オハイオ州の世界王座(2)

世界ミドル級選手権

カテゴリー: 各地区版世界選手権

全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。

他地区同様、オハイオ州でも1930年代まではライトヘビー級以下の中軽量級選手権が認定されていたが、体重が上になるほど世間の注目度が高かったのか、全国的にミドル級はウェルター級に比べると世界王座が乱立していたようだ。

現時点での自分の調査で判明している範囲では、オハイオ州にて最初にミドル級王者として認定されたのはエドウィン・ビビーだ。

英国ランカシャーで、126ポンド級(後のフェザー級)王者に君臨したビビーは1879年に渡米。1881年1月には、ダンカン・C・ロスを破り、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにおける初代米国ヘビー級王者となるが、この頃は体重階級も曖昧なことが多く、そのうえ主要選手達も第二次世界大戦後の1950年代や60年代に比べると小柄で、後に世界ヘビー級王座に君臨するゲオルグ・ハッケンシュミットやフランク・ゴッチでさえも公表していた体重は100kg以下だった。また、ビビーは1884年1月14日にニューヨークでマツダ・ソラキチとも対戦し、日本人初のプロレスラーのデビュー戦でも勝利している。

ビビーは1886年6月28日、シンシナティで行われたミドル級選手権試合でジェームス・フォークナーを破る。地元紙では米国王座となっていたが、フォークナーが英国王者を名乗っていたこともあってか、他地区の新聞では世界ミドル級選手権だと報じられた。『米国と世界』でも書いたとおり、19世紀後半から20世紀初期にかけて現れた選手権の多くが、場所や日時によって世界王座もしくは米国王座と書かれており、これもまた例外ではない。ビビーは1887年10月28日、ニューヨーク州バッファローでマツダを破った試合を最後に翌年引退。

エドウィン・ビビー
初代米国キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ヘビー級王者

1893年になると、ニューヨーク州王者エド・アサートンが米国王座を主張し、間もなく世界王者を名乗り始める。1894年1月にはニューヨーク州やペンシルバニア州でジョー・キャロルやトム・コナーズといった他の世界王座主張者達に敗れるが、引き続き王座を主張し、1895年にはクリーブランドにも世界王者として登場する。約7年間オハイオ州やニューヨーク州西部を中心に王者として活躍するが、1903年2月、ペンシルバニア州西部でフレッド・バースに敗れ王座転落。翌1904年1月15日にニューヨーク州バタビアで奪回するが、3日後の1月18日、同州バッファローでウォルター・ウィラビーに王座を明け渡す。

ウォルター・ウィラビー
1904年から約7年間、オハイオ州やニューヨーク州西部で世界王者として活躍。

この頃には州内で複数の選手が世界ミドル級王者を名乗っていた。

1901年8月、クリーブランドでクラレンス・ボルディンがエド・ケリアンを破りオハイオ州王座を奪取したが、1905年に入ると世界王座を主張。オハイオ州だけではなく、ミネソタ州、ニューヨーク州西部、メリーランド州などでも王座を防衛していたことから、それなりに人気はあったのだろう。約4年間保持した後、1907年12月、前年フランク・ゴッチを破り短期間だが米国ヘビー級王座に就いたフレッド・ビールに敗れる。ビールはこの頃世界ライトヘビー級王者として活躍していたので、このミドル級王座奪取は単発的で一度も防衛しなかった可能性が高い。

1909年4月28日、クリーブランドで米国王者ヘンリー・ゲーリングがカナダ王者を名乗るチャールス・コンクルを破り世界ミドル級王者に認定。その後もクリーブランドを拠点に、他の王座主張者達を破り統一を続ける。1910年3月にはクリス・ジョーダン、12月には1904年にエド・アサートンから王座を奪取して以来保持していたウォルター・ウィラビー、1912年12月にはマイク・ヨークルと、ミドル級における強豪達に次々と勝利していった。だが、1913年2月にユタ州ソルトレークシティーでヨークルに敗れ王座転落。

ヘンリー・ゲーリング
1909年に栄冠後3人の主張者達にも勝利し王座統一、合計約4年間ミドル級王者として君臨。

1915年5月には、東海岸一帯で世界ミドル級王者を名乗っていたジョー・ターナーがオハイオ州でも防衛。翌1916年3月、オハイオ州ニューアークでポール・バウザーがターナーを破り王座奪取。『ニューイングランドの世界王座(4)』にも書いたが、バウザーは1921年後半、マサチューセッツ州ボストンに移住し、翌1922年1月には同地にて興行を開始。同年プロモーター業に専念するため王座を返上したと言われるが、オハイオ州とのつながりを利用しながら、1960年3月に他界するまでニューイングランド地方だけではなく全米に大きな影響を及ぼす大プロモーターとなる。

バウザーが王座を奪取した翌1917年2月、コロンバスにソー・オルソンが「1910年にボストンでヤング・ハッケンシュミットを破りインターナショナル156ポンド級王座を奪取した」という触れ込みで登場。約1週間後には同地でヤング・ゴッチなる選手に敗れ王座転落。このヤング・ゴッチとは、翌1918年からコロンバスで興行を開始し、1948年7月にはナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)発足時の一員として名を連ね、その重鎮の1人として1950年代にはペンシルバニア州西部やメリーランド州、ウェストバージニア州といった近隣の地区にまで選手を派遣していたアル・ハフトだ。ただし、その後ハフトが王座を防衛していたという記録は今のところ見つかってないことから、単発的なものだった可能性は高い。ちなみに、ハフトの『ゴッチ』という名に対するこだわりが、1961年1月に当時ハフトの下でカール・クラウザーとして試合をしていたカレル・イスターツ(イスタス)がカール・ゴッチにリングネームを変更したきっかけになったと思われる。

ボストンに活躍の地を移したバウザーが世界ミドル級王座を返上したと言われる1922年、ジョニー・マイヤースが王者として全米各地で防衛開始。中西部で王者として活躍していたマイヤースは8月3日にカリフォルニア州ロサンゼルスで、主に西海岸を中心とした米国西部で王者に君臨していたウォルター・ミラーを破り王座統一。1923年9月にはコロンバスにも登場し、サム・クラッパムを破り王座防衛。

1924年4月16日には、コロンバスにてマイヤースとクリス・ジョーダンとの間で防衛戦が予定されるが、マイヤースはなんとその2日前、アイオワ州シーダーラピッズでヒュー・ニコルズに敗れ王座から転落してしまう。反則負けだったという理由で、それ以後もマイヤースは王座を主張し続けるが、コロンバスではこの王座移動が認められ、16日に予定されていた選手権試合にはマイヤースの代わりにニコルズが出場し、勝利したジョーダンが王座を奪取。

一方クリーブランドでは、1926年1月の時点でも引き続きマイヤースが認定されていたが、同年3月にはジョーダンがクリーブランド・ボクシング・コミッションから正式に世界プロレス王者として認定。だが1926年末になると、ジョーダンはミシガン州デトロイトに拠点を移し、主に米国王者として活躍し始めたので、オハイオ州で認定されていた世界王座は空位になったと思われる。

ジョニー・マイヤース
1920年代に全米各地で王座を防衛。

翌1927年には、相変わらずワシントンDCを中心に東海岸で王座を防衛し続けていたジョー・ターナーがコロンバスに再登場。ただし、翌年になると同地でターナーが王者として紹介されていなかったことから、これもまた単発的なものだと思われる。

1928年8月7日、イリノイ州シカゴで同州体育協会認定の世界王座決定戦が開催、ガス・カリオがチャーリー・フィッシャーを破り王者に認定。早速2週間後の8月22日にコロンバスでターナーにも勝利するが、あくまでカリオによる防衛戦だった。

1929年2月8日、シンシナティでヒュー・ニコルズがカリオから王座を奪取するが、カリオは引き続き王座を主張。翌1930年、ニコルズはライトヘビー級転向のためミドル級王座を返上、ナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA、WBAの前身)認定世界プロレス王座決定トーナメントに出場し、4月4日にシンシナティで行われた決勝でジョー・バナスキーを破り優勝。以後ライトヘビー級において一時代を築くことになる。

ミドル級王座を主張し続けていたカリオも同じくNBAのトーナメントに出場。3月21日にシンシナティで行われた準決勝でラルフ・パークァット、9日のコロンバスでの決勝ではレイ・カーペンターを破り優勝、改めて世界ミドル級王者に認定される。同年9月、NBAのプロレス部門はナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)として少なくとも表面的にはNBAから独立。

ガス・カリオ
初代NWA(アソシエーション)世界ミドル級王者

NBAのプロレス世界王座決定戦開催に協力しながらも、ヘビー級王者認定に関するNWA(アソシエーション)と意見の相違から1930年10月にはNWAを脱退しミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足したアル・ハフトだったが、NWAとは別にミドル級王座を認定することはなかった。ただし、1933年8月にコロンバスで世界ジュニアミドル級王座決定戦を開催、ジョー・パレリに勝利したビリー・ソムをMWA認定王者とした。更にソムは翌1934年4月26日、コロンバスでワイルドキャット・マッキャンを破りNWAからも認定。1934年6月4日にはクリーブランドでエベレット・ラッタンに敗れるが8月8日にコロンバスで奪回、1940年代半ばまで王座を保持した。その後は1955年までNWA(アライアンス)の会員としてインディアナ州インディアナポリスでプロレスの興行を続けた。

一方NWA(アソシエーション)世界ミドル級王者カリオは、ハフトのお膝元コロンバスでの記録こそ見つかっていないが、アクロンやマリオン、サンダスキー、カントンといった、コロンバスより北の地域では少なくとも1938年9月までは防衛を続けていたようだ。その約4ヶ月後の1939年1月19日、メキシコシティでオクタビオ・ガオナがカリオを破り王座奪取。2週間後の2月2日、同じくメキシコシティでカリオはタルサン・ロペスとの挑戦者決定戦にも敗れ世界王座戦線から脱落。その後ルイジアナ州モンローに定住し、1959年に脳梗塞により余儀なく引退するまで約20年間プロモーターとして活躍するが、回復することなく、1962年3月2日にモンローのホテルの一室にて拳銃で自らの命を絶った。

1939年にカリオがメキシコに残していった世界ミドル級王座は、NWA(アソシエーション)が認定し続けながらもエンプレサ・メヒカナ・デ・ルチャリブレ(EMLL、現CMLL)管理下になり、EMLLが加盟した1952年以降のNWA(アライアンス)世界王座時代を経て、2010年に『NWA世界ヒストリック王座』に名称を変更されるまで合計60年以上メキシコに定着することになる。


資料元:

  • Wrestling-Titles.com
  • The Columbus Dispatch
  • Plain Dealer (クリーブランド)
  • Cincinnati Post
  • Monroe Morning World

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