ダラス角力史 – 第八章

1940年代前半

カテゴリー: ダラス角力史

1940年1月時点での選手権保持者:

1939年1月、ダラス・レスリング・クラブ(DWC)なる団体が結成され、15年間ダラスでプロレスの興行を続けたバートラム・ウィロビーからスポータトリアムでの興行権を買収した。当初は、誰がプロモーターなのか公表されていなかったが、夏頃からエド・マクレモアという名が新聞記事などでも現れるようになる。

マクレモアは9月26日、NWA(アソシエーション)世界ヘビー級選手権試合を開催し、王者ブロンコ・ナグルスキーがイワン・マナゴフを2本ストレート勝ちで破った。翌1940年1月23日には、再びナグルスキーがスポータトリアムに参戦、ヘンリー・ピアースを2本ストレート勝ちで破り王座防衛。3月7日にはセントルイスでレイ・スティールがナグルスキーから王座を奪取し、6月4日、ダラスでパット・フレイリーを相手に防衛。

NWA(アソシエーション)の会長はミシシッピ州を本拠とするハリー・ランドリー大佐だったが、同団体が認定する世界ヘビー級王座の実権を握っていたのはセントルイスのトム・パックスだった。1930年代後半になると、パックスはヒューストンのモリス・シーゲルと友好関係にあったことから、防衛戦もテキサス州内で頻繁に開催され、ヒューストンで合計3度王座が移動した。

1940年12月には、NWA認定ではなかったが、ビリー・ベナブルが世界ジュニアヘビー級王者としてテキサス州東部に登場。ダラスでも同王座を防衛し、翌1941年春頃まで保持した。米国内の多くの他地区同様、この頃からダラス地区でも比較的大型の選手達による試合が重視され、ライトヘビー級以下の王座は消滅していった。

1941年12月、太平洋戦争が勃発してからも、ダラス地区でのプロレスは続けて開催された。12月23日のスポータトリアムでのメインイベント、元南部ヘビー級王者ホアン・ウンベルトとソル・スラ―ゲルの一戦は、前プロモーターのバート・ウィロビーが特別レフェリーを務めた。

翌1942年2月には、テキサス州ヘビー級王座決定トーナメントがスポータトリアムで開催され、後の世界王者ボビー・マナゴフを決勝で破ったホアン・ウンベルトが州王者に認定された。翌3月には、サンダー・ザボーからNWA(アソシエーション)世界ヘビー級王座を奪取したばかりのビル・ロンソンに挑戦するが、フォール負けで王座奪取にはならなかった。4月にはマナゴフがウンベルトを破り州王座を奪取。11月24日、スポータトリアムで世界ヘビー級王者イボン・ロベアが無冠のウンベルトを破り王座を防衛。その3日後にはヒューストンで州王者マナゴフがロベアから世界王座を奪取したことから、州王座は空位になったと思われる。12月1日、スポータトリアムでウンベルトが2週連続で世界王座に挑戦するものの、新王者マナゴフに敗れ、またもや王座奪取失敗。

ボビー・マナゴフ
8ヶ月近くテキサス州ヘビー級王座を保持した後、 1942年11月にイボン・ロベアから世界王座を奪取。

1942年夏、テキサスに『チーム選手権』が登場。チームマッチとは、現在のようなチームの1人が試合をしている最中にパートナーがコーナーで待機し、『タッグ』(タッチ)して交代するというものではなく、4人一度にリングで試合をするという形式だった。6月にはアーニーとエミールのデュセック兄弟が「昨年(ニュージャージー州)アトランティックシティで奪取した」という触れ込みで世界チーム王座をダラスやヒューストンで防衛。そして同年12月にはタッグマッチの選手権も登場する。NWA(アソシエーション)やテキサス州コミッションから認定を拒否されていたにも関わらず、ホアン・ウンベルト & ゴリラ・マシアスが南西部タッグ王座を主張、場合によっては世界王者組としても紹介された。また1943年5月頃から1944年春頃まで、エリス・バシャラ & アンジェロ・シストルディが世界および南西部タッグ王座を保持していたが、この頃はまだ単発的で、州が正式に認定するタッグ王座がダラス地区に現れたのは数年後のことだった。

同じく1942年夏には、元世界ヘビー級王者ルー・テーズが、膝に問題があるにも関わらず陸軍に徴兵される。当然実戦は無理だったが、ドーベルマンを飼いならしていた経験から軍犬の訓練や造船所での金属加工などをしながら1944年末までヒューストンに滞在していたので、ダラスやサンアントニオなどを含むテキサス州東部でのプロレスは続けることができた。

テーズの陸軍入隊後のダラス初登場は、1942年7月14日に4,577人の観衆を集めて行われたスポータトリアム大会でのメインイベントで、元州王者ホアン・ウンベルトに2本ストレート勝ちを収めた。

1943年2月19日、ミズーリ州セントルイスでビル・ロンソンがマナゴフから世界ヘビー級王座を奪取。2度目の栄冠となったロンソンは3月23日、6千人の観衆が集まったスポータトリアムで前王者マナゴフを破り王座防衛。セミファイナルでは元世界王者ロベアがウンベルトと引き分けた。以降、ロンソンは、1947年2月まで4年間世界王者に君臨し、ダラスやフォートワースでもマナゴフやウンベルト、ルー・テーズ、そして世界ジュニアヘビー級王者レロイ・マクガークらを相手に防衛を続けた。

ルイジアナ州やミシシッピ州で世界ライトヘビー級王者に認定されていたジャック・カーティスが、1943年3月にはテキサス州に世界ジュニアヘビー級王者として参戦するが、4月上旬にはNWA(アソシエーション)王者レロイ・マクガークに同州版世界王座も移動していた。以後、ヘビー級同様、ジュニアヘビー級もNWA(アソシエーション)王座がテキサスで認定される。

1944年4月21日、ヒューストンでテキサス州ヘビー級王座決定戦が開催され、陸軍で滞在中だったルー・テーズがハンス・シュナーベルと対戦。テーズが勝利するが、試合中にトップロープ越しに場外へ投げられたことを理由にシュナーベルが抗議。5月21日の再戦で改めてテーズが勝利し、州王者に認定された。それまで単発的なものが多く、長くても3年継続しなかった州ヘビー級王座だが、この試合から1991年夏までの47年間、テキサス州東部に定着することになる。6月20日には満員のスポータトリアムのセミファイナルでボビー・マナゴフを相手に20分時間切れ引き分け防衛。特別レフェリーは、元プロボクシング世界ヘビー級王者で引退後沿岸警備隊に所属していたジャック・デンプシー少佐だった。メインイベントでは世界王者ロンソンがジャック・ケネディと対戦、1本目が終わるとケネディが負傷により続行不能となり、ロンソンが防衛した。同日の興行収益は6千3百ドル以上(現在だと約9万1千ドル)だったという。テーズは6月末ヒューストンで、アーニー・デュセックに敗れるが、8月18日に奪回、12月8日にオラフ・オルソンに敗れ再度王座を失うと、テキサス州を離れる。

NWA(アソシエーション)世界ヘビー級王者や新テキサス州ヘビー級王者らよる防衛戦などによって、比較的順調に終戦を迎えようとしていたダラスのプロレス界。1940年代後半になると、米国南部ならではの選手権も登場する。

1944年12月時点での選手権保持者:


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