1930年代の米プロレス界において、最も大きな出来事の一つとして、選手権管理団体の出現が挙げられる。1910年代以来、単発的に団体名が使われることはあったが、多くの場合プロモーターが陰で操りながらも、表面的には各州の体育協会が選手権を管理していた。ニューヨーク州のジャック・カーリーやペンシルバニア州のレイ・ファビアニなどが有名な例だろう。有力プロモーターが、友好関係にある他のプロモーター達と共に選手権管理団体を結成するのが盛んになったのは1930年代に入ってからだ。そして、それが世界選手権における更なる混乱の原因となる。
1929年1月、ボストン・ガーデンでエド・ストラングラー・ルイスを倒し世界ヘビー級王座に君臨したのは、同地を拠点としながら幅広く勢力を広げていたポール・バウザーが売り出していた元NFLのフットボール選手、ガス・ソネンバーグだった。バウザーはソネンバーグを中心とした、巡業用の『一座』を結成し、挑戦者やレフリーはもちろん、『ポリスマン』も同行させた。
だが、2ヶ月後の1929年3月頃になると、バウザーと友好関係にあったはずのアル・ハフトの本拠地オハイオ州コロンバスでは、ソネンバーグが「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由に、ジョン・ペゼックが世界王座を主張始めた。
バウザーと敵対していたニューヨークのジャック・カーリーも、一度はソネンバーグを認定していたが、挑戦者の大半がバウザーの息がかかった選手だという、カーリー派にとって不利な状況も続いたため、1929年7月には、ニューヨークとペンシルバニア両州の体育協会が、これまた「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由にソネンバーグから王座を剥奪。同年プロレスの試合の管理も始めていたナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA)もそれに続いた。8月、フィラデルフィアでディック・シカットがジム・ロンドスを破り、ニューヨーク州体協(NYSAC)とNBAの両方から世界ヘビー級王者に認定される。
ワールド・ボクシング・アソシエーション(WBA)の前身であるNBAは1921年1月、ペンシルバニアやオハイオ、ミズーリ、オレゴンなど15の州の体育協会から結成。その背景として、NYSACが米ボクシング界で権力を持ち過ぎたことに多くの州体協が反感を持っていたと言われている。NYSAC以外にもマサチューセッツとイリノイの州体協もNBAには参加しなかった。プロレスでは1929年、ボストンのバウザーの勢いに対抗するという目的で、一度は協力したかのように見えたNYSACとNBAだが、長続きはしなかった。
1930年1月、NBAはプロレスにおいても、試合を管理するだけではなく、独自の選手権や規約を設けることを決定し、ライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3階級世界王座決定戦を全てオハイオ州内で開催。ヘビー級もコロンバスで、同地区版王者ジョン・ペゼックとジム・ロンドスの間での王座決定戦が予定されていたが、ロンドスは自らが希望するフィラデルフィアやセントルイスでの試合でないことを理由に拒否、結果ヘビー級王座決定戦は中止となった。6月にフィラデルフィアでロンドスがNYSAC版王者シカットを破った際、NBAも認定。同年9月、NBAはプロレス部門がナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)として独立することを承認。だが新しく発足したNWAは、3ヶ月前にはNBAがロンドスを認定していたにもかかわらず、ヘビー級王座は空位だと発表。事実上、ロンドスはNYSACには引き続き認定されながらも、NWAからは王座を剥奪される結果となった。各プロモーターの主張でヘビー級戦線が混乱していたことが理由だが、ロンドスがカーリー派の選手であったということも大きな要素だったと思われる。
ジョン・ペゼックを王者に認定していたコロンバスのアル・ハフトもNWAから離れ、独自で世界王座を管理するため、1930年11月ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足。
更にボストンでも6月、バウザーが、NWAを通してロンドスを売り出そうとしていたと言われるセントルイスのトム・パックスとフィラデルフィアのレイ・ファビアニに対抗するため、アメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)を結成し、5月にカナダのモントリールでエド・ストラングラー・ルイスを反則勝ちで破ったヘンリー・デグレーンを正式にAWA世界王者として認定。
だが、カリフォルニア州体協(CSAC)はモントリオールでの王座移動を認めず、引き続きルイスを認定。ルイスは11月、シカゴでウラデック・ズビスコを破り、イリノイ州体協からも認定された。
1931年9月、結成1年のNWAは年次総会で改めてロンドスを世界王者に認定。
1931年後半には、少なくとも5つの選手権管理団体および州体育協会がそれぞれ世界ヘビー級王者を認定していた。
- NYSAC: ジム・ロンドス
- NWA: ジム・ロンドス
- AWA(ボストン): ヘンリー・デグレーン
- MWA(コロンバス): ジョン・ペゼック
- CSAC: エド・ストラングラー・ルイス
この中でも、CSACはボストンやニューヨークに合わせることが多く、MWAはオハイオ州を中心とした中西部という程度の規模だったので、実質NYSAC、NWA、AWAが3大王座だったと言えよう。
だが翌1932年4月、ニューヨークのジャック・カーリー派の主要選手だった世界ヘビー級王者ジム・ロンドスが突如として派を離脱。NWAは引き続きロンドスを認定したが、急激な勢力低下に襲われ興行面でも打撃を受けたカーリーは同年夏、ついにバウザーと和解する。10月、エド・ストラングラー・ルイスがジャック・シェリーを破り、空位となっていたNYSAC王座を奪取するが、翌1933年2月にはジム・ブラウニングに敗れる。この頃から、CSACもNYSAC王者を認定。また同1933年、ジョン・ペゼックが、ロンドス派に入ったことから、オハイオを中心に認定されていたMWA世界王座を返上した。
全米最大都市ニューヨークにおいて、もはやロンドスでさえも動員力が低下するほど混乱していた業界に危機感を持ったのか、1933年12月、全米の有力プロモーター達は和平協定を結んだ。1934年6月、NWA世界王者ロンドスがニューヨークに復帰し、NYSAC世界王者ジム・ブラウニングを破り両王座を統一するが、それでも興行成績は伸びなかった。1935年1月、マディソン・スクエア・ガーデンでロンドスがハリー・フィールズを相手に王座を防衛した際も、観客は4千人以下だった。

相変わらず最も稼げる選手として、その発言権も増し、対戦相手に「花を持たせる」ことも嫌っていたため、扱い難い存在でもあった。
プロモーター達は、ロンドスに代わるスターの発掘および育成に必死だった。ルー・ダロー(ロサンゼルス)はビンセント・ロペス、ニューヨークからロサンゼルスに移ったトゥーツ・モントはチーフ・リトル・ウルフやディーン・デットン、トニー・ステッカー(ミネアポリス)は元フットボール選手ブロンコ・ナグルスキー、モリス・シーゲル(ヒューストン)はダニエル・ブーン・サベージ、ビリー・サンドー(カンザス)はエベレット・マーシャル、そしてトム・パックス(セントルイス)はオービル・ブラウンやデビューして3年も経たないルー・テーズといった具合だ。和平協定を結んでいたとはいえ、結局は自分が売り出そうとしている選手に世界王座を獲らせるという思惑があるのは当然のことだった。
1935年3月、チーフ・リトル・ウルフの挑戦を拒否したことを理由に、CSACはロンドスに謹慎処分を下す。NYSACも他の州体協による処分に同意することとなっていたため、ロンドスはニューヨークとロサンゼルスの2大都市で試合ができなくなった。だが、ロサンゼルスのルー・ダローははリトル・ウルフを王者に認定せず、翌4月から大規模なトーナメントを開始し、新王者を認定することを計画していた。トーナメント実行委員会にはダローの他、ポール・バウザー(ボストンAWA)、ジャック・カーリー(ニューヨーク)、レイ・ファビアニ(フィラデルフィア)、トム・パックス(セントルイス)と、業界の重鎮が名を連ねていた。そして優勝者には、バウザーの管理するエド・ストラングラー・ルイスゆかりのベルトが授与されることになり、4月23日にはバウザー本人がわざわざボストンからロサンゼルスの会場に出向きベルトを披露、ダローに一任した。こういったことから、この時点では、おそらくトーナメントに優勝するのは、バウザーが時期世界王者候補に仕立てようとしていたダノ・オマホニーだと決まっていたとも考えられる。ロンドスもトーナメントに招待されたが、シカゴやデトロイトでの王座防衛で多忙だという理由で辞退。
70人参加と言われる大トーナメントが1935年4月に開始したが、5月下旬、優勝候補だったオマホニーが『負傷』を理由に突如トーナメントを棄権することがルー・ダローに告げらる。同じ頃、実行委員会がダローに協力するのを止め、ロサンゼルス以外の地区ではトーナメントに関する報道が減少した。
そして6月、ボストンでオマホニーがロンドスを破り、NYSACとNWAから王者に認定される。おそらく、引退を仄めかしていたロンドスがこの試合に出場することに同意したことから、AWAやNYSAC、NWAがロサンゼルスで開催中だったトーナメントに協力する理由が半減し、ダローを裏切る結果になったのだと思われる。ロンドスを認定していたオハイオ州のMWAは、オマホニーを認定せず、コロラド州で王座を主張していたエベレット・マーシャルを認定。
西海岸のロサンゼルスではトーナメントが続行され、1935年7月24日に行われた決勝で、元々ダローが売り出そうとしていたビンセント・ロペスがマン・マウンテン・ディーンを破り優勝、CSACから世界王者に認定された。
一方、東海岸のボストンでは数日後の7月30日、オマホニーがエド・ダン・ジョージを破りAWA王座も奪取し、3大王座を統一することになる。だが、不明慮な結末で、4万人集まった会場は暴動になりかけた。それを理由に、当初はジョージがベルトをオマホニーに渡すことを拒否し、王座を奪取したオマホニーにベルトが授与されないということもあったが、実際には、バウザーがルイスゆかりのベルトをロサンゼルスで開催中だったトーナメントのために貸し出したままでベルト不在だったというのが理由だ。オマホニーによる王座統一については、『ニューイングランドの世界王座(1)』も参考にしていただきたい。
テキサス州体協は、1936年2月に試合が予定されていたにも関わらず不出場だったオマホニーから王座はく奪を発表。5月、ダニエル・レオ・サベージを世界王者に認定した。他地区では引き続きオマホニーが認定。
だが1936年3月2日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ジャック・カーリーやポール・バウザーの派閥内で不満を抱えていた挑戦者ディック・シカットが、オマホニーから王座を強奪してしまう。シカットの背後には、ビリー・サンドー、アダム・ワイズミュラー(デトロイト)、アル・ハフト(コロンバス)といったプロモーター達がいたが、発案者はシカット自身だった。

ディック・シカットがダノ・オマホニーに「仕掛け」、王座強奪。
当然のことながら、ボストンのAWAは引き続きオマホニーを認定するが、王座移動の場所がニューヨークだったため、NYSACはシカットを王者に認定しざるを得なかった。その後、シカットと、カーリーやバウザーら東海岸のプロモーター達は、業界の裏事情を表面化させる程の法廷闘争に突入。バウザーの下でマッチメーカーを務めていたジョー・アルバレスと、コロンバスのアル・ハフトの間でシカットのマネージメント権が争われ、現世界王者シカットが有力プロモーター達による『トラスト』を分裂させる結果となった。
ハフトやワイズミュラーといったシカット側のプロモーター達は、ハフトのお膝元であるオハイオ州コロンバスで、既に世界王者として認定されていたエベレット・マーシャルにシカットの世界王座を獲らせることを目論んでいたが、争われていた法廷がコロンバスにある連邦裁判所であったため、シカットにオハイオ州内で試合をする許可が下りなかった。
シカット派は、いくら連邦裁判所だとはいえ、ミシガン州での試合に関しては、オハイオ州所在の裁判所にとっては管轄外だとし、デトロイトで選手権試合を強行。中東系移民の多い現地で売り出されていたのは、『アリ・ババ』のリングネームで活躍するアーティーン・エキジアンというオスマン帝国出身の選手だった。1936年4月24日、デトロイトでアリ・ババはシカットを破り世界王座を奪取。地元では新たに民族的英雄が誕生したとして大歓声を浴びたが、2日後、全米中の新聞に写真が載った際には、そのギミックにより笑い者になっていたという。翌5月、アリ・ババはニューヨークでもシカットを破り、NYSACからも認定。
1936年6月12日、ニュージャージー州ニューアークで、デーブ・レビンがアリ・ババに反則勝ちを収め王者に認定されるが、ハフトやワイズミュラーは王座移動を認めず、2週間後の6月26日、コロンバスでアリ・ババにエベレット・マーシャルを挑戦させ、当初の予定どおりマーシャルに王座を移動させる。だが、当時ボクシングはもちろん、プロレス界でも権威のあった『ザ・リング』誌は、レビンを真の世界王者として認定した。レビンは8月、ロサンゼルスで、CSACだけではなくメリーランド州体協からも認定されていたビンセント・ロペスも破り王座統一。
シカットに敗れた後も、AWAとNWAから世界王者に認定されていたオマホニーだが、1936年7月、モントリオールでイボン・ロベアにAWA世界王座を明け渡す。また、9月の年次総会で、NWAは再び王座空位を発表。
1936年9月28日、フィラデルフィアでディーン・デットンがデーブ・レビンを破る。デットンは10月、NWAからも世界王者に認定。その時点でもまだ4人の世界ヘビー級王者が存在したが、その頂点に君臨していたのはデットンだった。
- NYSAC、NWA、CSAC、メリーランド: ディーン・デットン (リング誌からも認定)
- AWA(ボストン): イボン・ロベア
- MWA(オハイオ): エベレット・マーシャル
- テキサス: ダニエル・レオ・サベージ
1937年4月30日、ジョー・リトル・ビーバーがヒューストンでダニエル・レオ・サベージを破り、テキサス州版世界王座を奪取。だが、2週間後の5月14日には、エベレット・マーシャルがビーバーを破り、王座を統一。

実力者でありながら、プロレスを競技として捉え過ぎていたと言われ、長期政権に至らなかった。
6月29日、ミネアポリスで、元フットボール選手ブロンコ・ナグルスキーがデットンを破り王座奪取、リング誌からも認定された。NWAはこの王座移動を認めず、9月の年次総会で、6ヶ月以内にナグルスキーかエベレット・マーシャルの挑戦を受けることを条件に、ジョン・ペゼックを王者に認定。
7月12日、一度は業界で最も権力のあったニューヨークのプロモーター、ジャック・カーリーが他界。9月にはポール・バウザー、1938年3月にはスタニスラウス・ズビスコが、単発的にマディソン・スクェア・ガーデンで興行したが、1949年2月まで同会場でプロレスが再開されることはなかった。
中西部一帯やテキサスおよびコロラド州などで認定されていたエベレット・マーシャルだが、12月29日セントルイスで世界王座から転落する。弱冠21歳、今尚史上最年少の世界ヘビー級王者として歴史に名を残すルー・テーズの初栄冠だった。11州の体協およびMWAから認定されたテーズは翌1938年2月11日、ボストンでイボン・ロベアの保持するAWA世界王座に挑戦する予定だったが、ロベアが拒否したため、AWAは1月25日付でテーズを認定した。翌2月、スティーブ・ケーシーがテーズを破りAWAとMWAから認定され、3月にはニューヨークのマディソン・スクェア・ガーデンでも王座を防衛した。夏の間、故郷のアイルランドに長期滞在していたため、9月頃にはMWAから王座を剥奪されたが、1940年代前半の殆どをニューイングランド地方にてAWA世界王者として君臨した。引き続きロベアを認定したモントリオ―ルでは、以降米国とは別に1950年代になっても独自の世界王者を認定することになる。

ルー・テーズ、7,354人の観衆の前で世界王座初栄冠。
なかなか世界ヘビー級王座が定着しなかったNWAだが、1938年8月、再びジョン・ペゼックから王座を剥奪し、9月の年次総会でエベレット・マーシャルを認定。それと入れ替わるかのようにMWAは翌10月、NWA王座を剥奪されたばかりのペゼックを王者に認定した。
11月18日には、フィラデルフィアでジム・ロンドスがブロンコ・ナグルスキーを破り世界王座に返り咲き、ペンシルバニアやメリーランドを含む東海岸中部、CSAC、およびリング誌から認定される。以後、1940年代中期に第一線から退くまで世界王者として活躍。
1939年2月23日、セントルイスでルー・テーズがエベレット・マーシャルを破り、NWA王座を奪取。MWAおよびAWAに続き、2度目の世界王座栄冠となる。6月23日にはヒューストンでブロンコ・ナグルスキーがテーズからNWA王座を奪取。
相変わらず混乱の中にあった世界ヘビー級選手権だが、1939年11月、これまでの団体とは全く別の世界王者が誕生する。
コネチカット州ブリッジポートでは、現地のプロモーターであるジョー・スミスが業界でも悪名高き策士ジャック・フェファーをマッチメーカーに起用し、地理的にはNYSACとAWAの間に挟まれながらも、独自の活動を続けていた。11月10日、ブリッジポートで世界ライトヘビー級王者モーリス・ボイヤーに挑戦したボビー・ブランズが王座を奪取するが、フェファーは突如ブランズを世界ヘビー級王者に認定し、ブリッジポートの定期戦だけではなく、ニューヨーク市内のリッジウッドでも王座を防衛させる。
1939年末の時点での世界ヘビー級王者は以下のとおり。
- リング誌、CSAC、メリーランド他: ジム・ロンドス
- NWA(ミズーリ、テキサス、ミネソタ他): ブロンコ・ナグルスキー
- AWA、NYSAC(?): スティーブ・ケーシー
- MWA: ジョン・ペゼック
- ブリッジポート: ボビー・ブランズ
他の4人が保持する王座と比べ、あくまで小規模だったブランズの王座だが、間接的ではあるにしろ、後のプロレス界に大きな影響を及ぼすこととなる。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- LegacyOfWrestling.com
- A Study of Danno O’Mahoney
- The Tale of Ali Baba
- St. Louis Globe-Democrat
- Brooklyn Times Union
