがウィー・ウィリー・デービスを破り王座を主張したが、隣のルイジアナ州シュリーブポートでは9月26日にレオ・サベージを破ったパープル・フラッシュなる覆面選手が王座主張。そしてフラッシュは10月25日にダラスでマイク・マズルキに敗れるが、マズルキが奪取したのは南部王座ではなくテキサス州王座という発表だった。1939年6月の時点では再びウンベルトがダラスで南部王者に認定。以後、1950年代までダラス地区で南部ヘビー級王座を名乗る選手は現れなかったと思われる。
1938年4月12日、フォートワースでのトム・マービン主催の興行でAWA(ボストン)世界ヘビー級王者スティーブ・ケーシーがソル・スラーゲルを相手に王座を防衛したが、ダラスでは試合をせず、そのままサンアントニオ経由で州を南下し、ヒューストンやガルベストンなどで防衛した。一方ダラスでは5月25日、ビル・ハドソン主催のヘビー級大会に、前年12月にセントルイスでエベレット・マーシャルから世界ヘビー級王座を奪取し、1938年2月にボストンでケーシーに敗れるまで保持していたルー・テーズが参戦。元世界王者の肩書を引っ提げてのダラス初登場では、地元のスターであるホアン・ウンベルトに2本ストレート勝ちを収めた。だが、6月25日、ハドソンはプロレスからの撤退を発表、5ヶ月も続かなかった興行戦争に終止符が打たれた。当時の新聞では、世界大戦勃発の機運が高まり始めたことがプロレス界低迷の原因だとしている。
ハドソンの撤退により、ダラスのプロレス界は再びウィロビーの独占となったが、約半年後の1939年1月、なんとウィロビーは同市のプロレスにおける全ての興行権を売却することを発表。相手は、スポータトリアムを建設した会社『コックス・スティール・アンド・ワイヤー』の社長で同会場のオーナーでもあるウィリアム・コックスが代理人を務める新会社『ダラス・レスリング・クラブ』(DWC)。ヒューストンのモリス・シーゲルの下でマッチメーカーを務めるカール・サーポリスに他4名が加わるとのことだったが、コックスは受託者という立場から、 新会社の登録が正式に完了するまで誰が実権を握るのかは明かさないと明言。サーポリスらは早速2月14日、スポータトリアムでAWA世界ヘビー級王者スティーブ・ケーシーにルー・テーズを挑戦させる。両者が1本ずつ取り合った後、90分時間切れ引き分けに終わった。

新体制になって地盤が狂いかけたのか、1939年5月には元レスラーのエルマー・ガスリーがダラスでの興行許可を申請、29日から毎週月曜の試合を開始し、DWCに対して興行戦争をしかける。地元のスターであるビリー・エドワーズらが参戦したが、施設の不備を無視して会場を使用したり、許容範囲以上の観客を収容するなど、州労働局からの度重なる注意や処分にも関わらず興行を続けた。結局ガスリーがプロレスを続けたのは年末までで、翌1940年8月にはスポータトリアムでのボクシングの興行も試みたが、ライセンス申請に不備があり、これまた失敗に終わった。
再び同地区のプロレスを独占したDWCでは、1939年夏頃から、『コックス・スティール・アンド・ワイヤー』で営業を担当していたエド・マクレモアが、スポータトリアムの興行のマネージャーも務めることになる。9月26日には、NWA(アソシエーション)世界ヘビー級選手権試合を開催、王者ブロンコ・ナグルスキーがイワン・マナゴフを2本ストレート勝ちで破った。
だがそれも表面上の話で、実際には年頭にウィロビーから興行権を買収し、コックスが名を伏せていた中心人物がマクレモアだった。以後、サーポリス経由でヒューストンのモリス・シーゲルと協力、時には敵対しながら、ダラスのプロレス界を盛り上げていくことになる。
1939年12月時点での選手権保持者:
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- Dallas Morning News
- Fort Worth Star-Telegram
- World Class Memories
