ニューイングランドの世界王座(1)

世界ヘビー級選手権

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ニューイングランドとは、米国北東部にある地方で、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、メイン、ニューハンプシャー、バーモントの6州からなる。中心都市はマサチューセッツ州ボストンだが、他にもコネチカット州ハートフォードやロードアイランド州プロビデンスなどが主要都市だ。だが、ブリッジポートやニューヘブン、現在WWE本社のあるスタンフォードなどを含むコネチカット州の南西部は、人口調査などを目的とする統計地域の定義上、ボストンではなくニューヨーク近郊という扱いだ。

1920年代、ボストンのプロモーターとしてニューイングランドを牛耳っていたポール・バウザーは、1910年代には既に全米プロレス界のリーダー的存在になっていたニューヨークのジャック・カーリー、そしてフィラデルフィアのレイ・ファビアニとの勢力争いの真っ只中にいた。

1923年にNFLのフットボール選手としてデビューしたガス・ソネンバーグは、1927年にロードアイランド州を拠点としたプロビデンス・スティームローラーズに入団。チームメートには、隣のコネチカット州出身で1924年のパリ・オリンピックで金メダルを獲り、バウザーの下で数年間プロとしても活動していたレスリング選手ジョン・スペルマンがいた。間もなくソネンバーグはスペルマンからプロレスの特訓も受けるようになり、バウザーに紹介され、1928年1月24日にプロレスラーとしてデビュー。

レスリングの技術面では大して進歩はなかったが、その運動神経と人格を気に入ったバウザーは、多くのファンに飽きられたジョー・ステッカーやエド・ストラングラー・ルイスに次ぐスターとしてソネンバーグを売り出すことを決意。デビューから1年も経たない1929年1月4日、ボストン・ガーデンで統一世界ヘビー級王者エド・ストラングラー・ルイスに挑戦したソネンバーグは、2本ストレート勝ちで王座を奪取。

バウザーと敵対していたニューヨークのジャック・カーリーも、一度はソネンバーグを認定していたが、挑戦者の大半がバウザーの息がかかった選手だという、カーリー派にとって不利な状況も続いたため、1929年7月には、ニューヨークとペンシルバニア両州の体育協会が「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由にソネンバーグから王座を剥奪。ナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)もそれに続いた。8月3日、フィラデルフィアで新世界王座決定戦が行われ、ディック・シカットがジム・ロンドスを破り、ニューヨークおよびペンシルバニア両州体育協会、そしてNBAから王者に認定されたが、ニューイングランドはもちろん、オハイオ州やカリフォルニア州、そしてカナダ東部でもソネンバーグが引き続き認定され、ボストンだけではなくロサンゼルスやモントリオールで王座が移動することもあった。

1930年9月にはNBAのプロレス部門が独立する形でナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)が発足。ジム・ロンドスを世界ヘビー級王者として売り出そうとしていたファビアニとセントルイスのトム・パックスがその背後だと言われているが、それに対抗し、バウザーも1931年6月、アメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)を結成、前月モントリオールでエド・ストラングラー・ルイスから王座を奪取していたヘンリー・デグレーンを正式にAWA世界ヘビー級王者として認定した。

1932年4月、カーリー派の主要選手だった世界ヘビー級王者ジム・ロンドスが突如として派を離脱。NWAは引き続きロンドスを認定したが、急激な勢力低下に襲われ興行面でも打撃を受けたカーリーは同年夏、ついにバウザーと和解する。1934年、ロンドスがニューヨークに復帰し、ニューヨーク体育協会(NYSAC)世界選手権NWA世界選手権を統一するが、それでも興行成績は伸びなかった。

ニューヨークやニューイングランドにはアイルランド系が多いという点に目を向けたバウザーは1934年、傘下のマサチューセッツ州ウースターのプロモーターで友人でもあったジャック・マグラスを、現地での選手の発掘のためアイルランドに送った。そこで、レスラーではないが、軍隊に所属していたダノ・オマホニーを紹介される。ダブリンやイギリスのロンドンでの特訓後、12月6日、ロンドンでエド・ストラングラー・ルイスを相手にデビュー。当初は引き分けで終わる予定だったが、選手としては未熟過ぎるオマホニー相手には試合を続けることは困難だと判断したルイスは数分でフォール勝ちを収めてしまう。散々なデビュー戦だったが、経験不足であるにも関わらず、プロレス界の頂点にいたルイスに立ち向かうという心意気を見込まれ、バウザーとマグラスはオマホニーに渡米させることを決意。1935年1月4日、オマホニーはボストンでアーニー・デュセクに勝利し米国デビューを飾った。

ダノ・オマホニー

デビューから7ヶ月も経たない6月27日、オマホニーはボストンでロンドスを破り、NYSACとNWAから世界王者に認定される。1ヶ月後の7月30日には同じくボストンでエド・ダン・ジョージを破りAWA世界選手権も奪取し、東海岸において1920年代から続いていた世界王座の混乱に、一度は終止符を打ったかと思われた。

その頃、長年カーリーの下で活躍してきた元世界王者ディック・シカットは、派閥内での扱いに不満を抱えていた。1934年になると、それまで以上に負け役を押し付けられることが増え、その上、カーリーのパートナーで給与面では悪名が高いと言われていたトゥーツ・モントからギャラもピンハネされていたことが多かったという説がある。1936年3月2日、シカットはついに単独行動に出て、世界王者オマホニーに対して「仕掛けて」しまい、王座を強奪する。その後シカットはプロモーター達から訴えられ、保持していた世界選手権も再び複数に分派する結果となる。

ニューイングランドでは引き続きオマホニーが認定されるが、1936年7月、イボン・ロベアに敗れる。ロベアは約1年半王座を保持するが、1938年2月11日に予定された試合でルー・テーズの挑戦を受けることを拒否したため、1月25日付でテーズが新AWA世界王者に認定される。

1938年2月にはオマホニー同様アイルランド出身のスティーブ・ケーシーがテーズから王座を奪取。その後、1939年にはガス・ソネンバーグやエド・ダン・ジョージといった元王者達が王座に返り咲いた。

スティーブ・ケーシー

ケーシーは1939年11月、ジョージから王座を奪回するが、半年後の1940年5月にはフレンチ・エンジェルに敗れる。過去にも陸軍に入隊していたことがあったケーシーは、1942年1月、再入隊を命じられ、ボストンから約90kmほど離れたニューハンプシャー州ポーツマスの基地に配属し、米国市民権も獲得した。同年5月にはエンジェルを破り2年ぶりに王座に君臨するが、その夏、基地での訓練中に腰を負傷し、プロレスからの長期欠場を余儀なくされる。長年、ケーシーが「軍役で海外に出たため一時的にプロレスから退いていた」というのが定説だったが、今回改めて調べてみると、選手として欠場中もゲストレフリーを務めたり、米国慰問協会(USO)関連のイベントに参加していたことから、海外には出ていなかったのではないかと思われる。負傷が原因なのか、健康上の理由で1943年後半に軍からの除隊が認められた。

その頃ボストンでは、1943年11月、ザ・ゴールデン・テラーがトーナメント決勝でレオ・ヌマを破り戦時中暫定王者に認定されるが、1944年3月、サンダー・ザボーに敗れる。一方、ケーシーは除隊後、1944年1月からカリフォルニア州北部で王者として認定され、8月にサンフランシスコで1度フレンチ・エンジェルに王座を奪われるが2週間後に奪回。1945年3月にニューイングランドに戻ったケーシーは4月5日、ボストンで戦時中暫定王者ザボーを破り王座統一。更に3週間後の4月25日にはザボーがケーシーから王座を奪取。

左: 1943年11月9日 – 暫定王座決定トーナメントでゴールデン・テラーが優勝
右: 1944年3月29日 – サンダー・ザボーがゴールデン・テラーを破り暫定王座奪取

1945年5月2日、後に長期政権を築くフランク・セクストンがザボーを破り王座を奪取。早くも1ヶ月後の6月6日にはケーシーに敗れ王座を奪われるが、3週間で奪回し、政権交代が現実的なものとなる。1946年1月にはボルティモアでベーブ・シャーキーを破りメリーランド州体育協会認定世界選手権も統一。また同時期オハイオ州でも防衛するようになる。オハイオではコロンバスを中心に長年MWA世界ヘビー級選手権が認定されていたが、1949年に空位になり、そのまま封印。

フランク・セクストン

同じく1949年、ポール・バウザーは前年結成されたNWA(アライアンス)に加盟したが、規約に反して引き続き独自にAWA世界ヘビー級選手権を認定。

1950年5月23日、オハイオ州クリーブランドでの試合でドン・イーグルが勝利し、約5年間続いたセクストンの王座に終止符を打つ。だが3日後の5月26日、シカゴでゴージャス・ジョージに敗れる。新聞には王座に関する記載が無かったためノンタイトル戦だと思われるが、プロモーターのフレッド・コーラーがイーグルの選手としての価値を下げるためジョージに「仕掛ける」よう要請したという説が強い。イーグルは8月31日コロンバスでジョージを破り王座防衛。

イーグルは1952年5月1日、ペンシルバニア州ピッツバーグでビル・ミラーに敗れるが、引き続きニューイングランドでは認定。だが同年、腰の負傷による長期欠場のため、王座を返上する。

この頃NWA(アライアンス)は、独自で世界ヘビー級選手権を認定していた加盟プロモーター達にNWAの選手権のみを認定するよう最終通告を出す。結果、空位となっていたAWA世界選手権は封印され、それに置き換わる王座として東海岸ヘビー級選手権が新設された。5月に分派していたオハイオ州版も1953年に封印。

以後数年間、ニューイングランドでもNWA世界選手権が防衛されるが、1957年、バウザーはNWAを脱退しアトランティック・アスレチック・コーポレーション(AAC)を結成、同年6月にシカゴでルー・テーズを破り短期間NWA世界王者に認定されていたエドワード・カーペンティア(実際には英語でもフランス語の『カルペンティエル』に近い発音)がAACから世界王者として認定され、10月からボストンで防衛し始める。翌1958年5月には、キラー・コワルスキーがカーペンティアを破り王座を奪取。

1960年7月、バウザーが心臓麻痺により他界し、1922年から続いた長期に亘る政権も終焉を迎えた。その後数ヶ月間、モントリオールのエディ・クインがボストンのプロレス界乗っ取りを試みたが、クインが『業界の癌』として毛嫌いしていたジャック・フェファーを味方につけたトニー・サントスのビッグタイム・レスリングに軍配が上がり、バウザーの団体を受け継ぐ。

コワルスキーは、1961年4月にベアキャット・ライトに敗れるまで約3年間世界王座を保持。ライトはまだ2ヶ月も経たない5月末、ジャッキー・ファーゴに敗れる。ファーゴは約3年半王座に就いていたが、1964年11月に地区を離脱。以降、フランク・スカルパの保持するUSヘビー級選手権がボストン地区の主要王座になったが、1967年4月、世界王座決定トーナメントが開催され、決勝でゴリラ・モーガンを破ったスカルパが王者に認定される。スカルパには、エド・ストラングラー・ルイスゆかりのベルトが授与された。

だが同じく1967年にはWWWFが本格的にボストンにも進出し始め、ビッグタイム・レスリングも押され気味となる。更には1969年1月25日、世界王者スカルパが心停止により他界。ビッグタイムは再びUS選手権を主要王座とし、しばらくの間興行を続けたが、1975年に閉鎖。以降、WWWFがニューイングランド一帯も牛耳ることになる。


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