全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。
プロレスにおけるライトヘビー級は、1920年代までその存在がほぼ無に等しかったジュニアヘビー級よりも歴史が古い。だが、現時点での自分の調査で判明している範囲では、オハイオ州内で実際に選手権が現れ始めたのは20世紀に入ってからだ。それも今のところ1920年代に入るまでは、州内で定着したと言えるようなライトヘビー級王座は見つかっていない。
1905年6月14日、オハイオ州外の多くの新聞に、前日クリーブランドでクラレンス・ボルディンが英国王者ジェームス・バーを破って世界ライトヘビー級王者に認定という記事が掲載された。だが当時ボルディンは世界ミドル級王者として活躍中で、更にクリーブランドの地元紙には試合当日と翌日のいずれにもライトヘビー級王座に関する記述が見当たらないことから、おそらく各新聞共通の情報源が両階級を混同したのだと思われる。
20世紀に入ってから最初の十数年は、フレッド・ビール、チャールス・オルソン、『アメリカス』ことガス・ショーンラインが全国的に世界王座や米国王座を主張していた。また中西部ではチャールス・ハッケンシュミットやサムエル・マーバーガーらも米国王者を名乗っていた。だがオハイオ州内では、新聞上でアメリカスが世界王者として紹介されたり、オルソンが現地の選手達に対する挑戦状を投稿したという程度で、特に選手権試合らしきものは見つかっていない。1909年1月、イリノイ州シカゴでオルソンがビールを破り、翌1910年10月、同じくシカゴでアメリカスがオルソンを破るが、1914年3月にはミズーリ州カンザスシティにて、フランク・ゴッチ引退により空位となっていた世界ヘビー級王座の決定戦でアメリカスがビールに勝利したことから、この3人の流れを継ぐライトヘビー級王座はこの時点で終わったと思われる。

20世紀初期にアメリカス、フレッド・ビールらと同時に世界王座を主張。
その数年後の1921年2月、ニューヨークシティで元世界ヘビー級王者アール・キャドックが、ライトヘビー級王座主張者ジム・ロンドスを破り王座奪取。4月4日にはコロンバスでジョージ・コツォナロスを破り防衛した。1922年6月以降試合をしていなかったキャドックは1923年、35歳という若さで正式に引退。たった7年間という短くも濃いプロレス人生だった。
同年12月、デイトンでジョー・バルガが英国王者を名乗るチャーリー・フォックスを破り、世界ライトヘビー級王者に認定。翌1924年夏頃までは王座を保持していたが後にヘビー級転向、同年12月の時点ではオハイオ州ヘビー級王座を保持していた。
一方、コロンバスからから2,400km以上離れたワイオミング州シェリダンでは1923年1月26日、クラレンス・エクランドが世界王座主張者チャーリー・レントロップを破り、3度目の栄冠を果たしていた。オハイオ州では1924年、バルガがヘビー級に転向したためライトヘビー級王座が空位になっていたが、同年秋にはエクランドが同州でも世界王者に認定。1年以上保持した後、1926年2月にコロンバスでテッド・サイに敗れるが、4ヶ月後の6月に奪回。
1927年元旦にはコロンバスでアイラ・ダーンがエクランドから世界王座を奪取するものの、体重制限を維持することができず、夏には王座空位となった。8月24日、コロンバスでの王座決定戦でピンキー・ガードナーがエクランドを破り世界王者に認定。12月14日にはエクランドがガードナーから王座を奪取し、オハイオ州においても3度目の栄冠を果たす。
1920年代中期には、エクランド以外にもテッド・サイ、そして日本格闘技史にも名を残すアド・サンテルらが世界ライトヘビー級王者を名乗っていた。他にも世界王座を主張する選手は各地にいたが、この3人が当時の主要な王座主張者だったと思われる。1926年2月にコロンバスでエクランドを破ったサイは、6月に奪回されたにも関わらず、今度は地球の裏側オーストラリアで王者を名乗り続けていた。1928年、エクランドはオーストラリアに乗り込み、9月29日メルボルンで、あくまでサイへの挑戦者決定戦として行われた試合でサンテルを破り、10月6日には同じくメルボルンでサイにも勝利し、現地においても世界王者に認定。

1928年秋、オーストラリアで事実上の統一世界王座に君臨。
1930年1月、ナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA、WBAの前身)は、プロレスにおいても独自の選手権や規約を設けることを決定し、ライトヘビー級、ミドル級、ウェルター級の3階級世界王座決定戦を全てオハイオ州内で開催。米豪両国において統一世界ライトヘビー級王者として認識されていたエクランドもNBAからトーナメント参加を依頼されるが拒否。その後1931年か32年頃までモンタナ州で王者として紹介されることもあったようだが、間もなく引退する。4月4日にシンシナティで行われたNBA主催トーナメント決勝では、同年ライトヘビー級転向のため世界ミドル級王座を返上したばかりのヒュー・ニコルズがジョー・バナスキーを破り優勝した。9月になると、NBAのプロレス部門はナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)としてNBAから独立。
NBAのプロレス世界王座決定戦開催に協力したコロンバスのアル・ハフトだったが、ヘビー級王者認定に関してNWAと意見の相違が生じ、10月末にはNWAを脱退、ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足した。MWAは1931年1月1日、コロンバスで世界ライトヘビー級王座決定戦を開催、ニック・ボジニスを破ったジョー・バナスキーが世界王者に認定された。
1934年2月28日にはコロンバスでチャーリー・フィッシャーがバナスキーを破り王座奪取。1929年1月イリノイ州シカゴでジョニー・マイヤースから世界ミドル級王座を奪取したフィッシャーは、1930年になると世界ライトヘビー級王者を名乗り、イリノイ州やアイオワ州、更にはカリフォルニア州ロサンゼルスでも王座を防衛していた。1934年にMWA王座を奪取してからは、ニュージャージー州やペンシルバニア州など東海岸でも防衛。

1930年代、NWA認定ではなかったにしろ全米を股にかけて世界ライトヘビー級王者として活躍。
またフィッシャーは、1934年12月にミシガン州デトロイトで行われた世界ライトヘビー級王座決定トーナメントにも優勝。ただ、当時のデトロイトはアル・ハフト傘下にあったのか、以降同王座は、多少ずれはあるものの、MWAとほぼ同じ選手達が同時期に奪取している。
1930年代後半には、主にビリー・ワイドナー、ザ・グレート・メフィスト、そして後にMWA認定のほぼ全ての王座を奪取することになるフランキー・タラバーらの間で王座が移動。彼らもまた、デトロイト版王座を似たような時期に保持していた。
デトロイト版は1939年9月の時点でジョージ・デュセットが保持していたが、「コロンバスで開催されたMWA会議でデュセットが初代ジュニアヘビー級王者に認定」という発表のもと、ライトヘビー級王座がジュニアヘビー級王座に改称。だがMWAが正式に世界ジュニアヘビー級王座を新設したのは3ヶ月後の12月のことだった。以降しばらくの間オハイオ州でライトヘビー級王座との両立が続く。
1943年9月デイトンで、当時の王者ウォルター・ロキシーを破ったボブ・カミングスがライトヘビー級王座を奪取するが、間もなく第二次世界大戦で海外派遣される。戦後帰国してからも引き続き認定されるが、1946年4月25日にコロンバスでジョニー・デムチャックから世界ジュニアヘビー級王座も奪取。5月にカミングスがライトヘビー級王座を返上した際、同王座は封印され、15年の歴史に幕を閉じることになる。
戦後、米国の大半の地区でライトヘビー級以下の階級が姿を消したが、オハイオ州も例外ではなかった。
資料元:
- Wrestling-Titles.com
- The Columbus Dispatch
- Plain Dealer (クリーブランド)
- Cincinnati Post
- The Akron Beacon Journal
- Dayton Daily News