ニューイングランドの世界王座(4)

世界ミドル級選手権

カテゴリー: 各地区版世界選手権

ニューイングランドとは、米国北東部にある地方で、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、メイン、ニューハンプシャー、バーモントの6州からなる。中心都市はマサチューセッツ州ボストンだが、他にもコネチカット州ハートフォードやロードアイランド州プロビデンスなどが主要都市だ。だが、ブリッジポートやニューヘブン、現在WWE本社のあるスタンフォードなどを含むコネチカット州の南西部は、人口調査などを目的とする統計地域の定義上、ボストンではなくニューヨーク近郊という扱いだ。

プロレス史におけるニューイングランドといえば、1922年から1960年までボストンのプロモーターだったポール・バウザーの印象が強いかもしれない。バウザーが1931年からアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)の名称を使い始めてからは、少なくとも王座の面では世界ヘビー級選手権が中心となっていったが、AWA以外ではその他の階級の選手権が認定されることもあった。

1890年代後半、世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ヘビー級選手権および米国ヘビー級選手権を巡ってファーマー・バーンズやトム・ジェンキンスと抗争を繰り広げていたダン・マクラウドは、1893年9月末にカリフォルニア州サンフランシスコで開催されたトーナメントの決勝でジョー・アクトンを破り世界ミドル級王者にも認定された。それらの活躍はニューイングランドの新聞でも報道されていたので、同地においても十分有名だったと思われるが、現在判明している範囲で、最初にマクラウドがニューイングランドにおいて世界ミドル級王者として認定されたのは、1901年9月、コネチカット州ウォーターバリーでのことだ。約1年後の1902年9月には、マサチューセッツ州ウースターにて、ニューヨークを中心とした他地区で米国ミドル級王者を名乗っていたエド・アサートンも破り防衛している。マクラウドは1905年11月引退。

ダン・マクラウド
ヘビー級とミドル級の両方で活躍。

アサートンはマクラウドに敗れてからもニューヨーク州やペンシルバニア州で世界および米国王座を主張し続けたが、1904年1月にはニューヨーク州バッファローでウォルター・ウィロビーに敗れ世界王座、1906年5月にはマサチューセッツ州スプリングフィールドでジム・バーンズに敗れ米国王座から転落している。

アサートンから米国王座を奪取したバーンズは、翌1907年にはニューイングランドの各地で世界王者として認定。1909年5月の時点でも王座を保持していたが、1910年3月の時点では元王者として紹介されている。

一方ボストンでは、サム・アンダーソンが1908年頃から世界王座を主張。1911年5月にはボストンでウォルター・ウィロビーがアンダーソンから奪取するが、その後のニューイングランドでの防衛記録は現在発見されていない。同年秋頃から1913年後半までは、再びアンダーソンが王座を主張していた。この頃のボストンのプロモーターはジョージ・トゥヘイで、1924年までグランド・オペラハウスやメカニックス・ビルディングなどで興行を続けた。

1913年末には、10月にユタ州ソルトレークシティーでクリス・ジョーダンから世界王座を奪取したマイク・ヨークルが、マサチューセッツ州フィッチバーグにて翌1914年1月頃まで王座を防衛。

1914年夏には、ウェイノ・ケトネンがボストンに世界王者として登場。全米各地で乱立し、単発的なものが多かったミドル級選手権だが、ボストンではプロモーターのジョージ・トゥヘイの指揮の下、この頃からしばらく定着することとなる。

ウェイノ・ケトネン
ニューイングランドにて、世界王座を少なくとも8度奪取。

ケトネンは1915年3月、ミネソタ州ダールスでヨークルも破るが、1917年4月にはテキサス州ヒューストンで奪回される。

ヨークルはボストンで、1918年4月にピンキー・ガードナー、1919年3月にはワシントンDCで王者に認定されていたジョー・ターナーも破る。

その後は主に、ケトネン、ガードナー、ヨークル、ジョン・キロニスの間で王座が移動し、特にケトネンとヨークルは何度も奪取した。だが、1921年2月にボストンでガードナーがケトネンから奪回してからは、主にノースカロライナ、バージニア、テキサスといった南部の州に活躍の場を移し、ニューイングランドでは殆ど試合をしなくなる。

同年4月には、ワシントンDCで認定されていたジョー・ターナーが再びボストンに王者として登場するが、11月には再度ウェイノ・ケトネンが認定されていた。

ジョー・ターナー
北はニューイングランド、南はフロリダ州まで、東海岸全域でミドル級王座を防衛。
1937年から1947年の他界までワシントンDCでプロモーターとしても活躍。

だが、1921年後半には、オハイオ州から同地区認定世界ミドル級王者ポール・バウザーがボストンに移転、独自の興行を開始する準備を進めていた。12月には、それまでジョージ・トゥヘイが興行していたはずのグランド・オペラハウスにて新プロモーターによる興行が1922年1月3日に開催、ジョー・ターナーの持つ世界ミドル級王座にバウザーが挑戦することが発表された。案の定、バウザーがターナーを破り、プロモーター自ら王者に君臨することになる。ケトネンもトゥヘイやボストン以外のプロモーターから3月頃までは認定されていた。

バウザーはプロモーター業に専念するため、この頃から試合数を減らしていく。1916年にオハイオで初栄冠してから6年後に王座を返上したという説が強いので、おそらく1922年のことだと思われる。6月には、これまた再びジョー・ターナーが「ケトネンから奪取した」ということでウースターに登場するが、ケトネンに奪回される。ケトネンは1925年6月、ボストンで王座主張者ジョー・パレリも破り防衛。その後少なくとも1933年春頃まではマサチューセッツ州やバーモント州で防衛していたようだ。

ポール・バウザー
オハイオ州から移転してくると間もなくプロモーター業に専念、世界ミドル級王座も返上。

ボストン・アリーナを本拠にしていたポール・バウザーがアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)を発足した1931年6月、同じくボストンのメカニックス・ビルディングを本拠にチャーリー・ゴードンがマサチューセッツ・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足。以降、AWAはヘビー級王座、MWAはライトヘビー級以下を中心に興行を続けていく。

多くの州ではNWA(アソシエーション)世界王者ガス・カリオが認定されていたが、MWAは発足間もなく、元コネチカット州ミドル級王者アル・ヴァントレスを世界王者に認定。翌1932年4月にはテッド・ジャーメインがヴァントレスから奪取するが、約1ヶ月後にはジョージ・マイヤーソンに敗れる。マイヤーソンもまた、ポール・アダムスに敗れ1ヶ月の短命王者に終わる。アダムスは約半年保持した後、1932年11月、ヴァントレスに奪回される。

1932年後半には、メカニックス・ビルディングを拠点にしていたMWAとは別に、ボストン・アリーナを拠点にしていたスティーブ・マクファーソンというプロモーターがピート・スタージスを世界ミドル級王者に認定。1933年2月には、元MWA王者ジョージ・マイヤーソンがスタージスから王座奪取。この頃はケトネンやMWAのヴァントレスと併せて、ニューイングランドに少なくとも3人の世界ミドル級王者が存在していた。

1933年4月、マサチューセッツ州フォールリバーでエド・フラワーズがポール・アダムスからMWA王座を奪取。5月のボストンでの再戦ではアダムスが勝利するものの、体重制限を超えていたため、王座奪回にはならなかった。7月にはマサチューセッツ州セーラムでテッド・ジャーメインがフラワーズを破り奪回、翌1934年1月にルイス・アルチュラーに敗れるまで半年間保持した。同年11月頃には、ギル・ラクロスが王座を保持していたが、その後MWA王座は消滅したと思われる。1930年代後半には、ジャーメインやアダムスらの元ミドル級王者らもMWA世界ライトヘビー級王者として活躍することになる。

一方、スティーブ・マクファーソンが認定するボストン・アリーナ版世界ミドル級王座は、1933年4月にピート・スタージスから奪取したチャーリー・マノリが、6月に他界。秋には再び元王者ジョージ・マイヤーソンが王座を主張し、少なくとも1941年1月までは防衛していた。ボストン・ヘラルド紙では1947年3月の時点でマイヤーソンは既に引退となっている。

米国内の他地区同様、ニューイングランドのプロレス界でも、第二次世界大戦が終る頃になるとミドル級は過去のものとなっていたようだ。

ウェルター級以下になると、ニューイングランド独自のものについての記録が中々見つからないため、今回でこのシリーズは終わり。もし今後他地区に関して似たようなシリーズを始めることがあれば、マイナーな軽量級から始めよっかな。


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