オハイオ州の世界王座(5)

世界ヘビー級選手権 (前編)

カテゴリー: 各地区版世界選手権 , 世界ヘビー級選手権

全米50州で7番目に人口の多いオハイオ州は、中西部に位置し、ミシガンやペンシルバニアを含む5つの州に囲まれ、北は五大湖に面している。最大都市のコロンバスはアル・ハフトの指揮の下、1920年代から1960年代の前半までは米国プロレス界における主要都市の1つだった。その他の都市としては州北部でエリー湖に面したクリーブランドや、ケンタッキー州との境にあり同州ルイビル、コロンバス、そしてインディアナ州インディアナポリスの丁度間くらいに位置するシンシナティがある。

米国プロレス界でヘビー級が最も注目されるのは昔も今も変わらない。その分、王者を名乗る選手も多く、統一や分裂も繰り返された。

現時点での自分の調査で判明している範囲では、オハイオ州に初めて登場した世界ヘビー級王者はティーボー・バウワーだ。1875年12月11日、ニューヨークでアンドレ・クリストルを破り世界グレコローマン王座に認定。3週間も経たない12月29日、同じくニューヨークでクリストルに敗れるが、1876年3月21日にミズーリ州セントルイスで奪回。同年8月29日には、シンシナティで米国王者ウィリアム・ミラーの挑戦も退けた。1880年1月にニューヨークでウィリアム・マルドゥーンがバウアーを破り、以後10年近く米国プロレス界の頂点に君臨する。

オハイオ州で世界王座決定戦が初めて行われたのは、おそらく1883年のこと。9月10日、クリーブランドにて、3人参加巴戦による世界選手権が開催された。各組合せでキャッチ・アズ・キャッチ・キャン式とカラー・アンド・エルボー式の2試合ずつ、合計6試合というルールで、ダンカン・C・ロスがデニス・ギャラガーとマーバイン・トンプソンを破り優勝、混合ルールにおける世界王者に認定された。また11月29日から12月1日までの3日間、今度は前述の3人にE・O・プーラーを加えた4人、更にはサイドホールド形式も加えた3種目でのリーグ戦による世界選手権がクリーブランドで行われ、ここでもロスが優勝した。以後、ロスは少なくとも合計3度同王座を奪取するが、1893年11月12日、イリノイ州シカゴで、もう1人の王座主張者である元祖『ストラングラー』エバン・ルイスに敗れる。1887年以来世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者として活躍してきたルイスは、その後もキャッチ王者として活躍するが、1895年4月にシカゴでファーマー・バーンズに敗れ王座転落。1897年10月にはインディアナ州インディアナポリスでダン・マクラウドがバーンズから王座奪取。

1893年春頃には、シンシナティを中心にチャールス・ウィットマーが世界グレコローマン王者を名乗り始める。1898年12月に同地でハリ・アダリに敗れるが、その後も1903年まで王座を主張。1904年1月の時点では、単にシンシナティ市王者として紹介されていた。

1898年5月5日、クリーブランドでキャッチ・アズ・キャッチ・キャン形式とグレコローマン形式による混合ルールの世界選手権試合が行われ、ヨーロッパ王者を名乗るイスマイル・ユーソフが米国王座を主張していたトム・ジェンキンズを破った。同年6月20日にはイリノイ州シカゴでエバン・ストラングラー・ルイスも破ったユーソフは、その後里帰りするために『ラ・ブルゴーニュ』に乗りヨーロッパへ向かう。だが同船は7月4日、衝突事故で沈没し、ユーソフは帰らぬ人となった。

翌1899年6月、ペンシルバニア州ピッツバーグで、相変わらず米国王者を名乗っていたジェンキンズはモラディ・アリを破り世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者に認定される。1901年11月にはクリーブランドでもう1人の王者ダン・マクラウドを破り王座統一。1902年12月にマサチューセッツ州ウォースターでマクラウドに王座を奪われるが、1903年4月にニューヨーク州バッファローで奪回。1905年5月にはニューヨークにて、ヨーロッパやオーストラリアで世界グレコローマン王者に認定されていたゲオルグ・ハッケンシュミットがキャッチ・アズ・キャッチ・キャン形式の試合でジェンキンズを破り、米国でも世界王者に認定される。

トム・ジェンキンズ
ゲオルグ・ハッケンシュミットによる世界王座統一以前に世界キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者として活躍。

ハッケンシュミットは約5年間統一王座に君臨した後、1908年4月3日にイリノイ州シカゴでフランク・ゴッチに敗れる。世紀の一戦として知られるその試合は4月27日にクリーブランドのスター・シアターでも上映された。ゴッチは1911年11月20日、クリーブランドで宿敵フレッド・ビールを相手に2本ストレート勝ちで世界王座を防衛。

ゴッチ引退後の1910年代後半に再び世界王座は分裂するが、1920年1月にニューヨークでジョー・ステッカーがアール・キャドックを破り王座統一。その後オハイオ州でもステッカー、エド・ストラングラー・ルイス、スタニスラウス・ズビスコらが世界王座を防衛した。

1929年1月、ガス・ソネンバーグがルイスから王座を奪取すると、マサチューセッツ州ボストンのプロモーターでソネンバーグのマネージャーでもあったポール・バウザーが世界王座を独占しているということから、再び王座が分裂し始める。詳しくは『1930年代の世界ヘビー級選手権』に書いたが、バウザーはソネンバーグを中心とした巡業用の『一座』を結成し、挑戦者やレフリーはもちろん、『ポリスマン』も同行させ、現在のプロレス団体の原型なようなものを創りつつあった。それが原因か、2ヶ月後の1929年3月頃になると、バウザーと友好関係にあったはずのアル・ハフトの本拠地コロンバスでは、ソネンバーグが「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由に、ジョン・ペゼックが世界ヘビー級王者を名乗り始めた。

1930年1月、ナショナル・ボクシング・アソシエーション(NBA、WBAの前身)は、プロレスにおいても独自の選手権や規約を設けることを決定し、ライトヘビー級ミドル級ウェルター級の3階級同様、ヘビー級も世界王座決定戦がオハイオ州内で予定された。4月9日にコロンバスにて既に現地で世界王者に認定されていたペゼックとジム・ロンドスが対戦することになっていたが、無期延期となった。公の理由はペゼックの鎖骨骨折ということだが、実際にはロンドスが、自分の息のかかったミズーリ州セントルイスかペンシルバニア州フィラデルフィア以外での王座決定戦を拒んだからだという説が強い。NBAは改めて6月6日フィラデルフィアでの試合を決定。だが、ロンドスの対戦相手に選ばれたのはペゼックではなく、ディック・シカットだった。

9月にはNBAのプロレス部門がナショナル・レスリング・アソシエーション(NWA)としてNBAから独立するが、一連のヘビー級王座に関する問題の結果、ハフトは10月末にNWAを脱退し、ミッドウェスト・レスリング・アソシエーション(MWA)を発足。オハイオ州北部のクリーブランドではロンドスがNWA(アソシエーション)世界王座を防衛していたが、コロンバスでは1931年3月26日、ペゼックがマリン・プレスティナを倒しMWAから改めて世界ヘビー級王者に認定された。

だが1933年になるとペゼックはMWA世界王座を返上し、アル・ハフトと袂を分かちジム・ロンドス派に鞍替えした。コロンバス以外の地域ではロンドスが引き続き認定されていたが、MWAは1935年7月3日、当時コロラド州で世界王者を名乗っていたエベレット・マーシャルを認定。マーシャルは1936年6月コロンバスで、2週間前にニュージャージー州ニューアークでデーブ・レビンに敗れてからも世界王座を主張し続けていたアリ・ババも破る。一方ペゼックは、1937年9月のNWA(アソシエーション)年次総会で世界王者に認定された。

マーシャルはMWAとコロラド州だけではなく中西部一帯やテキサス州でも認定されていたが、1937年12月29日ミズーリ州セントルイスで世界王座から転落する。弱冠21歳、今尚史上最年少の世界ヘビー級王者として歴史に名を残すルー・テーズの初栄冠だった。11州の体育協会およびMWAから認定されたテーズは1ヶ月後の1938年1月25日、マサチューセッツ州ボストンを拠点とするアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)からも認定。翌2月、スティーブ・ケーシーがテーズを破りAWAとMWAから認定される。

同年8月、NWA(アソシエーション)は年次総会で、「適格な」挑戦者と試合をしないことを理由にペゼックから王座を剥奪。それを受けるかのようにMWAは、夏の間故郷のアイルランドに長期滞在していたケーシーから9月頃王座を剥奪し、再度ペゼックを認定。だがその2年後の1940年6月21日、防衛戦を行っていなかったことを理由にペゼックは再度剥奪される。

約1週間後の6月27日、コロンバスでMWA世界王座決定戦が行われ、オービル・ブラウンがディック・シカットを破る。実はこの2週間前、ブラウンはカンザス州カンザスシティでボビー・ブランズから同名の別団体MWAが認定する世界王座を奪取していた。オハイオ州版MWA王座は1942年12月3日、51歳のエド・ストラングラー・ルイスがブラウンから奪取。約2ヶ月後の1943年1月28日、ジョン・ペゼックがルイスを破り3度目の栄冠。

ペゼックが防衛を続ける中、1946年1月になると、ボストンのAWA世界王者フランク・セクストンもオハイオ州で防衛し始める。

1948年7月、アイオワ州ウォータールーで、同州デモインのピンキー・ジョージを中心に中西部のプロモーター達6人よってナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)が結成され、アル・ハフトも発足2ヶ月後の9月25日に正式加盟。初代NWA(アライアンス)世界王者に認定されたオービル・ブラウンは8月25日、コロンバスでラフィー・シルバースタインを破り王座防衛。

ジョン・ペゼック
本来ボクサー志望だったが母親の反対でレスラーに。伝説のシューターとしてプロレス史に名を残す。

本来NWA(アライアンス)では、同団体の選手権のみを世界王座として認定することを会員に求められていたが、副会長であるにも関わらず、ハフトはMWAとAWAの世界王座も認定し続けた。同年12月16日に行われたコロンバス大会ではMWA王者ペゼックとAWA王者セクストンの両世界王者が参戦。だがペゼックはその防衛戦を最後に、約6年保持したMWA王座を1949年に返上した。

一方、州北部のトレドではプロモーターのクリフ・モーピンが1949年4月、カリフォルニア州南部を拠点としていたジャック・フェファーをブッカーに起用。一部のプロモーター達から『業界の癌』とまでいわれた悪名高いフェファーは、自ら認定する世界王者バディ・ロジャースやその他の選手達と共に拠点をロサンゼルス地区からトレドに移した。その後フェファーの認定する王座は、ロジャースの他にも元世界王者デーブ・レビンやザ・デーモン(ジャック・オブライエン)らが奪取し、1951年2月までトレドやアクロンで選手権試合が行われた。

1950年5月23日、クリーブランドでドン・イーグルがセクストンからAWA世界王座を奪取。だが3日後の26日、イリノイ州シカゴで行われたノンタイトル戦で、レフリーによる高速カウントでゴージャス・ジョージに敗れる。シカゴでは1925年からフレッド・コーラーがプロモーターだったが、1950年1月、NWA(アライアンス)は同地区においてペンシルバニア州フィラデルフィアのレイ・ファビアニの協力を得たレナード・シュワルツにもNWA会員として興行することを許可。それまでコーラーに選手を派遣していたアル・ハフトだったが、それ以降シュワルツにも派遣し始めたことからコーラーは難色を示す。コーラーの興行はデュモン・ネットワークを通して全米に中継されていたため、AWA世界王座奪取3日後のイーグルにテレビ中継で恥をかかせるという目的で、コーラーがレフリーに指図したという説がある。イーグルは8月31日にコロンバスでの再戦でジョージを破りAWA王座を防衛し、その後もAWAとMWAの両方から世界王者として認定される。

チーフ・ドン・イーグル
米国先住民の選手としては初めて主要世界王座を奪取。

1952年5月1日、ペンシルバニア州ピッツバーグでビル・ミラーがイーグルを破る。現地の新聞記事に選手権に関する記述が無いことから、おそらくノンタイトル戦だと思われるが、オハイオ州やケンタッキー州の一部では王座移動と報道された。ニューイングランド地方では引き続きイーグルが認定。また、この頃NWA(アライアンス)は、独自で世界ヘビー級選手権を認定していた加盟プロモーター達にNWAの世界王座のみを認定するよう最終通告を出し、コロンバスでは同地で常連だったにも関わらずミラーが新世界王者として紹介されることはなく、MWA世界王座は消滅。だがその後もオハイオ州の一部ではミラーがAWA世界王者として認定され、同年9月2日にはデイトンでドン・アーノルドに王座を明け渡す。

アーノルドはデイトンで10月7日にも王座を防衛したが、2日後の10月9日にはコロンバスでバディ・ロジャースがAWA王者として紹介される。前日ロジャースはペンシルバニア州ランカスターでジョニー・バレンタインと対戦していることから、架空の王座移動だということになる。また、NWAからの通告もあってか、10月にはロジャースが東部ヘビー級王者に認定される。コロンバスではMWA王座に続きAWA王座も消滅し、以後東部選手権が現地の主要ヘビー級王座となるが、クリーブランドでは引き続きロジャースがAWA王座を防衛。1953年3月5日、クリーブランドでアントニーノ・ロッカがロジャースから王座を奪取し、約1ヶ月後の4月9日にはロジャースが奪回。

だが5月18日、ラフィー・シルバースタインの挑戦を受けないことを理由に、クリーブランドのコミッションはロジャースから王座を剥奪する。5月21日から5週間に亘り新王者決定トーナメントが開催される予定だったが、コミッションが大量の無料券を配り過ぎたことから、利益にならないとして現地のプロモーターがトーナメントを含む夏までの大会を全て中止にしてしまう。この時点でオハイオ州におけるAWA(アソシエーション)世界王座は封印となり、以降、オハイオ州全域においてもNWA(アライアンス)世界王座が最高峰として認識されることになる。

ちなみにシンシナティでは1956年6月、短期間ながらボボ・ブラジルが世界黒人ヘビー級王者として登場。6月15日にシャグ・トーマス敗れるが翌週6月22日には奪回。あくまで多くの州で人種差別が禁止されてなかった時代の王座で、当時ビリー・ワトソンが保持していたNWA(アライアンス)世界選手権とは全く別扱いだった。

一度は落ち着いたかと思われたオハイオ州の世界ヘビー級選手権だったが、1960年代に入ると再び王座乱立の時代に突入する。


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