八つのWWA

カテゴリー: プロレス史

これまでのNWAAWA、そしてMWAなど同じ略称を使った複数の団体同様、今回は『WWA』について説明させていただく。

ワールド~アソシエーションやワールド~アライアンス、つまり『世界~協会』や『世界~連盟』という名称の団体というのは世界中に多数存在する。

例えば格闘技系だけでも、歴史を遡ればプロレスとは全く無縁ではないWBAワールド・ボクシング・アソシエーションというのは有名だし、昔は日本でも有名だったキックボクシングのWKAというのもある。当初ワールド・空手・アソシエーションだったのが、後にワールド・キックボクシング・アソシエーションになり、現在はワールド・キックボクシング・アンド・空手・アソシエーションになってるのだが、略称はWKAとして今尚存在し続けている。それとは別に同じWKAでも、世界空手協会というのもあるし、日本にはWKBAワールド・キックボクシング・アソシエーションというのもある。また、総合格闘技でも以前ワールドMMA アソシエーションというのがあったが、2019年にインターナショナルMMA フェデレーションに合併されている。

プロレス界にWWAという略称の団体が多数あるのは当然だ。

今回も例によって、自分が長年運営しているウェブサイト『プロレス選手権変遷史』に載せているWWAの中から1980年代までのものを中心に説明するが、これらの中には、正式な団体ではなく、架空の選手権管理組織も含まれる。

ワールドワイド・レスリング・アソシエイツ
1961年 カリフォルニア州ロサンゼルス

まず1961年カリフォルニア州ロサンゼルスだが、これが昭和プロレスファンの間では最も有名なWWAではないかと思われる。

1950年代初期、ロサンゼルス地区においてNWAの会員として同地区を仕切っていたのは、オリンピック・オーディトリアムで興行していたジョニー・ドイルと、ハリウッドのヒュー・ニコルズだった。元々はライバル関係にあった2人だったが、1949年11月にNWAに加盟後、協力体制へと移行していた。

1954年、ドイルは興行権をカル・イートンとニコルスに売却。だが1956年11月、年会費の未支払いおよび本部からの連絡に対する返事がないことを理由にイートンはNWAを除名され、12月には体調不良だったニコルズが58歳の若さで自殺。こうしてしばらくの間、ロサンゼルス地区では世界ヘビー級王者不在の時期が続く。この間、同地区の主要シングル王座だったのは、インターナショナル・テレビ選手権、そして大半の時期においてビリー・バルガが保持していたアメリカン・ヘビー級選手権だったが、ルー・テーズもインターナショナル・ヘビー級選手権を1958年から1960年にかけて少なくとも二十数回防衛している。

ロサンゼルス地区がNWA加盟ではなくなった約半年後の1957年6月、イリノイ州シカゴでエドワード・カーペンティアがルー・テーズを破りNWA世界ヘビー級王座を奪取。8月下旬にはカーペンティアの王座は無効となるのだが、2年以上経った1959年10月になるとロサンゼルス地区で、カーペンティアがテーズから王座を奪取したとして世界王者として登場するようになり、間もなくカーペンティアの王座はNAWAノースアメリカン・レスリング・アライアンス認定となる。カーペンティアはロサンゼルス地区だけではなく、州北部のサンフランシスコ地区、およびネバダ州、更にはハワイ州でも王座を防衛していく。

1961年6月12日、ロサンゼルスのスポーツアリーナでフレッド・ブラッシーがカーペンティアの保持する世界王座に挑戦するのだが、この時からWWAという略称が使われ始めた。

だが、これは単にノースアメリカンがワールドに変わったわけではなく、最初のWはワールドワイドの略だった。そして最後のAというのは、後に使われるようになったロゴによるとアライアンスでもなければアソシエーションでもなく、アソシエーツとある。今だったら考えられないくらい凄いロゴだ。こんなデザインなら独占禁止法とか関係なくNWAも訴えることができたのではないかと思うのだが、やはり裏では仲良くやってたという理由もあるのかもしれない。

ちなみに同じロサンゼルス地区でも、郊外のサンバーナディノでは1964年までNAWAという略称を使っていた。

1962年3月28日、オリンピック・オーディトリアムに集まった9,200人の観客の前で力道山がブラッシーに挑戦。1本目をリングアウト勝ちした後、curfew (夜間外出禁止令)による時間切れに終わり、レフリーを務めたレッドシューズ・ドゥーガンは王座移動を宣言し力道山にベルトを渡す。ブラッシーは当然激怒し、ドゥーガンのシャツを破るという行為に出る。ブラッシーは、力道山によってベルトを日本に持ち去られただけではなく、レフリーに対する暴行を理由に、カリフォルニア州体育協会から60日間の出場停止と$500の罰金を命じられたということになっている。

だが、プロレス界でいう『出場停止処分』というのは、実際にはその選手が期間中、他地区で試合する場合が多いわけだが、これもまた例外ではなく、ブラッシーは日本プロレスの『第4回ワールドリーグ戦』に参加し、4月23日には東京でのWWA選手権試合で力道山に敗れている。

ブラッシーは 帰国後も抗議を続け、それを受けた『NAWA』は、6月4日でブラッシーを王者に認定。翌7月には力道山が同地区に再び参戦。25日、オリンピック・オーディトリアムで行われたブラッシーとの再戦では、力道山が目のあたりから流血し、レフリーが試合続行不可能と判断するというこれまた不明慮な結果により、ブラッシーが王座を奪回。その後、同王座はNWA、AWA、WWWFと併せて全米4大王座の1つとして、ザ・デストロイヤー、ディック・ザ・ブルーザー、ペドロ・モラレス、バディ・オースティンらが保持していく。

また、1963年8月にはベアキャット・ライトがブラッシーを破り王座を奪取しており、プロレス界の主要選手権としては、初めてアジア人選手や黒人選手が奪取した世界ヘビー級王座としても知られている。

1968年1月、ボボ・ブラジルがオースティンを破り2度目の栄冠を果たすが、その年の10月1日、WWAはNWAに加盟。3日後の10月4日、ブラジルはアメリカス・ヘビー級王座を奪取し二冠王になるが、NWA世界王座挑戦のため12月11日付でWWA世界王座を封印する。

1968年12月18日、一部の新聞で『NWAとWWAの王座統一戦』と報道されたブラジルとNWA王者ジン・キニスキーの一戦には、10,127人がオリンピック・オーディトリアムに集まったが、両者が1本ずつ取った後、時間切れ引き分けに終わる。以後、 ロサンゼルス地区では1982年末のWWFへの身売りまで、アメリカス・ヘビー級選手権が主要王座となり、短期間ながら日本のグレート小鹿やグラン浜田、そしてキッド・コビーこと小林邦昭らも保持。

よくWWA世界王座がNWAアメリカス王座になったと言われるが、アメリカス・ヘビー級王座はその前年5月には既に存在していたので別王座だ。おそらくボボ・ブラジルがWWA王座を封印する少し前にアメリカス王座を奪取しているので、こういう誤解が生じたのではないかと思われる。

ちなみに2000年、李王杓率いる韓国プロレスリング連盟が、このWWAの世界ヘビー級およびタッグ王座が復活したという名目で両王座を認定し、団体名もWWA韓国プロレスリング連盟に変更。当初は大木金太郎、金一がこのWWAの会長だったが、2006年に他界するとその後はしばらくの間アブドーラ・ザ・ブッチャーが会長ってことになっていた。団体自体は2015年に閉鎖したはずだが、ヘビー級王座は2023年の時点でも存在している。

アライアンス
1962年 ジョージア州アトランタ

アトランタのプロモーターだったポール・ジョーンズは1957年に一度NWAを離脱。1962年4月、アトランタの新聞にブラッシーが世界王者として紹介され、約2年ぶりに同地区に復帰することが決定ということが書いてあった。元々ブラッシーは1950年代の殆どをジョージアを拠点とし南部ヘビー級王者として活躍していたので、現地のファンには既にお馴染みだった。実際にブラッシーがアトランタに世界王者として登場したのは6月29日、つまり力道山からロサンゼルス版のWWA王座を奪回する約1ヶ月前のことだった。

6月29日にディック・ザ・ブルーザー、7月13日にレイ・ガンケルをそれぞれ相手にした防衛戦の広告には特に団体名は書かれていなかったが、7月20日の試合の広告にはWWAがブラッシーとガンケルに再戦を要請したと書かれていた。ただロサンゼルスとは違い、ワールドワイド・レスリング・アライアンスとなっていた。

ポール・ジョーンズは1962年NWAに再度加盟するが、既にその時点ではNWA世界王者バディ・ロジャースの日程を追加してもらうのが難しかったのか、引き続き独自で世界王座を認定し、10月にはジェイク・スミスがブラッシーから奪取。その後エディ・グラハムやディック・スタインボーンが王座に就いた。1963年1月にはカナダのオンタリオ州トロントでルー・テーズがロジャースからNWA世界王座を奪回。6月7日にはアトランタで、当時のジョージア版WWA世界王者ターザン・タイラーがテーズに敗れ同王座は封印された。

アソシエーション
1962年ニューメキシコ州アルバカーキ
アルバカーキでは1962年12月、ムース・ショラックがWWA世界王者として紹介される。それも、「11月29日、フィリピンのマニラで力道山から奪取した」という触れ込みだった。力道山は既に7月下旬の時点でフレッド・ブラッシーに王座を奪われていたが、ニューメキシコではロサンゼルス版のWWA世界王座をショラックが奪取したということになっていた。ただしここでのWWAはワールド・レスリング・アソシエーションの略。

1963年7月アルバカーキでブラッシーがショーラックを破り、表面上では王座を奪回し、1964年10月5日にはドリー・ファンク・ジュニアがブラッシーを破る。1965年1月4日、NWA王者テーズがドリーを破り統一。

アソシエーション
1964年 インディアナ州インディアナポリス

インディアナ州インディアナポリスのWWAも日本ではある程度知られている。1972年11月には世界タッグ王座が国際プロレスで防衛されたこともあった。

1964年に入った時点で、インディアナポリスのプロモーターだったのはAWA傘下のボーク・エステスという人物だった。AWAといってもミネソタ州ミネアポリスを拠点とするバーン・ガニアのアメリカン・レスリング・アソシエーションではなく、ジム・バーネットとジョニー・ドイルのアメリカン・レスリング・アライアンスのこと。

当時そのAWAでインディアナ州出身のディック・ザ・ブルーザーがUSヘビー級王座、そしてウィルバー・スナイダーと共に世界タッグ王座にも君臨し、正に同地区の主要選手だった。

だが1964年2月、ブルーザーとスナイダーはインディアナポリスに『Championship Wrestling of Indiana』という新団体を設立、結果AWAから解雇される。

そして4月22日、カリフォルニア州ロサンゼルスでブルーザーはフレッド・ブラッシーを破り、WWA世界ヘビー級王座を奪取。この王座移動はインディアナポリスでも報じられ、3日後の25日のインディアナポリス大会では、早速WWAという名称が使われていた。ただし、ロサンゼルスのWWAがワールドワイド・レスリング・アソシエーツであるのに対し、インディアナポリスのWWAはワールド・レスリング・アライアンスだった。

ブルーザーは王座奪取から丁度3ヶ月後の7月22日、ロサンゼルスでザ・デストロイヤーに敗れ王座から転落するのだが、インディアナポリスでは引き続きWWA世界王座を保持していた。

その後WWAはNWAに加盟しなかったが、AWAと提携するなど、地区制度時代のインディアナ州に一時代を築き上げる。1971年には名称をアライアンスからアソシエーションに変更。

AWAとの提携は1984年頃に終わるが、その後も時折ブルーザーはAWAの大会に出場していた。

ブルーザーは1985年頃選手としてだけではなくプロモーターとしても一線を退き、1986年にはジェリー・グラハム・ジュニアことジェリー・ジャフィーが、インディアナポリスから360km離れたところにあるオハイオ州トレドに本拠を移し、少なくとも1990年までWWAを運営していた。

その後、ジャフィーは2009年頃に再びWWAスーパースター・レスリングという名称で団体を旗揚げするが、翌年パワーボム・チャンピオンシップ・レスリングと改称し、2013年には他団体と合併。

ところで、1990年1月、FMWにビースト・ザ・バーバリアンという選手が初代WWA世界ブラスナックル王者として登場している。この王座はインディアナポリスのWWA認定という名目だったそうだが、前述のとおり、この時点では既にWWAの経営はジャフィーが受け継ぎ拠点もオハイオに移っていたはずなので、表面上だけの話だった可能性が高い。

バーバリアン自身テキサスを拠点にしていたみたいなのでWWAとは全く関係なかったと思われる。当時FMWで開催されたトーナメントに出場した際には、特別立会人として当時ダラス在住だったレッド・バスチェンも来日していたので、もしかしたらバスチェンの推薦か何かでFMW参戦となったのかもしれない。あるいはバスチェンもバーバリアンもダラス在住の某日本人カメラマン経由での来日だった可能性もある。

また、バーバリアンはカリフォルニア出身で、WWFによるロサンゼルス地区買収直前の1982年10月、最後の同地区認定テレビ王者になったビル・アンダーソンからプロレスを教わったらしい。

そしてこのアンダーソン、インディアナやオハイオのWWAではなく、メキシコWWAが認定する初代世界ヘビー級王者だった。

アソシエーション
1986年
メキシコ

このメキシコのアソシエーションは、ベンハミン・モラという、元々『ルチャリブレ』という雑誌の出版社も所有していた人物が1986年に発足した団体。ベンハミン・モラ・ジュニアと呼ばれることが多いのだが、父親のベンハミン・モラ・オルタが、メキシコシティから南東に約130kmくらいのところにあるプエブラを中心に『プロモシオネス・モラ・イ・アソシアドス』という団体を運営していたらしく、1973年に他界した後も友人のフランシスコ・フローレスがモラ・ジュニアの協力で社名を変更せずに会社を継続。1975年NWA系のEMLLと正式に袂を分かち、UWAユニバーサル・レスリング・アソシエーションという選手権管理組織の名称を使って世界王座を新しく認定。

自分はスペイン語も喋れないし、ルチャリブレにはそこまで詳しくないので、モラ・ジュニアが1986年にWWAを発足してからUWAとの関係がどうなったのか定かではない。1987年にフローレスが他界すると甥であるカルロス・マイネスがUWAを受け継いでいるので、もしかしたら1985年や86年頃には既にフローレスの体調がよくなく、マイネスが団体の実権を握り、モラとの関係が悪化したという可能性もある。こういう話も『G Spirits』あたりに書いてそうだが、自分はニューヨーク市内の日系書店にいつでも行ける状況じゃないので殆ど入手できてない。

他にもこのブログで話題に出してることも、もしかしたら既に『G Spirits』に載ってるかもしれないと思いながらも、あくまでこちらで英語の資料を調べながら、なるべくアメリカの観点から説明させていただいてるので、今後もこれまで日本の書物に書かれてきたかどうかはなるべく気にせずに楽しみながらやっていきたいと思いる。

話を戻するが、WWAはカリフォルニア州から国境を越えたところにあるティファナを本拠としながらも時折ロサンゼルス、特に旗揚げ当時はあのオリンピック・オーディトリアムでも何度か大会を開催しており、前述のビル・アンダーソンのヘビー級、そしてライトヘビー級ライト級も初代世界王座決定戦が行われたのは同会場だった。

実はこのWWAこそ、FMWと提携し、1992年5月に開催されたロサンゼルス大会も2団体の合同興行だった。

ただし、FMWにあったWWA世界女子王座も、インディアナポリスのWWAはもちろん、このメキシコのWWAとも関係ないと思われる。同じ頃WWAはメキシコで既に世界女子王座を認定しており、日本でもお馴染みのローラ・ゴンザレスやモンスター・リッパーが保持していたからだ。ちなみに後に浜田文子も奪取したことがある。

また、1996年8月、新日本プロレスが開催したJ-CROWN八冠王座統一トーナメントでは、みちのくプロレス所属だったグラン浜田が当時保持していたWWA世界ジュニアライトヘビー級王座をかけて出場している。

このWWAが正式にいつ閉鎖したのか定かではないし、もしかしたらルチャリブレによくある、一部の王座は選手がほぼ私物化していて何年かに一度忘れた頃に防衛してたりする可能性もあるのだが、モラ・ジュニア自身は2017年7月に他界している。

アライアンス
1987年
カンザスシティ

1963年以来カンザスシティ地区で興行を手掛けてきたボブ・ガイゲルが3度目のNWA会長就任を果たして間もない1986年9月、WWFに対抗して全米に勢力拡大中だったジム・クロケット・プロモーションズがガイゲルから同地区を買収。ガイゲルは引き続きNWA会長を務め、1987年2月、再び同地区のプロモーターとして復帰するが、同年夏頃ジム・クロケット・ジュニアが再びNWA会長に就任。

この頃はクロケットがリック・フレアーの保持する世界ヘビー級王座をほぼ独占しており、テキサス州ダラスを本拠としていたWCCWワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリングや、アラバマ州バーミンガムを中心とした南東部地区のCCWコンティネンタル・チャンピオンシップ・レスリングといった加盟団体が既にNWAを離脱しており、プロモーター達の連合としてのNWAはもはや機能していないのと同然だった。

11月、ついにガイゲルもNWAからの離脱しWWAワールド・レスリング・アライアンスを設立。それまで同地区の主要王座だったセントラルステーツ・ヘビー級およびタッグ選手権に加えて、初代WWA世界ヘビー級王座決定トーナメントの開催も発表。

1988年1月23日に開催された同トーナメントにはサージャント・スローター、トミー・リッチ、デビッド・シュルツと、当時のこの地区にしてはある程度豪華な面子が出場している。新日から海外修行中で渡米していた蝶野正洋も参戦し、リッチに反則負けで一回戦敗退している。決勝ではマイク・ジョージがディック・スレーターを破って優勝。

2月26日には蝶野がジョージを破って王座を奪取し、3月17日に奪回されるまで3週間保持。

1989年2月2日にカンザスシティで全日本プロレスと共同で『International Bash』を開催したのもこのWWAだった。公表では1,000人とのことだが、実際には300人くらいしか入ってなかったという。当時の地元紙を調べても1月22日と29日に小さめに文章が書いてあるだけだったので、もしかしたら大した宣伝もなかったのかもしれない。

またWWAは、AWAやワールドクラスとも提携していたが、結局1990年9月の大会を最後に閉鎖。

後年ガイゲルは「クロケット買収後再びプロモーター業に戻ったことは失敗だったが、もう一度チャンスが周ってくるのではないかと思い再度挑戦してみたかった」と語っていたらしい。引退後はカンザスシティの競馬場で警備員として働いていたが、特に金に困っていたわけではなく、何等かの仕事を続けていたかったということで、時々プロレスファン達から声をかけられるのが嬉しかったという。

セントラルステーツ地区に一時代を築き上げ、NWA会長も通算6年務めたガイゲルだが、2014年10月30日、90歳の人生を全うした。

アライアンス
1988年
ニュージャージー州

バンバン・ビガロ他多くの選手達をこの世に送り出したプロレス学校『モンスター・ファクトリー』のラリー・シャープが、デニス・コラルーゾと経営していた団体。

ヘビー級、ジュニアヘビー級、ウェルター級、そしてタッグと4つの王座を認定していたが、いずれも歴代王者の多くはシャープの教え子だった。

ただ、当時の試合結果を見ていると、大物選手達も出場しており、ジェリー・ローラーがアブドーラ・ザ・ブッチャーやエディ・ギルバート、テリー・ファンクがスタン・ハンセンやボブ・バックランドと対戦したりと、なかなか面白そうな団体だったようだ。

1992年11月にはコラルーゾが独立し、WCWと新日が離脱する直前のNWAに加盟。その後もECWのトッド・ゴードンやスモーキーマウンテン・レスリングのジム・コーネットらがNWAに加盟を希望する中、コラルーゾがNWA会員としての世界ヘビー級王者を招く権利を主張を続けたことに対し、所属選手であるリック・フレアーを小規模団体に派遣することにWCWが難色を示す。それが翌年9月にWCWがNWAを離脱した大きな理由の一つだったという認識だ。

一方WWAは、1990年代後半になると試合結果などの情報があまり見つからないのだが、少なくとも2000年の時点でも団体は存在していたようだ。

モンスター・ファクトリーはその後2010年にダニー・ケージという人物が名称をシャープから買い取り、これを書いている2024年12月の時点でも運営中で、現在WWEでダミアン・プリーストの名で活躍しているパニッシャー・マルティネスや、今年新日にも参戦したマット・リドルらも卒業生だ。

オールスターズ
2001年
オーストラリア 

2001年3月、WWFがWCWを吸収合併したが、実際にはWCWという会社を丸ごと合併したのではなく、団体の名称や商標、選手権および映像の権利を含むブランドとしてのWCWを買収しただけで、WWFが契約を買い取った選手はほんの一部だった。

同年10月、アンドリュー・マクナマスというオーストラリアのコンサートプロモーターが、元WCWの選手らを集めて旗揚げしたのが、このWWAワールド・レスリング・オールスターズだ。

このWWAは、オーストラリアやニュージーランドはもちろん、イギリスにおいてもロンドンだけではなくマンチェスターやグラスゴー、時にはアイルランドのダブリンやスイスのチューリッヒまで脚を伸ばすなど、積極的に各地を巡業し、アメリカはネバダ州ラスベガスでPPV大会を開催したこともあった。

WWAは世界ヘビー級とインターナショナル・クルーザー級選手権を認定していた。ハードコア選手権も初代王座決定戦は行われましたが、試合直後に早速封印された。

TNAとも友好関係にあり、当時TNAが管理を任されていたNWA世界ヘビー級王座もWWAの大会で防衛されることがあった。

だが、プロレスの興行の経験がない人物による運営で、それもPPVのみで定期的なテレビ中継がなかったという理由もあり、有名な選手を集めた割には興行成績は良くなかったという。

第二回のPPVではジェフ・ジャレットの保持する世界ヘビー級王座に挑戦予定だったランディ・サベージが欠場、代打を務めたのがブライアン・クリストファーだったことから、多くのファンは不満だったらしい。

更には旗揚げから約1年後の2002年11月、当時のヘビー級王者スコット・スタイナーがWWEに引き抜かれ、スティングとレックス・ルガーの間で王座決定戦が行われたものの、その頃のルガーは体調が思わしくなく、7分以上の試合は断っていた。シングル王座であるにも関わらず、スティングと組んでのタッグ形式での防衛戦が続き、そのスティングに王座を明け渡した試合もマリスとの3ウェイ戦だった。

2003年5月25日、ニュージーランドのオークランドで5度目のPPVにして最後の大会が開催されるが、この時既に団体閉鎖は決定していたようで、インターナショナル・クルーザー級王座はTNA・Xディビジョン王座、世界ヘビー級王座はNWA世界王座にそれぞれ統一。

こうして色々な団体の歴史を振り返ると、如何にロサンゼルスのWWAが重要だったか改めて実感させられる。世界ヘビー級王座がカリフォルニア州北部やネバダ、ハワイ、そして日本や韓国でも防衛されただけでなく、ジョージアやニューメキシコ、インディアナへも枝分かれしており、日本でもアメリカでも、今尚、時々「WWAなんて所詮ローカル王座に過ぎなかったと」いう意見を目にするが、全くそうではないということがお判りいただけたのではないだろうか。


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